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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
タイトルの記事はこちらです。

記事本文を書いたのは松本治人という方ですが、検索してもどういう人か不明。
元になったインタビューに答えたのは『失敗の本質』の共著者として著名な戸部良一氏、そして国際政治が専門の北岡伸一氏。
戸部氏には『日本陸軍と中国』(新刊本はこちら)という、満州事変の背景にもなった日本及び日本陸軍の中国感の変遷に関する名著があります。
記事の日付は9/18なので、満州事変勃発の日に合わせて書かれた物であることは間違いないでしょう。

さて。
タイトルのように、石原完爾は「悲劇の将軍」だったのか?「天才」だったのか?というのは評価が分かれるところでしょう。
私個人としては、当人は「革命家」を自認していたように考えます。やり方が組織のルールからぶっ飛んでいたのも「革命家」を自認していればこそだろうかと(レーニンなども、自分の信念・正義のためにはルールとか常識とか無視してひどいことをしても全く平気な人でした)。…ただ、その後の時代の流れが自分が予想していたのと違う方向に進んだのは誤算だったでしょう。日中戦争が拡大したのは当時の世論の後押しがあったのが一因ですが、石原自身はそこまでになるとは予想してなかった節があります。その辺が「天才」という凡人・庶民の考えが読めない(理解できない?)人の弱さだったかと。



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関連ネタこちら



前回検証では「藤原永手はロリk(以下自粛)」という余り世のため人のためにならない結論で終わったんですがヾ(--;)

では他の藤原氏メンバーのご結婚状況は如何だったんでしょうか。
やっぱ永手みたいにロリ…いやこの考えから早く解脱せねば
※何かの本で、この辺について吉川敏子氏が論文を書いてるとかいないとかいう話をチラ見した記憶があるのですが、ciniiで検索かけても見つからないので、かぶり覚悟で検討してみます。

興味のおありの方は「つづきはこちら」ボタンをクリックプリーズ。


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「コナン」といってもマンガじゃなくて、内藤湖南
満州事変勃発時の彼の感想を、偶然読んだ本で見つけた。
今日において日本の軍人が満州に於いて赫々たる武勲を樹ててゐることは争はれぬことではあるが、新国家の将来を考慮するならば、赫々たる武勲の結末を汚さぬやう、引き上げの潮時を考へて欲しい。軍人の単純なる性質は、やゝもすれば自己に陶酔して何事も武力で行ひ得るといふやうな盲信を起すこともないではないから、その点、事の序でに苦言を呈しておくゆゑんである。
「内藤湖南」礪波護『20世紀の歴史家たち』(下)(出典は『大阪毎日新聞』1932年)
あの時代にここまで、しかも大手マスコミに書いた人がいたというのは驚き。大家・内藤湖南だから許されたのだろうな。
ちなみに、石原完爾は内藤湖南と面談したことがあるのだという。満州事変以前か以後かは失念。『軍事研究』で秦郁彦氏が書いてた…この論文のCOPYも埋もれてしまって出せないので、整理しないといけないなあ。

今日は満州事変から87年目。
流石に当時の状況を知っている人でご存命の方は少なくなりましたね…当たり前ですが。
2014年のクリミア危機を平成版満州事変と考えているのは私だけだろうか。
ついでに2016年のトルコクーデター未遂事件は平成版「黒いナイフの夜」かなあ。

そんな暗い平成もあと数ヶ月で終わります。
満州事変は昭和になってから起きた事件ではありますが、平成終了後の新しい年は、暗い昭和初年の再来になってしまうのでしょうか。
そういえば表題に書いた「911」ことアメリカの同時多発テロ事件も9月でした。9月は事件を起こしたくなる季節なんだろうか…

※実は別のネタを準備していたのだが、元ネタのCOPYが見つからなくて適当なネタでごまかしましたごめんねヾ(--;)



omake
先日ネットで見た記事 ユダヤ難民を救った樋口季一郎(文春オンライン)
実は石原完爾とは陸軍大学校の同期で、彼がうっかり日蓮関連の本を読むよう進めたのが莞爾が日蓮にどはまりするきっかけになったらしい(『石原莞爾 生涯とその時代』)…もしかして万死に値する人?ヾ(^^;)
満州とユダヤ難民と言えば安江杣弘もお忘れなく。

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前の話はこちら



東大史料編纂所データベースで『大日本古文書』をガサいれヾ(--;)していたときに妙な史料を見つけたんだが
○造東大寺司牒
(正集34)
造東大寺司 牒北大臣家衙頭
 法華経壱拾部
右大納言藤原卿口宣偁、為贈左大臣、令奉讃件経者、今撿案内、依皇后宮少属川原凡去天平十九年正月廿八日宣、件経付若湯坐加波、奉請家裏已訖、?察此趣、便附此使、令奉請、故牒
        天平勝宝二年八月十七日主典正八位下紀朝臣池主
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/05/0003/0414?m=all&s=0414&n=20
『大日本古文書』3 p.414
実際の文ですが、表示不可能で類似のものに振り替えた漢字も多いので、気になる方は上記のリンクから翻刻を見てもらった方が正確に分かると思います。

内容自体は、
「大納言藤原卿」の命で「贈左大臣」のために東大寺から借りようとした法華経10部について、過去の文書を調べたら天平19年1月28日に既に貸しているので、その旨回答する
と言ったところかと思います。
問題は「北大臣家」「贈左大臣」「大納言藤原卿」が誰なのかと言うこと。
「北大臣家」は『大日本古文書』の注記にもあるように藤原北家、「贈左大臣」は藤原房前で間違いないと考えます。
ところが「大納言藤原卿」については、天平勝宝2年8月時点で北家の男子には該当者がいません。
・藤原永手:権中納言か(『公卿補任』)
・藤原八束:不明(※鷺森浩幸氏による参議以外解職説あり
・藤原清河:遣唐大使(遭難し、在唐中)
・藤原魚名:不明
・藤原千尋:不明(美濃守?)
・藤原楓麻呂:不明(出仕前?)
で、他の藤原氏も見てみたら「大納言藤原卿」に該当する人物がいました。
…これがまたまた藤原仲麻呂だったりする_| ̄|○
仲麻呂は天平勝宝2年に大納言となり、天平宝字2年に「大保」(=右大臣相当)になるまで在職していたと思われます。

…ということで、北家の事実上の当主であった藤原永手が天平感宝元年(天平勝宝元年と同年)に復帰した後の天平勝宝2年になっても、まだまだ仲麻呂は舅・房前の法要関係を差配し、北家の当主然として振る舞っていたと考えられます。多分、仲麻呂死ぬまでこの調子だったんだろうか。これでは仲麻呂の乱の時、永手や真楯(八束)にボコボコにされても仕方がないかと…はああ…。



おまけ

もうひとつ正倉院文書で怪しいのがあるんですが
・経巻出入請軸等文書綴文(塵芥文書25裏、『大日本古文書』25 p.183)
 「北家謹牒 贈大東寺政所」天平勝寶七歳四月十六日
一応『大日本古文書』の注記では「北家」=藤原永手か?としているのだが、これも上記の文書を見るとかなりアヤシイです…実際は仲麻呂だった疑いががが

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台風21号。
関空は水浸し+唯一の連絡橋にタンカーが衝突して当分使えなさそう+ついでに公式HP繋がらないヽ(`Д´)ノ
阪神甲子園駅やJR京都駅の屋根は飛ぶ(○。○)※死人がいないというのが奇跡
南海の方ではショートで丸焼けになった駅もあるようなんですが…
皆様如何でしょうか。

前回までの台風では土砂崩れにガクブルだった我が家ですが、今回は風台風だったので被害はない
…いや、予約していた本の取り置き期限が今日までだったのを思い出して慌てて図書館に行ったら臨時休館ですって_| ̄|○しかも行きは動いていたバスが帰りは運転見合わせ…風に煽られ危険を感じつつ、バスなら10分の道のりを30分以上掛けてとぼとぼと帰宅したのでした…トホホホ



気を取り直して
大昔、表題の方に興味があって、この人を卒論のネタにしようかと思った位色々調べたことがあるのだが(結局事情があって別のネタをテーマにすることになったんだが…)

この人の謎は途中で名前を変えてしまったこと。
平安中期以降になると幼名と成人名を変える例が登場し始め、中世になると名前を変える方が普通になるのですが(例えば拙ブログのネタの島津家の場合、島津義久が幼名虎寿丸、元服して又三郎忠良、更に義久と変えた)、奈良時代以前で改名する人は非常に希なのですよ。

奈良時代の研究もかなり掘り尽くされた1990年代末から、ネタ切れ感からかどうか分からないが(ヲイ)この謎に注目する人が出始める。
私が調べた限りでは一番最初にネタにしたのは関西学院大の教授だった亀田隆之氏(「律令貴族の改名に関する覚書」『関西学院大学 人文論究』44-2)なのだが、奈良時代中期に改名した人をさっくり網羅するという内容で、深く突っ込まれることはなかった。
その次につっこみを入れた人が前田晴人氏(「藤原真楯の改名問題」(1)(2)『東アジアの古代文化』89、91)。これはかなり詳細な内容で、藤原八束→真楯の改名問題を官位の変遷などを細かく考察して
「聖武天皇の寵臣だった八束は橘奈良麻呂の乱をきっかけとして不仲だった藤原仲麻呂の“身内的な与党”に組み込まれ、その結果が改名だったのではないか」
と考えられた。
今のところこれに関する最新の論証は木本好信氏(「藤原真楯薨伝について--『続日本紀』薨伝条文の一研究」『古代文化』 57(3)「『続日本紀』藤原真楯薨伝・再論--『公卿補任』尻付と「功臣家伝」『政治経済史学』 (491))だが、前掲の前田氏の論を踏まえつつも
「真楯(八束)が仲麻呂と仲が悪かったなんて言うのは全部嘘!真楯が仲麻呂の与党だったのを隠蔽するための隠蔽工作だ!」
と言う結論を展開された。

しかし『続日本紀』を見る限りでは、やっぱり八束は仲麻呂に目の仇にされていたと思われるのです。

以下ご興味のある方は「つづきはこちら」をクリックプリーズ。



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