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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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今回紹介させて頂くのは、陸軍大臣にもなり、戦後、東京裁判で東条英機等と共に死刑となったA級戦犯の一人・板垣征四郎の回顧録『秘録 板垣征四郎』の紹介です。
さてこの本の装丁ですが、信州産の手漉き和紙に何かの葉っぱ(本物)がスキ込んであるという凝った物になってます…って、『秘録永田鉄山』と一緒かいな_| ̄|○ この装丁、信州出身の永田スペシャルだと思ってたのに…。
なお、芙蓉書房からは『秘録永田鉄山』『秘録板垣征四郎』そして以前紹介した『秘録石原莞爾』と秘録シリーズ(^^;)が3つ出版されましたが、何故か他の軍人については秘録シリーズは作成されなかったようです_(。_゜)/ そして、永田と板垣については関係者を中心とした刊行会によって作られましたが、石原については陸軍幼年学校と士官学校の同期であった横山臣平の回想という形になっています。

…脱線したので元に戻る。
この人は今まで拙ブログでも何回も登場しましたが、満州事変の首謀者の一人として今田とは非常に関連のある人物でもあります。が、今までいろんな本とか読んだ限りでは、石原莞爾と違ってそれほど親しいとは見えないわけです。また、今田の親友・中江丑吉の元には多田駿や岡本寧次ら様々な軍人が出入りしていたことが知られていますが、板垣は一時支那派遣軍総司令官も務めていたにもかかわらず、中江の所を訪問した形跡がありません(※ただし若い頃の板垣は、中江を囲む勉強会に参加していた(中江丑吉年表など))。
果たして今田と板垣の関係はどの程度の物だったのか?以前から気になっていて、板垣征四郎の関連本と言えばどうもこれくらいしかないようで(^^;)入手してみました。
ざっと一読した程度ですが、今田にかかわる記述はかなり多かったです。特に興味深かったのは巻末に参考資料として付された「巣鴨日記」。タイトルから分かるように、東京裁判中に収監されていた巣鴨プリズンで判決のその日まで書き綴られた日誌です。と言う事で、紹介箇所がかなり多い為、回想録などの紹介を今回(前編)、巣鴨日記の紹介を次回(後編)で行う予定です。


まずご存じの方も多いですが、板垣征四郎の人となりをざっと
・1885年(明治18年)1月21日、岩手県生まれ 生家は南部藩で漢学者を代々勤めた名門だったが、南部藩が奥羽越列藩同盟に参加した為に敗者となり、以後は不遇をかこっていた。(p.88)
・7人兄弟の三男。(p.88)「征四郎」だから四男だと思ったのだが違うのね(^^;) ※最も後掲の写真の注記から見て、上にもう一人兄がいた可能性もあるが…
・兄弟は長兄・賛三→工学博士、南方で司政長官も務める、キリスト教の運動にも深く関わる 次兄・政参→医学博士、九州大学教授、久留米大学創設者の一人 弟・盛→海軍少将 姉・ふさ→盛岡農学校校長・藤根春吉の妻(p.88) なかなかのエリート一家
 三男政参、次男賛三、そして征四郎の学生時代 賛三夫妻と征四郎夫妻 
・征四郎を産んだ直後に母は死亡、更に公務員であった父は転勤が多く、そのため祖父母によって養育された。祖父は征四郎に漢学の素読を仕込むなど漢学一家に相応しい教育を行った(p.88)
・1897年(明治30年)、盛岡中学入学 三年上に米内光政、一年上に金田一京助、田子一民(衆議院議長)、郷古潔(三菱重工業社長)、及川古四郎(海軍大臣)、野村胡堂(「銭形平次」の原作者)、一年下に石川啄木がいるというそうそうたるメンバーの中で成長する。(p.89)このうち何故か米内とは晩年まで仲良かったそうなのだが、他のメンバーとはそんなに交流はなかったらしい。後述するように陸軍幼年学校に転校してしまったからだろうな。
  同窓会にて。向かって右が米内光政、左端が板垣
・1899年(明治32年)9月、仙台陸軍幼年学校に合格。この時に板垣の生徒監だったのが後に壮烈な戦死をして”軍神”といわれた大越兼吉で、後に板垣はこの大越の娘と結婚することになった(p.89)。
・1904年(明治37年)10月、陸軍士官学校卒業(陸士16期)。同期にはあの永田鉄山とか小畑敏四郎がいたが、成績が芳しくなかったらしい_(。_゜)/板垣は永田とか小畑に比べて目立たない存在だったようだ といっても20番台ならそんなに酷くもないのではとも思うが…(p.89)
  真ん中が永田鉄山、汽車に乗っているのが板垣
・成績はいまいちだったが、どうもそれを気にしている形跡はなかったらしい。陸軍大学校にも同期生の中ではかなり遅く合格(1913年(大正2年))したが、妻には「陸大に入ったのは出世の為ではなくて、支那問題で口がきける立場になる為だよ~」と言ってたとか(p.90)
・日露戦争では重傷を負うも一歩も後退しない活躍で、「連隊の華」(by今村均)といわれてたとか
・その後は希望かない主に中国関係に従事。
 1906年(明治39年)1月~ 天津駐屯歩兵連隊勤務
 1917年(大正6年)8月~ 参謀本部付(雲南省昆明派遣)
 1919年(大正8年)7月~ 漢口派遣隊参謀
 1922年(大正11年)~ 参謀本部兵要地誌班長兼陸軍大学兵学教官
 1924年(大正13年)6月~ 北京大使館付武官補佐官
 1928年(昭和3年)~ 津歩兵第33連隊長(奉天勤務)
 1929年(昭和4年)5月~ 関東軍高級参謀
以後の話は有名+後述するので略
大正8年の漢口勤務時代に石原莞爾も漢口勤務となり、この時に板垣と石原が盟友になったというのはかなり有名な話で、昭和4年に板垣を関東軍高級参謀に押したのは石原ではないかという説もあるくらい。 漢口時代の板垣(中)と石原莞爾(左)
大正11年からの陸軍大学教官時代には今田を教えていた可能性がある(稲田正純の証言より(p.222))。また、大正13年に北京大使館勤めをしていたときの部下に鈴木貞一がおり、この頃中江丑吉を囲む勉強会に参加していたことがある。
・若いときは美少年と言われたそうで、あの今村均も「花のような容姿」とか言ってるが…判断はみなさんにお任せしたい。→ 右上:幼年学校時代 右下:士官学校時代
・板垣の性格について、多くの人の回想に共通するのは「一見ぼーっとしているが部下に対する包容力があり、決断力がある」 鈴木貞一曰く「板垣は一言で言うと至誠の人であった。至誠を以て断行する人であった。彼は決して知謀の人ではない。智者から見ると愚物だと思われるであろう。(中略)彼には智者を付けると素晴らしい働きをする。その智者たる部下がいつでも生命を捧げて、彼のために尽悴する徳を備えていたと言うべきである。反面彼は、その智者たる部下のため誤られることもあり得る。部下を絶対に信頼して、その責任を自ら取るためその行動が矛盾して受け取られることがある。」(p.264)
・家族:妻・喜久子(先述したが幼年学校の教官・大越兼吉の娘)、長男・裕(早世)、次男・(シベリア抑留で辛酸をなめる、帰国後参議院議員)、三男・征夫、長女・喜世子、次女・美津子
・軍人達との関係:皇道派のボス・荒木貞夫は板垣が士官候補生時代に訓育を担当していた関係で巣鴨プリズンでも本を貸し借りするなど終始仲は良かった 石原莞爾は仙台幼年学校の後輩だが「天才」と言って尊敬していた(その割に莞爾の足を引っ張ったりもしていますが…) 東条英機との関係は微妙、巣鴨プリズンで弁護士達への謝礼代わりにA級戦犯一同で揮毫をしたのだが、その時板垣が東条の揮毫を見て一言「東条さんも立派な肚が出来て、公判の時の陳述も極めて立派であった」 あと意外なところで辻政信のことをとっても買っていたらしい_| ̄|○この辺は後述するかも

漢学者一家の出身という点は今田や石原莞爾と同じですね(ただ石原家は幕末に当主が早世したりなどで漢学素養は殆ど受け継げなかったようですが)。また意外だったのは、非常にキリスト教に関係のある家庭で、兄2人はキリスト教信者、親族には牧師になった人物もいた(p.361)こと。

では今田の関連記述から先にまいる 「つづきはこちら」をクリックお願いします

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9月19日午前11時過ぎ、関東軍司令官以下を乗せた軍用列車は、奉天駅のプラットホームに滑り込んだ。
ホームには、引き締まった青白い顔をした、小柄であるが精悍な体躯の参謀大佐が、参謀肩章を付けた多数の将校を従えて立っていた。
関東軍高級参謀板垣征四郎であった。
彼に従っているのは奉天特務機関の花谷少佐、今田大尉、奉天講武堂の教官矢崎少佐、須田、江崎大尉などであり、皆右肩から参謀肩章を釣っているのが、片倉以下には奇異に感じられた。というのは、花谷以下は正式の参謀職に命課されていないので、例え陸大出身であろうと、あの「綱」と言われた参謀肩章をつけることは違法であり、恐らく作戦指導に便利なため、板垣が便宜的に許可したのであろう。未だ縄を吊っていない、正式の参謀でない片倉は、「この野郎ども勝手なことをして」と、心中ひそかに思って眺めていた。
しかし花谷以下は、板垣を補佐して、昨夜来の大事件を処理して、今や意気軒昂たる表情をその顔に表していた。
p.35
<補足>
・花谷少佐:ミスタービッグマウスこと花谷正
・矢崎少佐:矢崎勘十 奉天への異動は実は今田と同時だったのだが、その裏事情はこの辺で書いた。
 ご尊顔はこちら
・須田大尉:分からないので、御教示お待ちしております
・江崎大尉:『本庄日記』では「江崎秀雄」山口重次の回想では「江崎義雄」として登場する人物かと
この「謎の金モール事件?」については何度も先述
9月22日、板垣大佐は今田新太郎大尉を吉林に出発させた。23日、今田大尉は多門第二師団長、大迫通貞顧問(中佐)などと会談し、新吉林政府を組織することを約束させた。大迫顧問は、24日奉天に来て、第二師団が吉林へ平和進駐してからの情勢、今後の企図について報告。その後、吉林独立の準備は熙洽は吉林省の反張学良政権の独立を宣言したのであった。
片倉衷の証言「吉林まず独立す」 p.56
この話も前に書いたように思うのですが()、未だに大迫通貞顧問という人物がどういう人なんか分かりません。鹿児島出身のカゴシマンヾ(--;)で最終的には中将まで進んだらしいことはネット検索で突き止めましたが。引き続き情報待ってます。
1932年3月、新国家の創建に伴って、関東軍は板垣により溥儀氏からの本庄将軍宛書簡を受領し、関東軍司令官の内面的指導権を確立したが、当時本庄将軍や石原の胸中には、この指導権の永続性については将来を予見して、各種の考慮が廻らされた。
そして私は石原の意を受けて、3月15日「対時局建言」として一案を起案し、本庄軍司令官、板垣、石原両参謀に提出すると共に、陸軍中央部の荒木陸相、小畑、永田の両少将、今田大尉、根本中佐などにこれを送付し、なお花谷、和知、森の各少佐、中野参謀にも配布した。
片倉衷の証言「協和会の創建」 p.68
これについては協和会代表だった山口重次も回想を残している。
<補足>
・本庄:ご存じ本庄繁
・板垣:もちろん板垣征四郎のことである
・石原:ご存じ石原莞爾
・荒木陸相:荒木貞夫 皇道派のボス・アラ~キ~。ヾ(--;)
・小畑:小畑敏四郎
・永田:永田鉄山
・根本中佐:根本博
・花谷:花谷正。この時定期異動で既に満州を去っていた(「本庄日記」)。
・和知:和知鷹二 この直後、自治指導部→資政局をめぐる騒動で追い出されたのはこの辺とかこの辺で既述。
・森:不明 情報待ってます。
・中野参謀:中野良次参謀 この直後の定期異動で、満州事変関係者では板垣と共に関東軍に残った数少ないメンバーとなった。この当時の膨大な回想録は『現代史資料〈第11〉続・満州事変』に所収されている。
1932年(昭和7年)7月25日、国務院に於いて発会式が挙行され、執政の論旨、本庄名誉顧問の訓辞があり、ここに歴史的な巨歩を踏み出すに至った。協和会員は王道主義の実践者として、民族協和の達成へと精進していったのである。
しかし当時今田新太郎大尉は、参謀本部部員に転勤していたが、現地満州、特に関東軍参謀部が「共和党乃至共和会」の創建を目論み、左傾化しているとの懸念から真相調査に駆けつけ、私の説明を聞いて釈然とした一幕もあった。
片倉衷の証言「協和会の創建」 p.71
この辺の話も前でたような…うーむどの辺で書いたっけ(ヲイ) この辺みたい

次に今田に直接関わりない話を箇条書きで
十河信二の回想
・十河が森恪(戦前の政友会所属の政治家、犬養道子の天敵w)の知己というか盟友だったのは有名な話だが、この時に森恪家に出入りしていた軍人に板垣征四郎や石原莞爾がいたという(p.106~107)。
・満州事変に関する十河の述懐「私は孫文の革命は支那統一の思想を中心としていたので、この事変は起こるべくして起こった張作霖軍閥の野望への攻勢であり、私利私欲のみに走る張軍閥の排日行為はアジアの平和を乱す物であり、ソ連に漁夫の利を締められるだけだと思っていた。孫文は既に満州は日本に任せても良いという意思表示をしている。日本がこれだけ排日行為に苦しめられているこの際最も困るのが満鉄である。張軍閥をたたく軍に協力するのは当然だと考えていた。」(p.107)
・昭和13年5月の内閣改造で板垣征四郎は陸軍大臣になった(それ以前に十河は近衛文麿に「陸軍大臣には板垣が良いですよ~」と推薦していた)。その後、十河が近衛に面会することがあったが、近衛は「板垣を陸軍大臣にしてみたが、一向駄目じゃないか」とボヤクので、十河は即座に「そりゃ総理が駄目だから板垣の大きさが分からないんだ。彼は棟梁の器であり、よき相棒が必要なのだ。例えば石原のような智者が必要なのだ。東条のような次官では犬猿の間柄であり、人材を駄目にして使う物だ」と答えたとか(p.109)
今井武夫の回想
・戦後A級戦犯として果てた人物のうち、土肥原将軍は地元の土匪を使ったりして直接実際工作を行った為「土匪元」とか「東洋のローレンス」だとか言われて謀略家として知られていたが、板垣将軍も満州事変をはじめ上海事件、綏遠事件などに関わった割には、幕僚や指導者の立場で参加したためか世間では余り謀略家と見られてないような(p.124)
・板垣は部下に対する包容力と責任感と決断で大いに精彩を発揮したが、それは日本軍の組織や機関を使った場合だけであって、現地中国人を使う場合はいまいちだったかも(p.125)
美山要蔵の回想 ※以前に書いた鈴木貞一の「石原莞爾が実は北支に色気を出していた話」と関連する話です
・板垣が第五師団長だったとき(昭和12年頃)、「山西を制する者は北支を制し、北支を制する者は全支を制す」という中国古来の通念に基づいて山西省攻撃を大本営に具申したが、中央は支那事変不拡大方針だったため進言は受け入れられそうになかった。そこで板垣はかつて満州事変でタッグを組んだ石原莞爾が参謀本部で第一部長だったことを思い出し、石原に「山西攻撃を許可してよ」と猛烈にアタックした。ところがご存じのように石原莞爾こそが不拡大方針の第一人者で、かといって板垣の申し出を無視も出来ず、困り果てて結局多田駿参謀次長にふってしまった。ところがご存じのように多田駿も不拡大派の一員であり、板垣の要望を受け入れなかったのだが、諦めきれない板垣は再三中央に働きかけて遂に山西出兵の許可を取り付けたのだった。しかし、第五師団を隷下に置いていた北支方面軍の司令官・寺内寿一は自分を無視した板垣の行為にカンカン。その後の作戦では方面軍内の連携を著しく欠く原因になったという…(p.137)
・昭和12年、その頃関東軍参謀だった辻政信は、関東軍司令官に請うて北支方面軍に派遣されてきた。そして北京の司令部に出頭して寺内寿一司令官に申告した…が辻はその後すぐに北京から出て第五師団(板垣が師団長をしている)に行ってしまった。辻が美山(文中では「第五師団のM参謀」と何故か伏せ字w)にぼやいたところでは「夕方だからか寺内さんは背広の平服だ、戦地でなんだあのざまは、実に憤慨に耐えん!」…寺内さんはのんびり型、辻は偏狭固陋な性格で全く合わなかったんだろう。辻が北支方面軍に来た真意は、第五師団に従軍したいぐらいの気持ちだったんではなかろうか(p.136)
辻伝説。
・かくいう美山自身も、当時は「師団参謀に飛ばされるのは左遷コース」というのが通説だったのに、志願して板垣の配下になったのだった。(p.137)
もしかして実は津野田も中央から煙たがられてたのかもヾ(^^;)
有末精三の回想
・昭和10年の春、板垣が関東軍参謀副長だった頃、十河信二と興中公司を創るために高橋是清蔵相を訪問した(ちなみにこの時板垣を高橋に紹介したのは永田鉄山だった)。その年の八月末、有末が葉山の高橋邸を訪問したとき、高橋は「茫洋としておるが、熱が入って中々粘られる方ですね、言葉は朴訥だが"とにかく、とにかく"の連発だ。興中公司の必要さがよく分かったよ」と板垣の印象を話した(p.150)
駒井も書いていたがともかく粘りの板垣。
額田坦の回想
・昭和13年8月に板垣は陸軍大臣に任命されるが、この時に板垣さんは自ら東条英機を次官に指名した。「板垣大臣の下に東条次官って( ゚д゚) ポカーン」という人が多いので(※ばんない注 先述の十河信二のことかな ボソ)ここで書くが、このことは阿南是幾(当時人事局長で、板垣陸相誕生の経緯を良く知っていた)にも後日確認したので間違いないんだってば。(p.204)
・その東条英機は就任後半年にして航空総監に転出してしまうが、この時板垣は直接東条を訪問して「次官を辞めてくれ」と要望した。が、東条は「多田(駿)参謀次長が次長を辞めない限り次官は辞めない、どうしても辞めさせたいなら俺を首にしろ」と言ったため、結局昭和13年12月に多田は牡丹江の軍司令官、東条は航空総監に出されてしまった(p.206)。
・昭和14年8月末、阿部信行内閣が成立すると板垣は陸軍大臣を辞め、その後任には侍従武官長だった畑俊六が入ったが、元々は8月26日午後の三長官会議(※ばんない注 三長官とは陸軍大臣、参謀総長、教育総監のこと)で次の陸軍大臣候補は牡丹江軍司令官・多田駿と決定していた。ところが新聞は間違って関東軍参謀長・磯谷廉介が次の陸相だと報道してしまった。そんな中、27日夜に急に陸相候補は畑俊六に変更されたのだった(p.208)。
この辺の話は畑俊六自身の回想でも登場。また、後述の山脇正隆の回想ではこの辺について更に突っ込んだ話があり、当初は東条英機、西尾寿三、磯谷廉介、多田駿の4人が候補だったが、東条は「人事に対する意見が余りに一方的で、国内評判も…」と言うこと、更に板垣も反対したので× 西尾は「支那総軍司令官の引き当てになってるし、中級将校の受けが…」と言う事で× 磯谷は「この間起こったばっかりのノモンハン事件の責任者じゃねーか」当然× ということで「じゃあ無難な多田さんかなあ」消去法で決まったのだった。が、多田は「時局柄板垣さんが留任した方が良い」と色よい返事がない。万策尽きたときに昭和天皇が「次の陸相は梅津美治郎か畑俊六じゃないと嫌だ」というので結局畑になった(p.221~222)とか。
山脇正隆の回想 ※山脇は先述のように東条英機の後任の陸軍次官
・昭和14年7月5日、板垣は8月の定期異動を内奏したが、このうち山下奉文、石原莞爾の親補職推薦については昭和天皇から以下のような御下問があった(1)山下は2.26事件に関係があったばかりか、現在も天津のイギリス租界を封鎖して問題を起こしている これを軍司令官に親補するとはいかがなものか(2)石原は浅原事件に関係があると言うが、これはどう処置するのか(3)寺内寿一がヒットラーからナチスの大会に招待されたとのことだが、この派遣には政治的使命を与えないのかどうか(これには否定的な意味があった) その後何日経っても内奏の書類が戻ってこない。そのため、閑院宮参謀総長が昭和天皇にあって説明したところ、今度は(1)山下と2.26事件のことについてはよく分かったが、今起こっている天津問題については世論が沸騰した原因は現地軍の声明に原因があり、その現地軍の参謀長である山下を親補職にするのはいかがなものか(2)石原も立派な将校であって、特に2.26事件での働きは良く知っているが、浅原事件がまだ調査中なのに栄転というのはいかがなものか と言われてしまった。閑院宮は帰った後参謀次長(この当時は中島鉄蔵)と相談し、(1)山下は当分移動させない(2)石原はしばらく第16師団司令部付にしておく…と言う案を考え陸軍省に連絡、また畑俊六侍従武官長にも相談した。畑が昭和天皇にこの案を相談してみると「二人とも有能で将来のある人物であるから、今の案ならそれで宜しい。が、石原は東京以外に出せ。陸軍大臣の辞表提出などは考えてない」と言う事だったので、それにそった修正案を再度12日に内奏して解決したのだった。(p.210~211)
この辺の話も畑俊六の日記や回想で登場。
・稲葉正夫の松木侠インタビュー(昭和36/10/18) 満州事変勃発当時、松木は満鉄上海事務所にいたのだが、10/1付で関東軍国際法顧問の辞令を受け異動した。この時に上海から奉天への移動の便宜を図ったのが山西総務部長や田中隆吉補佐官である。奉天に到着したときには既に満鉄から岸谷、山田、小谷、久保田、山口などの面々が参加しており、青年連盟の金井、中西、雄峰会の笠木、中野、結城等は自治指導部で活躍していた。(p.537)
松木はこの辺などで既出だが、法律面で満州建国に功績があった。戦後は何と石原莞爾が隠棲していた山形県鶴岡市の市長を務めたらしい。
・稲葉正夫の寺平忠輔(元陸軍中佐)書簡回答 昭和8年2月頃、天津に設けられた板垣機関は板垣征四郎(別名池谷栄助)、奏任嘱託三谷亨(別名谷三蔵、その前年に陸相から日の丸国旗を貰ってエチオピアに行ったことがある、池田純久と親しかったらしい)、大城戸三治中佐(死亡、参謀本部支那課、別名林実、白石龍)がおり、他にその前から天津には関東軍から派遣された「大迫機関」(大迫通貞(書簡応答当時鹿児島に健在)、茂川秀和(書簡応答当時東京健在だったが面談は不能、別名「遠山」)等のメンバー)があり、板垣機関と合同で作戦していたと記憶している。(中略)塘沽停戦協定が5/31調印され、6月3日の夜、天津の敷島という料亭で主人側は板垣、大城戸、大迫、茂川など、私も招待を受けて板垣さんから天津工作のいろいろな苦労談を聞かされたが忘れてしまった。(p.542~543)
(※補注:昭和8年2月、熱河作戦決行と決まったころ、板垣は参謀本部付となり、天津に「板垣機関」を作って熱河作戦の補佐工作をすることとなった。ところがこの「天津の板垣機関」については記録もない上、生存者の記憶も薄かった。稲葉の寺平インタビューはその貴重な記録である)
・岡村寧次の回想記 岡村が関東軍参謀副長を務めていたころ、大阪外国語学校の校長に「三、四男で家族の認諾を得た身体強健なロシア語か、モンゴル語科各5名、合計10名の志願者を送ってくれ」と給料なども決めて秘密に依頼したところ、この条件にあった青年10名がやってきた。そこで目立たない旅館に宿泊させて、岡村も私服で彼らを指導教育し、それぞれ語学実習に便利な国境に住ませ、時々は新京に集めては激励したり娯楽を与えたりして、将来に備えてかわいがった。そして彼らを後任の板垣にも申し送った。
後、田中隆吉関東軍参謀が激烈な内蒙工作を行い、この時にこの10人を使用し、7名まで戦死させてしまった。それどころか岡村がへそくっておいた対ソ特別機密費までこれに流用したと聞いて、後日岡村が板垣に難詰したところ「あいつ(=田中隆吉)はおもちゃを与えておかないとうるさいからね~」とかわされてしまった(p.344)
ネタバレになりますが、後編(巣鴨日記)内で板垣は田中隆吉のことをボロカスに書いているのですが、どうもこの辺のことが背景にありそう。
・板垣は昭和8年7月、ヨーロッパ、インド大陸を横断する大外遊を行った(この辺の話は駒井徳三も書いていましたね)。さらに中野琥逸、永田美那子を夫婦に仕立ててインド工作に出発させたが、こちらは途中で捕縛され失敗した。(p.548)
中野琥逸も拙ブログで頻出しているが、大雄峰会出身で、満州事変時には今田の配下で何らかの陰謀に関わっていた疑いが強い人物。永田美那子は『萬朝報』記者で満州事変最前線に従軍記者として参加したりとか(『男装従軍記』)なかなか強烈な女性だったよう。



ざっと読んだ感想ですが、この人は良くも悪くも石原莞爾によってここまでなってしまったという人ですかねえ。莞爾と知りあうことがなければ、満州事変に関わることもなく、その後陸相に担ぎ出されることもなく、そして東京裁判で死刑になることもなく…
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