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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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本日紹介させて頂く本は『中江丑吉という人』(阪谷芳直編 大和書房)です。
他の中江本と違うこの本の特徴は「年表」が載っていること。これにしか出てこない今田情報も多い…。
ではまいる。
1937年日中戦争勃発の年に、おさな友達であった今田新太郎中佐(のち少将)にこの戦争の失敗すべき所以を手紙で説き、参謀本部の石原莞爾等を通じて拡大の防止を勧告したというようなことである。だがこのことはすぐ翌年、「中江は如何なる努力ももはや無益であり、日本がひとたび破滅にいたり付くまでいわば『病理学者』の立場を取るほか無いと判断した」という、同書(※ばんない注 『中江丑吉書簡集』)附録の年表の叙述につながる。
p.40
同文は同じ本のp.121にも登場する。
柔道家の牛島辰熊氏には、政治に関係せず軍人の道具に使われず柔道一途に励めとアドバイスし、曹(※ばんない注 曹如霖)には「支那事変」の世界史的意義を説いて実業方面以外には出馬すべきではないと忠告して、カイライや買弁となる危険から救った。反東条の驍将と言われた今田少将が北支派遣軍の参謀長に内々擬せられたとき、関係者がそろって訪れると、彼は相手が言う前に「今田(チンデン)を参謀長にするというんだろう。あれを妙な政治に引き出してくれるな。戦場で死なせてやってくれ」とズバリ言って抑えたという。おそろしいカンであると同時に友への優しい情がにじんでいる。
p.94~p.95
昭和41年(1966年)5月8日付書簡より
(中略)
また蒋介石が、もちろん制限付きながら、よく評価されている点は、歴史の理解に意義深い物があると思います。
中江さんが今田(新太郎)宛てに「蒋介石を明の太祖たらしめるなかれ」と書いたのは、蒋へのこういう評価無しには理解されえないもので、あなたも何度か中江さんの蒋評価に言及されていると記憶しますが、当然のことでありながら、今日十分に我が国でそういう観念が成立しているとは言えないので、その点も今日有益だと考えます。
p.145
書簡の送り主は加藤惟孝(中江丑吉の弟子の一人)、受取人は阪谷芳直。
昭和43年(1968年)6月13日付書簡より
小生は近頃は中江さんの記録を書いておりませんが、もちろん書きたい気持ちは強く持っております。危なくて(書き誤りはしないかと)ペンが重くなる感じが増してきてなりません。若いとき臆面もなくもっと書いておくべきだったのかも知れません。ただ「病側の日記」だけは大兄のためにも、早く清書しておきたいと、これは(大学)紛争による気分の大疲労が静まり次第実行する考えでおります。
先月かその前か、「週刊新潮」?かで、東条首相暗殺未遂事件の実話物に、牛島辰熊氏(彼と津野田少佐-中江さんの没後、今田さんの紹介でよく貢院の家に来ました-との二人がその犯人?)からの聞き書をもとにした読み物が出ていました。その中に、牛島氏が、東条暗殺の根本動機は「北京の大学者中江丑吉先生の教えから感銘を受けた」事にあるというイミの話が出ていました。幼いときからの旧知である今田さん(新太郎少将、石原莞爾派)は別としても、何故こういう人々(右翼の大者小者)にとって中江さんが強い力を持っていたかという点は、まだ誰もよく記録していません。晩年のそういう事実だけは小生が一番良く知っているというわけですが、これをよく説明することは難しくてうまくいきません。つまりは人間論というところまで来ると小生などには能力が無く、いたずらに優れた文学者を待望するのみ、と言うわけでありましょう。-そういうこともふくめて中江さんのことを何でも彼でも大兄宛に手紙で書き送っておこうかという気の起こることもあります。もう中江さんより5つ以上も生きていると思うと、そんなに長いはずのない自分の残生で出来るだけ多く記録を残すとすれば、そういう形が一番書きやすいのでは無かろうか、と言う訳なのですが。
p.147~148
昭和46年(1971年)11月4日付書簡より
私はいろいろな要因から、中江さんのことをもう少し積極的に書こうと考え、その手始めを今まで誰も余り書かなかった「今田新太郎のことなど」(仮称)-即ち、中江さんの外伝の一つである国士列伝?又は任侠列伝?-にすることにして準備を始めたのですが、以前『書簡集』の発行後、今田さんの令妹渡部桜夫人から私に贈られた中江さんの今田氏宛未発表書簡二通を原稿用紙に写しているうち、その見事さを今さら痛感し、これを更に写してあなたにプレゼントしようと思いました。…
書簡二について一つ解説を要するところがあるでしょう。この後半で三人の人物評をしており、牛島(辰熊)、岡部(平太)の両氏はご存じの訳ですが、残るもう一人の「めいご洞けんてき居士」は、前北支派遣軍司令官多田駿中将(のち大将)です。文の「小恵小仁」「美言美行」というのは、多田氏が旧友辻野朔次郎氏の死去の時現役の官職の形で辻野家を訪れあまつさえ葬列に加わり(この警備が大変なはた迷惑でしたが)、辻野家の老ボーイを召し出して息子の就職を保証すると言い、「これが最後の友情だ」と大変な美言を吐いたことを指しています。のちに中江さんの発病就床の時、次の司令官岡村(寧次)大将が「司令官はお見舞いに行けないから」と、代理人の人(小山貞知氏)を訪れさせたとき、中江さんは岡村氏を讃め、それに比して多田氏は司令官の器ではないというイミのことを申しました。文章にするときはもう少し書くことがありますが、右の通り。尚、牛島氏はこの書簡二のとき、中江さんから「この戦争は負けだ」といわれました。今田氏宛に、真珠湾以来当初の疾風迅雷ぶりを讃め、ただこれから後を謝るなと書いているのとそれを対比すれば、武田泰淳が、相手によってかき分ける中江さんの絶妙な高等戦術、と言うようなことを『書簡集』の書評で言っていたのが思い出されます。(後略)
p.156~157
この2通は上と同じく加藤惟孝発阪谷芳直宛書簡。この2つの書簡にあるように、加藤氏は中江丑吉の晩年と今田新太郎、牛島辰熊、津野田知重の絡む論文を上梓しようとされていたようなのだが、昭和47年、癌のため死去された。なので、「我が東条英機暗殺計画」のもうひとつの側面とか、それより何より満州事変以外の今田新太郎の姿などを知る手がかりは永久に失われてしまったのである…

長くなってしまったので、続く。

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