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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
今回の大河、御覧になっている方はいらっしゃいますでしょうか。
前回のに比べるといろいろスケールが小さいのでヾ(--;)1年持つかな~と言う心配はありますが。
とりあえず、わたしは今川義元@春風亭昇太師匠が登場した場面ではBGMに「笑点のテーマ」をかけることにしますヾ(--;)いやだってそうでもしないとこれから胃の痛い展開が連続する予定なんで…

しかし義元、予想以上に壁塗りされてしまいましたな~まあ横に寿桂尼@ルリ子様のような芸能界一の白壁さまがいるからそんなに気にならn うわ何を



さて、今回のネタ「井伊直虎」。
NHKのBSプレミアム「英雄たちの選択」でも取り上げられていたが、昨年末に長年放置されていた古文書から、なんと井伊直虎は男だった?!と書いてある物が見つかったらしい。
え~?!今回の大河ドラマ、設定の根幹からひっくり返されてしまうのか?
この「上杉謙信女性説」ヾ(--;)の逆パターンのようなお話、ちょっと考えてみる。
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5日前にあった参議院選挙なんだが
今回から選挙権が18才まで引き下げられ、内憂外患多発する中、国政を左右するたぶん大事な選挙のはず
なんだが
バングラデシュのテロとかいろんな事件があって、盛り上がらなかったですね…関西でも何故か東京都知事選の話題ばっかりでした。関係ないのに。
ついでに鹿児島県知事選もやってたんですね。木下ほうかさんが新知事なんですね!お目出度うございます!(違)

気を取り直して。今回のネタはこの話関連です。



『明史』「日本伝」を読んでいて、気になる人物を見つけた。
ただし、1回しか登場しない。

・以下、引用文は『倭国伝』(講談社学術文庫版)の書き下しを利用しております
・注記、下線はばんないによる物です
数年を越えて(注1)、その事(注2)始めて露れ、乃ち賢(注3)を族し(注4)、日本を怒ること特に甚し。意を決してこれを断ち、専ら防海を持って務めとなす。然れどもその時、王子の滕祐寿なる者来たりて国学(注5)に入る。帝猶お善く之を待す。
『明史』巻322,外国3「日本伝」
(講談社現代新書版、p.348)
<注記>
(1)数年を越えて:洪武19年より数年後
(2)その事:洪武帝の功臣・胡惟庸が謀反を企んだとされ、関係者が大量処刑されるという事件(胡惟庸の獄)があった
(3)賢:林賢、寧波の防衛責任者であった(「寧波衛の指揮」をしていたと『明史』にある) 先述の胡惟庸に荷担していたと決めつけられて処刑される
(4)族し:一族全員死刑に処せられる刑

胡惟庸の獄事件に荷担したとされ(現在の研究では、胡惟庸排斥と倭寇排斥を絡めた洪武帝の陰謀という説が有力らしい)、日本は来航自体を明に禁止されてしまうというとばっちり(?)を受けるが、この時にやってきた学生一人だけは明に上陸することが許されたらしい。
この「滕祐寿」、講談社学術文庫の補注では「藤原祐寿(ではないか)」と推測している。
…が、どうもこの人物が誰なのかまだ特定されていないようなのである(ネットで調べた限りだけどヾ(--;))
私も室町前期はさっぱりなので、全くあてもなく放置してたんだが

「もしかして」と突然ひらめいたのである。
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前のお話はこちら



前回の話を書いている内にもうひとつ思いついたことがあるので書いてみる。

先ず、前回出した「戦国島津家主要女性の結婚データ」一覧再掲。
島津忠良(日新斎)の娘
・島津御南:夫の死後出家した記録はない。
・島津御隅:夫より先に死去。
・三女(御西?):最初の夫とは離婚、次の夫とも離婚。
・四女:夫より先に死去。
島津義久の娘
・島津御平:夫の死後出家した記録はない。
・島津新城:夫の死後出家した記録はない。
・島津亀寿:最初の夫の死後出家した記録はない。二度目の夫より早く死去。
島津義弘の娘
・島津御屋地:最初の夫とは離婚、二度目の夫の死後出家した記録はない。
・島津御下:最初の夫とは死別だが出家した記録はない。二度目の夫とも死別だが出家した記録はない。
島津歳久の娘
・長女:最初の夫とは死別だが出家した記録はない。二度目の夫とも死別だが出家した記録はない。
・次女:最初の夫とは離婚、二度目の夫より早く死去
島津家久(中務大輔)の娘
・長女:最初の夫とは離婚、以後再婚せずその後出家の記録も無し
・次女:夫の死後出家した記録はない。
・三女:最初の夫とは離婚、二度目の夫より早く死去
島津忠将の娘
・長女:夫の死後出家した記録はない。
・次女:夫の死後出家した記録はない。
島津以久の娘
・長女:夫の死後出家した記録はない。
・次女:結婚前に死去。
島津尚久の娘
・長女:夫の死後出家した記録はない。
・次女:夫より先に死去。
島津忠長の娘:最初の夫の死後出家した記録はない。二度目の夫より早く死去。
北郷時久の娘
・北郷池上:最初の夫とは離婚、以後再婚せずその後出家の記録も無し
・北郷外城:最初の夫とは離婚、以後再婚せずその後出家の記録も無し
北郷忠孝の娘:最初の夫とは離婚、二度目の夫とは死別だが出家した記録はない。
相良晴広の娘(亀徳):最初の夫とは離婚、二度目の夫とは死別し尼となる。

島津忠良側室(島津尚久の母):生前から法号を名乗っていたらしいが「夫の死後出家した」とは明言されず
島津貴久側室(島津家久母):貴久の死後、出家の記録は無し
やっぱり離婚多いな~ヾ(--;)…はともかく、その他に目立つのが
「死別したのに尼になってない 再婚もしてない」例である。これだけ抽出して列挙してみる。

・島津御南:夫の死後出家した記録はない。
・島津御平:夫の死後出家した記録はない。
・島津新城:夫の死後出家した記録はない。
・島津家久(中務大輔)次女:夫の死後出家した記録はない。
・島津忠将長女:夫の死後出家した記録はない。
・〃 次女:夫の死後出家した記録はない。
・島津以久長女:夫の死後出家した記録はない。
・島津尚久長女:夫の死後出家した記録はない。
・島津貴久側室(島津家久母「橋姫」):貴久の死後、出家の記録は無し
これを見ていると、「夫に先立たれたのに尼にならなかった」のにはいくつかのパターンが見えてくる。
(1)夫が死んだときに、まだ小さい子供が残っていた。
この例に当てはまるのは
島津御平、島津新城、島津忠将長女、島津以久長女
である。
前々回に話題になったお市の方は最初の夫(浅井長政)と死別した後出家していないが、これも「子供が小さかった」のが理由の一つだろうと思われる。最も浅井長政は兄・織田信長に反抗して自害したので、信長が「あんな奴のために出家するな!」と止めた可能性が大でしょうが…。淀殿が秀吉の死後に出家しなかったのも同様かと。
(2)もう子供も大きくて後の心配もないはずなのに出家してない
上記から抽出すると
島津御南、島津忠将次女、島津尚久長女、島津貴久側室
なお参考に、再婚で夫に死別+子供も大きくて後の心配もないはずなのに出家してない例は
島津御屋地、島津御下、島津歳久長女、北郷忠孝女
がいる。
合計すると8例になるが、上記の例のうち再婚を含めて夫と死別した女性は21人、その中で8例というのは1/3強~1/2弱、かなり多いのではないだろうか。

やっぱり戦国時代の島津家中では「夫に死別しても妻は出家の必要はなし」と思われていたのかも。

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関連エントリはこちら



『河原ノ者・非人・秀吉』のp.688~609あたりで
「福田千鶴氏が『淀殿』で"淀殿は貞淑"と書いていたが根拠が明らかでない、むしろ同時代史料(内藤隆春書状など)では淀殿のご乱行が伝えられていてとても貞淑とは思えない、同じ秀吉の妻室でも北政所や京極龍子は秀吉の死後出家したが淀殿は大坂の陣で自害するまで結局出家しなかった、そういえば淀殿の母・市も夫・浅井長政が死んだ後も出家しなかったので淀殿は母と同じ道を選んだわけである」
と言う事が書かれていたのを読んで、あることを思い出した。
拙ブログで言及していたと思って検索してみたが、書いてないようなので改めて書いてみる。

上記の文でもわかるように、
「武家の女性というのは夫が死ねば出家するのが当たり前」
というのは一般的常識なのだが、
それって本当にそうなのか?
…と言うのが今回の問題提起。

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宰相殿」といえば、拙ブログをお読みの方ならご存じの
 島津義弘に朝鮮半島から年甲斐もないラブラブの手紙を送られた女性
として有名であろう。

ところで、義弘が朝鮮から送ったその手紙。宛先はこうなっている。

・「宰相殿」(文禄元年5月7日 「旧記雑録」後編2-882 「旧記雑録」拾遺2-298 「薩藩先公貴翰」156)
・「宰相殿」(文禄2年6月22日 「旧記雑録」後編2-1145 「薩藩先公貴翰」162)
・「宰相殿」(文禄2年8月2日 「旧記雑録」後編2-1168 「薩藩先公貴翰」163)
・「さいしやう殿」(文禄3年?8月7日 「旧記雑録」後編2-1364 「薩藩先公貴翰」165)
・「宰相□へ」(文禄4年?6月5日 「旧記雑録」後編2-1532)
・「宰相殿」(慶長元年卯月5日 「旧記雑録」後編3-44)
・不明(文禄5年?5月1日 「旧記雑録」後編3-56、「薩藩先公貴翰」178)
・「宰相殿」(慶長元年5月5日 「旧記雑録」後編3-62)
・「宰相殿」(文禄5年閏7月28日 「旧記雑録」後編3-90、「薩藩先公貴翰」179)
・不明(慶長3年1月 「旧記雑録」後編3-351、「薩藩先公貴翰」183)
・「宰相殿」(慶長3年5月5日 「薩藩先公貴翰」187、「薩藩先公貴翰」208)

“宰相”という名前は本名とは言い難い。拙ブログで一度ネタにしたが、官名を使った女性名は、むしろ奥女中の候名にふさわしい物である。

ところが、宰相殿は「義弘の正室」として、兄の義久を初め、豊臣政権までもが認めていたのは自明である。
義久は彼女の死に対して追悼歌を送っているが、彼が挽歌/追悼歌を送った女性というのは相当の立場にいた女性ばかりであり、また、彼女は朝鮮出兵の間義弘の人質として上方に捕らわれ、関ヶ原の合戦後どさくさに紛れて薩摩に帰国したのは有名な話である。

では、何故彼女は夫の義弘からずっと候名で呼ばれ続けたのであろうか?

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