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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
今回紹介させて頂くのは満州事変当時、その関東軍の最高責任者になっていた本庄繁の日記です。
現在「満州事変当時の関東軍責任者」と言うぐらいしか知られていない知名度の低い人と思いますが、同期には皇道派の首領・荒木貞夫と真崎甚三郎、南京事件の松井石根、第36代総理・阿部信行(因縁の稲田さんの舅)などそうそうたる人物が揃っています。
この人はいろんな本を見る限りでは、現在も歴史家の評価が真っ二つに別れている人のようで、
「石原莞爾と板垣征四郎に巻き込まれて当時の関東軍の責任を結局一人で負わされた人」
「石原莞爾と板垣征四郎を抑えられなかった無責任な人」
と両極端です。
私個人の今のところの評価は前者に近いでしょうか。石原と板垣の計画が熟し切った直前に異動でやってきたのですが、これが不運?の始まりだったように思います。どうも満州事変が石原と板垣の陰謀だったらしいことはうすうす察知していたらしく、親しかった磯谷廉介に「(石原莞爾は)厄鬼である」と愚痴をこぼしていたようです(『石原莞爾―生涯とその時代』)
また、この人は2.26事件当時、注目を浴びます。注目を浴びる原因となってしまったのが、本庄繁がこの時昭和天皇に近侍する侍従武官となっていたにもかかわらず、溺愛していた婿・山口一太郎が2.26事件首謀者の将校達の仲間であったこと。本庄は2.26事件の直後他の多くの幹部と共に陸軍を去りますが、その一因にこの婿を昭和天皇の前で擁護して怒りを買ったことがあったようです。

巻頭の「資料解説」によると、本庄繁は当時の軍人の中でも特にマメだった人のようで大正12年~昭和20年の死の前日までの日記が残存しているそうですが、この『本庄日記』で公開されたのは
・満州事変の頃
・2.26事件の前後
と一部だけになっています。理由は「日記の読解困難のため」要は「悪筆で読めませんでした!」_(。_゜)/ということらしい。…確かに添付写真に日記の原文が写真で載っているのだが、毛筆がつぶれて読みにくいのなんの…日記は先のとがった物(シャーペンとかボールペンとか)で書きましょう、あ、今はブログとかで書いている人の方が多いかな。

当然満州事変の当時者なので、その時の記述は臨場感あふれてます…が、肝心の今田新太郎は日記に登場してくるのか?
では気になる記述をご紹介




9月13日 日曜 曇涼
 公主嶺より長春へ
(中略)
 五、板垣大佐その他の参謀、今田顧問、佐伯少佐等午後八時過着。
p.20
昭和6年8月20日に現地に赴任したばかりの本庄は、9月7日から視察のため満州全域を巡っています。
『本庄日記』での今田初出はこの項。問題の9.18のわずか5日前です…
12月6日 日曜 暖雨
(中略)
 六、此日、今田少在を招致、自治指導部のことを聞く。
p.50
「少在」となってますが「少佐」の間違い、ついでに言うとまだ今田は大尉なのでこれも間違い(^^;)
今田が問題の自治指導部のことを受け持っていることがこれでも裏付けられます。…最もこの時既に駒井徳三が着任し、自治指導部のことが満州国の「ガン」になりつつあったのですが…。

今田の登場箇所は以上!_(。_゜)/
…やっぱり今田は関東軍所属の将校じゃない(※張学良軍顧問補佐)のでこんなもんか_| ̄|○



他に今田の名前は直接出てこないが興味深い箇所を箇条書きで

先ず満州事変関連昭和6年~昭和7年
・昭和6年8月1日に関東軍司令官に親補される(ちなみに前職は姫路の師団長) まさかこの仕事が地獄への階段とは誰が予想したであろうか なお、この仕事は天皇の直接任命(新任親補)だったのでその日の内に葉山の御用邸で静養中の昭和天皇に挨拶に行き昼ご飯をご馳走になっています。
・問題の婿・山口一太郎はかなりの頻度で登場(昭和6/8/2,8/3,8/15など)
・何故か意外なことに右翼の大物の来訪が多い(岩田愛之助(昭和6/8/2、昭和7/1/19、1/22)、佃信夫(昭和6/8/10、6/11/3、6/11/9)、堂前孫三郎、津久井龍雄(昭和7/5/11))
・板垣征四郎とは8/9に早々と初対面。ちなみに場所は東京の偕行社。
・昭和6/8/15(!)に満州赴任のため東京を出発した本庄は、翌8/16,「住吉大林氏宅」に元帥上原勇作を訪問しています。「大林宅」こと大林組社長邸は今も現存しています…建物は改築されてるかも知れませんがすっごい豪邸。
・到着からわずか6日後の昭和6年8月26日、今田の直属上司である柴山兼四郎(肩書きは「奉天顧問」)の訪問を受けます。用事は張学良の伝言を本庄に伝えること。それに対して本庄は"種々の注意”を柴山に与えて返しています。一応張学良顧問(=奉天顧問)と関東軍は連絡ぐらいはしてたって事なんでしょうか。
・昭和6年9月18日、問題の柳条湖事件勃発!…が、その当日の記述は「奉天北大営に日支兵衝突おこる」と淡々とした内容。
・昭和6年9月22日、先述の柴山兼四郎が東京からの帰途本庄を訪問、東京の空気(陸軍内の雰囲気とか政府の状況とか世論のことかな)と陸軍大臣(=南次郎)の伝言を伝える。翌日には更に詳しい話を本庄とした模様。この時柴山は険悪となっている張学良と関東軍との仲立ちをしようと東京に行っていたのだが、柳条湖事件の勃発で徒労に終わったのだった。
・安田鉄之助なる人物がたびたび登場(昭和6年9月29日、10月10日、昭和7/5/10)。この人、東久邇宮稔彦王の侍従武官と成るも、そのまま稔彦王に気に入られて陸軍の方を止めてしまったというかなりの奇人だったらしい。また、その後神兵隊事件の黒幕となるなどお騒がせ人物でもあり、昭和7/5/10にはその神兵隊事件首謀者の一人・天野辰雄と本庄を訪問している。野村乙二朗氏によれば石原莞爾に感銘を与えた人物の一人、らしい(『毅然たる孤独: 石原完爾の肖像』)。
・昭和6年9月28日午後二時頃に橋本虎之助他参謀二人が到着。日記には明記されていないがこの「参謀二人」が遠藤三郎と今井武夫(今田の陸士同期)というのは有名な話。
・昭和6年10月13日、朝10時に川島浪速(川島芳子の養父)、朝11時に河本大作が訪問。段々胡散臭い連中が増えて参りましたヾ(^^;)なお、河本大作はこの後頻出(11/24,11/26,11/28)関東軍の人事について依頼(11/24)、本庄から参謀総長(金谷範三)の出動停止命令について意見を聞かれる(11/28)などこの後の満州国経営に口だししていた様子がうかがえます。
・昭和6年10月16日「(前略)午後二時より板垣、竹下などを招き、地方自治会などの暴状、権益獲得案について注意す」柳条湖事件から1ヶ月弱しかたってないこの時点で、軍よりも居留民の方が暴走していたというこの記述は興味深い。これが自治指導部とか協和会が登場する背景にあるのかも。
・昭和6年10月17日「(前略)この日東京に於いて少壮将校不穏事件有り、之に伴ひ、関東軍独立の兆しありとて差し控ゆべく電報し来る」 有名な「十月事件」のことである これと同時に中々自分たちの思うとおりに動かない政府にしびれを切らした関東軍が独立するのでは?と言うデマが飛び交ったのも本当の話。
・満州青年同盟(後の協和会)関係者の来訪者は多い(10/18新井一(紀一?)、11/5、11/7、11/19、12/8、12/27、昭和7/2/1、2/16、8/9金井章次、11/12沢田壮吉、11/22満州青年連盟一行、昭和7/1/14小山貞和、昭和7/2/13山口重次(交通課長))が、一方で大雄峰会(後満州国自治指導部主力メンバーを輩出するも排斥される)関係者は見ることが出来なかった。この後この2つの団体の運命を分ける原因になった、かも?
・昭和6/11/9、「午後7時30分、武内朝日記者を招き、大朝、大毎にて国際連盟へ打電を乞ふ」 武内朝日記者とは以前拙ブログで触れた思いっきり間違った今田写真情報を伝えたヾ(^^;)武内文彬に間違いないでしょう。しかし、関東軍のパシリ状態にしか見えない武内。戦後も政治家とつるんで権力をふるった(ふるっている?)マスコミ関係者と言えば渡辺”ナベツネ”恒雄が有名ですが、マスコミは戦前も戦後も全然体質変わってないと言うことなんでしょうね。
・11/20,駒井徳三登場。既に肩書きは「顧問」になってます。また、本庄日記を見ると板垣征四郎と行動を共にしてることが多い。
・そして12/7、和知鷹二着任。『笠木良明遺芳録』の和知の回想談によるとあの花谷正の交代要員だったようです。
・12/15,柴山兼四郎夫妻が奉天を去り帰国した。 …本庄日記の日記はこれだけだが、恐らく失意の帰国だったことは柴山本人の回想録から伺える。
・12/25「(前略)午前十一時五十分、第八旅団桜井参謀に注意を与ふ」 宴会部長桜井徳太郎閣下キタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!! …それだけなんですけどね_(。_゜)/しかし何を注意されたのか桜井。
・昭和7/1/14「(前略)午後一時より参謀長、板垣、石原を招致、軍司令部と統治部長以外、顧問のこと、及び学者招待の結果を有利ならしむる事に付会議す。(攻略)」 駒井徳三の扱いが議題になったのか?
・昭和7/2/9、花谷正夫人が、翌2/10には花谷正が本庄に帰国の挨拶に来た。2/10の午後1時30には出発したという。結構慌ただしいんだな、陸軍の転勤。なお、転勤先は参謀本部付き(部署は『本庄日記』では未詳)なのでたぶん栄転だったんじゃないかと思う。
・昭和7/2/17「一、午前九時小西外史、三菱献金主旨及大阪片倉某より献金のことを申出づ、皆絶対拒絶。(後略)」 この後も献金記事は結構出て来ます(2/20片倉製糸株式会社)が、本庄はすべて拒絶しています。 ところでこの「小西外史」と言う人物、『本庄日記』にちょくちょく登場するのだが、ネットで調べても全く出てこない謎な人物。誰か御教示お待ちしてます。
・昭和7/4/8「(前略)午前11時50分三谷憲兵少佐、中佐に進級の上退職、奉天刑務処長となる。(後略)」 柳条湖事件に関わった三谷清はこうやって退職。軍に在籍できなかったのは、やっぱり横領疑惑のためだったんでしょうか。
・昭和7/4/19、国民高等学校長・加藤完治来訪。問題の満州移民の推進者の一人です。この時の訪問の目的は明記されてないがやっぱり移民関連だったんだろうな。
・昭和7/4/22「(前略)午後4時40分東宮大尉、第10師団長の伝言を伝ふ。」 これってもう一人の満州移民の推進者・東宮鉄男のことなんだろうか。今田よりずっと年上なのに同じ大尉なのは今田がエリートコースを邁進(陸士同期で一番早く陸軍大学入学→陸軍大学校卒→参謀本部入り)しているのに東宮は現場(隊付)将校だからではないかと思う。
・昭和7/5/3、多田駿が河本大作と共に本庄を訪問。河本と一緒なのは、多田の妻が河本の妹だからではないかと。多田+河本コンビは6/2にも本庄の下に来て十月事件の内輪話などダベリングしている。 なおこの前後から関東軍の人事異動が激しくなり、三宅参謀長も同日転任している。
・昭和7/5/29、松木侠が本庄の下にやってきて和知鷹二のために運動したという。松木は満州青年運動側の人物だった印象があったので驚き。
・…が、その2日後の5/31には新井静雄、上田貢太郎なる人物が、本庄に駒井徳三、和知鷹二のことを訴えるという行為に出ている。更にこの日記の続きに「午後4時駒井長官来訪、30日夜の事件を訴える(長春新政府に入れる日本官吏の不和動揺あり、三十日夜実業部毛利課長駒井を脅威す)」とある。 どうも迷走している満州国民政。
・更にその翌日6/1、遂に駒井徳三は長春を脱出し、本庄に「午後3時50分駒井長官来訪、長春脱出の状況を報ず」と言う事態に。その内容に激怒したらしく本庄は「今日和知を呼び、長春紛争のことを糾す」となる。昭和7/6/5、6/10、片倉衷の報告で長春の状況を更に詳しく知ることとなる。結局昭和7/6/11、「午前九時和知参謀を招致、希望を聴く」…和知鷹二を別の部門に飛ばすことと成ったわけです
・昭和7/6/14、笠木良明が「長春の事態につき弁明の為来奉」する。庇護者であった和知が飛ばされるという事態にいたって笠木がなんとか本庄に取りなそうとしたらしい。一方同日、笠木の運営する大雄峰会のライバルであった満州青年同盟は協和会設立に向けて順調に進んでいた(「小山貞知氏を招き、協和会に対する説明を聞く」) 皮肉である。
・昭和7/6/15,駒井徳三は本庄と長春の人事について話をし、遂に6/17,「板垣、片倉参謀を長春に至らしめ、日本官吏の大整理に着手せしむ」となり、笠木良明を初めとする大雄峰会系の官僚は満州国から追放されてしまったのであった。一方同日「山口重治、大羽氏来訪、協和会のことを語る」
・昭和7/8/8、陸軍の大異動が発表される。8/11には駒井徳三が進退伺いを出してくる。多分本庄の異動がショックだったんだろうな。
・昭和7/9/4に帰国。本庄は英雄扱いであちこちで歓迎される。9月7日に富士屋ホテルに泊まったら偶然石原莞爾も一緒だった(石原もこの異動で参謀本部付(役職無)に飛ばされた)。更に松岡洋右もいたので一緒に食事した。
 多分松岡オンステージだったんでしょうな(^^;)


次に2.26事件関連の日記。清書されて3部作になっているようです。
2.26事件で自身は婿/山口一太郎(皇道派将校)の巻き添えとなってクビ(予備役)となり、印象が深かった時代だからでしょう。
今田の記述は皆無ですが、昭和天皇関連で興味深い記述が見られます。
やっぱり長い文なので箇条書き+抜粋で。
至秘鈔
・昭和9/2/8
(前略)
更に御下問あり
 将校など、ことに下士卒に最も近侍する者が農村の悲境に同情し、関心を辞するは止むを得ずとするも、之に趣味を持ちすぐる時は、却て害ありとの仰あり。
之につき、余儀なく関心を持するに止まり、けして趣味を持ち、積極的に働きかくる意味にあらざる次第を反復奉答せり。
陛下は此時
 農民の窮状に同情するは固より、必要事なるも、而も農民亦自ら楽天地あり、貴族の地位にある者必ずしも常に幸福なりと云ふを得ず、自分の如き欧州を巡りて、自由の気分に移りたるならんも心境の愉快は、又其自由の気分になり得る間にあり。(後略)
むー、何か微妙な一節である。ずれていると言った方がいいのか。昭和初期の農村の苦境というのは「考え方を変えたらいい」というレベルの物ではないと思うのだが。何かここにも2.26事件での暴走将校vs昭和天皇という構図の端緒が既にあるような無いような。
・昭和9/8/29、静養先の那須御用邸から東京に帰る際、皇太子(現今上天皇)以外の子供達も車に同乗させるかどうかで「同乗させない派」広幡忠隆宮内次長他侍従達と「同乗したい派」昭和天皇は大げんかになったらしい。本庄は「陛下は慈悲深いお方だからその気持ちは分かるが、規律を守るため(本庄の言葉では「我が国体をして永遠に光輝あらしめんためには」となっている)には広幡大夫の言うことに従って欲しい」と言っている。
・昭和10/2/22、満州国皇帝・溥儀の来日のさい、観兵式に昭和天皇が出てもらうかどうかで大もめの陸軍省。その理由は「我が軍隊の天皇に対する信仰は、天皇と他国皇帝と御同列の場合、我が天皇を差し置いて他国皇帝に敬礼することは忍びず」それを聞いた湯浅宮内大臣は「そんな理由、国際慣例で聞いたこと無いわ」とカンカン 本庄が奔走した結果、式場への出入りの時への敬礼を昭和天皇>溥儀にすることでなんとか落ち着く。
・昭和10/3/31~ 天皇機関説が問題になり始める。昭和天皇は機関説擁護派の一木喜徳郎枢密院議長が排撃されていることを心配している模様。4/9にはこれに関して真崎甚三郎教育総監が訓辞を行ったがその内容に昭和天皇は不満がある様子。
・昭和10/5/30,7/6,昭和11/1/14満州国皇帝・溥儀のご乱行が問題となる。特に貞明皇后(当時皇太后)は婉容皇后の不遇っぷりを非常に心配していた模様。
・昭和10/7/16、真崎甚三郎を教育総監から辞職させるのに苦労している模様。先述の訓辞騒動とかが問題になったんだろうな。
・昭和11/1/14、先述の溥儀のご乱行を伝えた長岡満州国総務庁長が、ついでに満州で中少佐クラスの将校が政府に対して横柄な態度を取っていると伝える。それを聞いた昭和天皇「秦(真次)憲兵司令官も文官に評判が悪いようだが、それにも関わらず真崎等が之を擁護するため、真崎・荒木(貞夫)の評判も悪いのかなあ」



本庄自筆に関しての抜粋は以上。
なお、この本は末尾に「附録 満州事変関係資料」と言う解説書がついています。著者は明記されていませんが、恐らく前書きを書いた島田俊彦氏による物だろうか。
ここに気になる記述がある。
石原莞爾が昭和3年に関東軍に着任以後、以前から陸軍内で問題となっていた"満蒙問題"に便乗する形で自らの「最終戦争論」を実現すべく、その最初の一歩として満州事変を起こすわけですが、その更に最初の一歩として「弱小部署だった関東軍内に独自の調査組織を作る」というものがあった。それは昭和6年3月にようやく「関東軍調査部」として実現するのですが、実はこの最初のメンバー。
 歩兵少佐 臼田寬三
 騎兵少佐 佐久間亮三
 軸重兵大尉 江崎秀雄
 騎兵大尉 小松巳三夫
 歩兵大尉 茂川秀和
 三等主計正 佐藤与助
 一等主計 住谷悌

なんと今田の親友茂川秀和は今田より早く満州に赴任、それも事変に関わりが深い調査部に所属していたのである。
が、茂川が満州事変に関わることはなかった。関わったのは当初は参謀本部支那課所属の今田だった。何故今田だったのか…今田である必要があったのか?

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