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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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前回の話はこちら

続きは昭和7年1月から始まります。
山口重次所属する満州青年連盟vs大雄峰会、
そして陸軍中央から派遣されてきたらしい駒井徳三vs関東軍若手参謀(このなかには今田も入ってる)
と対立が激化していきます…

ではまいる。

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昭和7年1月半ばのある日、自治指導部の大羽時男が小沢開策と私の飲んでいる料亭へ探しにやってきて、「困ったことがおこった。これをみてくれ」と一枚の刷り抜きを差し出した。みると檄文である。しかも、板垣大佐と金井章次を弾劾するために自治指導員大会を開く招集通知である。
小沢開策が怒って、
「大羽、なぜ、こんな馬鹿なことをする」
「いや、僕ら青年連盟の連中は誰も知らない。これは雄峰会の連中がこっそりやったんだ。僕は支那人のボーイがこっそり持ってきてわかったんだが、もう発送した。近いところは明日からぼつぼつ集まってくるだろう。どうするか」
「だいたい、県長任命なんて、それでは自治制度の根本的改革じゃあないか。なぜ、金井さんも黒柳も、事前にそれを話し合わなかったのだ。こんな不連絡ってあるか。とにかく、黒柳や升巴を招んで、とっちめようじゃないか」
「山口、まあ待ってくれ。実際にやってみて、あの自治指導ってのは無理だよ。僕は監察員だから一応各県を回ってきたが、自治委員や県長の公選をやっているところはない。また、指導員が、直接、行政をやっているよ。官治行政だ。それで、どの県でも省政府から経費をもらっている。これなら県長は、省長の任命する官吏にしなければ、政治にならないじゃないか。そこで、蔵省長が省命令で、県庁と主なる官吏は省長が任命し、省長の命令に従って政治をする新しい条例を出したのだ。すると、自治指導部は根底から覆されたことになる。それで『金井と板垣の陰謀だ。こんな天業奉行の尊い使命を解せないような貧官汚吏は、決議によって弾劾しろ』というのだ。事柄が事柄だけに、大会を開くと、うち(青年連盟)の連中も賛成しないとも限らないぞ。」
(後略)
p.230~231
このあと、小沢開策の提案により、満州青年連盟側はこの集会に自陣営のメンバーを参加させずにこの大会を崩壊させます。その結果、満州青年連盟と大雄峰会の対立は激化していったのでした。
この辺を他の当事者が見た話は1(片倉衷『戦陣随録』)、後から第三者的に見た話は2(山口昌男『「挫折」の昭和史』)3(草柳大蔵『実録満鉄調査部』)
なお、この文の後に山口は「(大雄峰会のような)イデオロギーの違う団体とは共同動作をしてはならないと悟った、革新や革命工作に妥協や安易な提携は絶対に禁物だ、満州建国の政略の失敗はイデオロギーにルーズだったことだ」と書いてますが、大雄峰会と満州青年連盟の違いって、「イデオロギーが違う」とまで言えるものなんかいな、と。私的に言えば巨人ファンと阪神ファンが「こっちの方が本当の野球!」と言い合いしているレベルと変わらないような(^^;)
昭和6年12月18日、関東軍司令部内に副官邸、参謀部と並んで統治部が設置され、7年2月9日、特務部と改称された。しかし、内容は業務をそのまま継続して、満州建国に伴う部長以下の人事異動によって、統治部は自然解消となり、特務部が新しく組織された。
(中略)
関東軍の作戦計画では、(中略)もっぱら北満の平定と対ソ作戦を担当し、吉林、奉天の戦後処理と「占領」戦略は満鉄、総領事に任せるつもりであった。
実際は戦争計画以上の大戦果であったが、朝鮮援軍と哈爾浜進出の軍事行動を抑制された上に、政府の不拡大方針、関東庁、満鉄、総領事の不参加、不協力となって全く予期しない局面にぶつかった。その結果、自ら政略も実施しなければならなくなり、土肥原大佐を奉天市長とする軍政をしき、参謀部の第三課が政治、行政、産業、経済などの事項を所管する規定になっていた。
第三課の構成は、課長が歩兵中佐竹下義晴、総務が騎兵大尉岡部英一(陸大)、兵器、治安が軸重兵大尉江崎義雄、経済、産業が佐藤主計少佐、住谷主計大尉の五人である。
(中略)
この陣営では少人数で、何事もできない。また、決済、監督の機関たらしめる方針であったらしく、板垣、石原の両参謀は、関東庁や総領事は別として、最後まで満鉄を引っ張り出してやらせる希望を捨てなかった。そして、私をして、満鉄誘致をなさしめたり、内田総裁と本庄軍司令官との会見を策したりしていた。
ところが、焦眉の急にせまられて、電灯廠の保全を構じたり、瀋海鉄道を動かしたり、青年連盟員を使って第三課が実際やってみると、案外、ことはすらすらと運んだ。(中略)
しかも、支那側の重要人物の起用操縦のような高等政策は、板垣、石原の肚芸であり、直接は第三課でやった政略の一部である。馬賊の帰順工作などの政略は、片倉大尉が専攻していた。
このように業務の分担が錯綜していても、はじめの小規模の時代はよかったが、政略が段々と進展して広範、複雑になってくると、分科の明瞭でないために起こる諸種の弊害が如実に表れてきた。そこで参謀部とは別個に政略実施の機構を整備する必要に迫られてきた。
先ず、経済顧問として、小磯国昭中将の推薦によって駒井徳三が陸軍省から赴任してきた。しかし駒井が着任したのは10月の末で、その頃には、東北交通委員会も、自治指導部も、奉天省政府も、兵工廠、電話局その他の官業機関も、それぞれ整理方針が決定して、担当者が入って進行中であった。(中略)
それ故、あとからきた駒井顧問には、別段、誰も用事がない。三階の室に秘書と二人でいて、毎日、暇らしかった。
(中略)
「軍人が政治に関与することはよくない。政治は戦争より面白いから、その知識も能力もないくせに、ついつい深入りして軍紀を紊すことになる。天皇陛下が『世論に惑わず、政治にかかわらず』と御諭しになられたのは、深い思し召しである。これは、絶対に守らなければならない」
これは石原中佐の持論であって、板垣大佐も賛成していた。そこで、石原中佐は、板垣大佐が肚芸でやっていた高等政策も、適当な政治家を見つけて譲るつもりでいた。私や小沢がその地位に小日山直登、山本条太郎を考えたのも、その内示を受けたからである。一方、関東軍参謀部の方でも、軍中央部にそれを要請してあったのである。
駒井徳三の派遣も、その要請にこたえたものらしかったが、東京-奉天で少し尺度が異なったようであった。
いまひとつの理由は、関東軍内部で、石原中佐の発議によって政略機関の編成について研究を進めている際、内閣では、総理大臣の監督のもとに、つまり内閣直属機関として(中略)「臨時満州事務委員会」を作るという事実が、陸軍省から通知された。当時の情勢から、その実現は、関東軍の『満蒙問題解決ノ為ノ戦争計画』をまったく放棄することを意味するので、それに対しては全面的に反対した。そのような動きを封ずる為にも、関東軍内部に政略機関の設置の必要があった。
(中略)
統治部の設立については、駒井徳三に対する参謀および各機関顧問の連中の不人気と設立要旨の不徹底から「統治部不要論」が起り、今田新太郎大尉が代表して、板垣大佐、石原中佐に反対し意見具申をした。その結果、第三課を廃止した(12月15日)。そのため、事変処理は、第三課時代とくらべて非常に不活発となった。やむを得ざる仕儀である。
右のような経緯で第三課が廃止されたため、事変勃発以来、処理した記録、書類、帳票類は、一枚も統治部に引き継がれなかった。(中略)
これが、満州事変の正史と真実の政略資料が残らなかった第一の原因をなした。
p.249~254
かなり長文を、はしょりながらですが頑張って引用してみました。
<あてにしてはならない補足>
・土肥原大佐:土肥原賢二。この当時は奉天特務機関長(昭和6年8月~)。東京裁判のA級戦犯の一人として処刑。
・竹下義晴:陸軍士官学校23期生、最終職位中将 「胆力の板垣、作戦の石原、人情の竹下」と言われていたらしい。張作霖爆殺事件の実行担当にさせられかけたが、河本大作が取って代わったために無事?だった。
・岡部英一:陸軍士官学校31期生(今田より一つ下)、昭和19年7月26日、グァムでアメリカ軍との戦闘により戦死
・江崎義雄:最終職位大佐 昭和19年2月~5月のアドミラルティ諸島の戦いで防衛側の指揮官となるが、3000人強の防衛人数に対して攻撃側(アメリカ軍)は40000強、さらに補給物資もほとんど送られない状態で(どこかで聞いた話だ…)玉砕。多分この時に戦死されたのではないかと
・小磯国昭:こういう人 山口重次の天敵
・駒井徳三:今までも何回か出て来たが、こういう人 赴任初っぱなから関東軍の将校相手に高圧的な態度を取って(要はケンカを売った)(p.251)、それが後々まで響くことに。
・「軍人が政治に関与することは~」:でも石原莞爾は宇垣内閣"流産"に関わってるんだよね…のちにすごく後悔したらしいが後の祭り
・小日山直登:こういう人 確かに駒井徳三より立派かもヾ(--;)
・山本条太郎:こういう人 確かに駒井徳三よりr(以下自粛)
この辺の話は片倉衷も『戦陣随録』にて触れている。こちら
軍司令部の中に、12月から文官だけの統治部を新設したのには、隠された大きな政治的理由もあったが、満州国の建設を目標として、建国運動の指導と建国準備作業を文官をしてなさしめるというのが目的であった。そして、統治部は、駒井徳三を部長として、次長を初め各課長は満鉄社員を招聘してあてた。
(中略)
また、部長の駒井に対しては、参謀達の人気はすこぶる悪かった。
(中略)
新国家の政策、すなわち、農業、鉱業、経済など新政府、各部の政策方針や施政大綱は一応研究して立案したが、これを実施する各部の官制を作り人材を集める準備は進まなかった。
政府の組織や官制は行政課の松木侠が起案して参謀会議にはかけるが、統治部の課長会議には知らせない。彼は役所の組織には関与しなかった。また、任命すべき大臣以下の官吏の人選については全く無関係で、何の話もなければ研究も命じられなかった。というのは、人事は和知少佐が担当して、新京の満州屋で中野琥逸、甘粕正彦、松木侠、笠木良明等を集めていろいろ詮衝が進められていたのである。
(中略)
駒井徳三は、当然、日本人官吏の首班、つまり総務長官として新政府に入るものと自他共に許していた。
東北行政委員会が独立を宣言して、ようやく新国家、新政府の建設準備に取りかかったときであったから、2月23日頃と記憶している、駒井部長が統治部の各課長を「粋山」に招待した。
てっきり、新政府入りがきまった内祝か、と思って宴につらなってみると、案に相違して、駒井部長は、
「自分は一役すんだから、内地へ帰る」
と、いうのであった。
それには、気の毒な理由がないではなかった。というのは、軍司令官、板垣大佐、石原中佐の信頼は厚かったが、他の参謀連中の駒井に対する態度は、憎んでいるというのが適切であった。
それゆえ、駒井の総務長官就任については、反対が多かった。それから、統治部内はとにかくとして、統治部の管轄下にある省政府、自治指導部などの諸機関の顧問達は、ほとんど電話もかけないほど疎遠であった。自治指導部の一部では駒井排斥決議をしていた。脅迫の手紙や嫌がらせの投書などがあったが、ちかごろでは、拳銃を持った男が、直接強引に面会を求めて辞職を勧告した。満州浪人である。
彼らのバックがなんであるかは、誰にでも分かることである。駒井部長もすっかり嫌気が差して、内地へ引き上げる決心をしたらしい。
(中略)
これが実現したら建国人事もスムースに運んだはずである。
ところが、2月20日から上京していた石原中佐が帰ってきて、
「総務長官の人選について、中央と打ち合わせた結果、政策を立てた者に最初やらせなければ、政策の実施に齟齬を来すことになるというので、駒井に初代総務長官をやらせる。そして、その人選は駒井に任せることに、陸軍省とも意見が一致したから、そのように決定してきた」
ということで、駒井の辞任はひっくり返ってしまった。
p.318~p.321
<ちょっと補足>
・和知少佐:和知鷹二 ご子孫の状況(2006年現在)についてはこれ
・甘粕正彦:柳条湖事件直後から影で現地住民の工作活動などに関わっていたが、表?に出てくるのはこの辺からか。



今田に関わりありそうな箇所は以上です。…さすがに疲れましたヾ(--;)
でも次回の『満州建国の歴史-満州国協和会史-』はもっと長い…うへあ
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