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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
今回紹介させて貰う資料は畑俊六元帥の日記です。
「…あれ?それならまえ紹介済みでは?」
と言うあなたは正しい。
今回紹介するのは「続・現代史資料 陸軍」(みすず書房)に所収された昭和4年~昭和20年(昭和11年頃のみ欠番)の日誌です。巻頭写真で見ると大学ノートに横書き(ちなみに左書き(!))です。細かくびっちりですが、本庄日記に比べるとまだ読めるヾ(^^;)
なおこの日記ですが、畑俊六本人が防衛庁に持参して寄贈したという逸話があるそうです(前書きより)

ではまいる。
今田の登場箇所は1箇所のみです…
昭和12年3月29日
(中略)
上京各方面の話を聞くに、東京も中央はまだ何となく明朗ならず、大臣は部内は強化せられたりと楽観しあるも必しも然からず、先般の宇垣内閣の流産の如き、石原、片倉、今田など数人が中心となりこれに河本大作辺りが大部金を蒔いて暗中飛躍を無し、上官に迫りて陸軍一般の反対空気を作りたるが如く、当時新聞紙上にありたる三長官会議にて推薦したる三人の候補者中、香月中将の如きは出ても差し支え無しと述べたりといふ(成富が聞きたる宇垣大将の話)こと、片倉が昨年11月頃より林大将担ぎ上げより平沼が広義国防を妨害する為林を立てたるが如き話もあり、皇道派、統制派といふものは表面無くなりたるも未だ其の暗流あること、又皇道派には人物無きも近来再び台頭したりといふが如きことを憲兵司令官より聞き、事変当時の関東軍参謀即事変参謀が即中堅組として策動したることを聞き、中央尚未だ明朗ならずの感を深くせり
(後略)
<補足>
・上京:この時畑俊六は台湾軍司令官
・宇垣内閣の流産:西園寺公望が「うるさい陸軍でも陸軍出身者なら,そして豪腕のこいつなら抑えられるだろう」と思って切り札として次期総理指名したのが宇垣一成大将だった…が、陸軍リストラの過去がある宇垣は実は陸軍内では非常に人気が無く、様々な妨害を食らって首相指名を泣く泣く返上するという前代未聞の事態となった。最も畑の日記見てたら政治に欲望ギラギラの宇垣さんはリストラ抜きでもかなり嫌われてたようですが(^^;) なお後述されるが、この妨害の主犯が石原莞爾に代表される"満州派"の将校である。
・石原:ご存じ石原莞爾
・片倉:ご存じ片倉衷
・河本大作:張作霖爆殺事件の主犯にして、多田駿の義兄。宇垣内閣の流産に関わっていたという証言はこれが初めてかも知れない。
・香月:香月清司陸軍中将。こちらのブログが非常に詳しい
・成富:調べたがよく分からない 誰か御教示お待ちしてます
・林大将:林銑十郎 宇垣の代わりにこの後首相になったがすぐに投げ出したのは有名かも。

たしかに畑の指摘にもあるが、宇垣内閣の流産で活躍したのは満州事変関係者、所謂"満州派"の将校なんだよね。今田もこの時が華だったかもしれん。
…ただ、この時今田がやってたことがどうかというと、多分余り宜しくないことのような気がしますがヾ(^^;)

残りの興味深い箇所は長いので要点のみ箇条書きで。
※畑俊六の紹介は前回エントリをご参照下さい。




・昭和6年1/19 柴山兼四郎少佐(張学良顧問補佐官)の意見
 1.張学良が近々南京に行く目的は、蒋介石を利用し自分の苦境の減殺を狙った物だろう
 2.張学良には日本と提携して東北(※東北州のこと)に立てこもるという気はさらっさらない
 3.依って懐柔政策は張学良には効果がない。将来の満蒙政策は他力本願策を捨てて公明正大な自立的政策で進み、もし張学良がこれを阻止するようなら力を持って張学良を排除すべきである
 親張学良と思っていた柴りんだったのだが、なんと意外や意外満蒙強硬派。昭和6年のお正月ではこうだったのに、満州事変勃発頃には融和派でなんとか丸く収めようと駆け回っていたのは事実のようなので(「本庄日記」など)、この半年余りのあいだに柴りんと張学良との間に何かあったんでしょうか?
・昭和6年9/19 函館で砲兵隊検閲中に「柳条構事件」の号外を見た畑さんの感想「予ての計画を実施せる物たりとの直感直ちに想起せらる。」
・昭和7年3/30 満州国は成立した物の政府に方針がないようで、「娘子軍」(と畑は書いてるけど要は女郎屋のことだろうな)や利権屋ばかりが跋扈して、支那人も「在満の日本人じゃ駄目だ」とあきれているようだ
・昭和7年4/12 伏見宮軍令部長殿下が「アメリカと戦って勝つなら今だ!」なんてホラ吹いてる(^^;) …海軍のアメリカと戦争したい病はこの頃からあったんですね…
・昭和7年7/10 満州巡視から帰国した瓜生吉三郎の談話によると
 1.鄭孝胥満州国総理が辞職したいと言いだし、日本側が苦心してなんとか辞職を思い止まらせた
 2.財政担当の熙洽は張学良と連絡取ってるのは確実
 3.他の大物満州人も多くが病気(仮病かも?)で引きこもったりしてどうにもならない。これらの原因は満州国政府の日本人官僚が満州人の元老を馬鹿にしているからだろう
 4.駒井徳三長官は反対が多くて逃げ回ってばっかりである
 この辺の話は山口重次の証言とはちょっと異なるかな。にしても、ラストの駒井(苦笑)
・昭和7年9/20 皇道派の横暴に怒り心頭の畑。とりわけ真崎甚三郎と小畑敏四郎、山岡重厚、松浦淳六郎、秦真次に対しては「人事を左右し横暴」「不愉快」と不快感をあらわに。鈴木貞一に対しては「原田熊雄は鈴木も皇道派って言ってるけどどうかな」と疑念を呈している。
・昭和8年8/1 ようやく師団長に親補されることになった。前回の定期昇進の時には皇道派の奴らが「畑は南次郎派」と決めつけたので同期の内一人だけ昇進もれして悔しかった…
・その南次郎大将が畑に話した雑談「武藤信義大将が亡くなって担ぐ者が無くなった皇道派の連中は今度は菱刈隆大将を担ごうとしてるんだよ」
 ほー、本庄の前任者・菱刈隆がこんな所で登場するとは。
・昭和8年11/2「初度巡視の為来斉せる田代(皖一郎)憲兵隊司令官の言に依れば、十月初旬海軍5.15事件判決に関し海軍第一艦隊の青年将校は全く統御するを得ず、彼らは互いに相通牒して第二の日本改造案を作り上げ、これは5.15事件より余程進みたるものにして陸軍将校にも之に連絡するものあり、(略)彼らは満州師団にも手を延ばす計画ありとのことなり。現に歩50の大岡中尉の如き県参事官中の右翼分子と交通し、南洲の敬天愛人教を奉じ、なおチチハルの右翼分子とも交通しありとのことにて隊長には注意を与えおけり」
 満州国県参事官は笠木良明が作り上げた自治指導部の残骸で、わずかだが笠木良明の影響を受けた大雄峰会のメンバーが残っていた。笠木は西郷丼信者でもあったし(^^;)…大岡中尉が仲良くなった県参事官というのは大雄峰会のメンバーだった可能性が高そう
・昭和11年7/12 この日2.26事件の主犯だった将校が死刑になった。畑の感想「不心得とは申せあたら前途有為の青年将校を皇国の為に働かせたらば相当のお役にたつべかりしを。」なお、村中孝次、磯部浅一はまだ未執行だったが、彼らが裁判中に真崎甚三郎を「裏切り者」呼ばわりしていたことは畑の耳にまで届いていたらしく興味深く書いている。
・昭和11年8/1 2.26事件の余波で陸軍幹部の多くが予備役及び左遷になった。畑が杉山元に聞いたところでは(1)小磯国昭もクビ候補者だったが友人の後宮淳が人事局長で「小磯まで辞めさせたら後の人事で困る」という言い訳が通って助かる(2)小畑敏四郎はともかく仕事熱心で人付き合いがクリーンだった(船田中とも親戚だったが全くつきあいしなかったらしい)ので「せめてどこかの師団長にして花道持たせてやってから」という意見もある中、大臣(寺内寿一?)の強硬な意見でクビになったらしい。でも最後の畑の一言「小磯が残りたることは更に相当問題となるらん」に爆笑。
・昭和11年11/26 綏遠にモンゴルの義軍が進出してるのは実は関東軍が熱河から新疆にかけて防共地帯を作らせようとしている謀略である。でも中央軍(国民党軍?)が攻勢に転じたとき、日本の外務省が「あの義軍はうちには関係ないから」と言い出したらどうするんだろう。特にこの謀略、田中隆吉中佐辺りが中心でやってるようだからますますもって怪しい物である、どうせ中央の了解なんて取ってないに決まってる
 …この時点で畑にアヤシイ人物扱いされているモンスター田中隆吉(爆)
・昭和12年6/30~7/2 台湾の角板山という所を巡視。児玉源太郎、後藤新平、佐久間左馬太の功績を見る。「あ~昔は日本も人物がいたのに、今はどうなっちゃったんだろう 教育制度が悪いのかな」
・昭和12年8/18 大臣と総監に挨拶に行くと、寺内寿一教育総監は「参謀本部が消極的だから」とぷんぷんである。で、当の参謀本部の責任者・多田駿参謀次長と話してみたら消極的になる理由もすごく分かる。大臣は参謀本部の消極的なのを怒って、石原莞爾第一部長が更迭されたことすらも問題視しようとしている。でも参謀本部は対ソ連を心配してるしなあ。
 外野なので冷静に物事観察している畑。
・昭和12年11/18 夜大本営動員命令が下った…が、これは参謀本部から提案があったのだが、陛下を第一線に立たせるのは国際関係上いかがな物だろうか。また宣戦布告は日本が侵略者であるという印象を世界各国に与えて不利になるからと陸軍省が反対した(と言っても実際反対したのは杉山大臣梅津次官だけだったらしい)。多田駿参謀次長はかんかんに怒って一時はやめるといいだし(これも部下に強要されたらしい)、畑が止めに行ったこともあった。
 多田駿が辞めようとしたのは部下に強要された物ではないらしい(『稲田正純談話速記録』)。多田+戦争指導課(今田や高嶋辰彦がいた部署)が開戦反対派で参謀本部の中でも浮いてたのは事実。
・昭和13年1/11 海軍陸戦隊が青島に上陸した。事前には青島は陸軍の担当って約束してたのに…本当に海軍は勲章の為にだけ戦争してるんだな
・昭和13年1/17 多田駿参謀次長とお話しした。まだ蒋介石との和平に脈があると思っている参謀本部vsもうダメポと思っている近衛内閣。このまま意見が合わないと内閣の進退に関わると言うことでこのことは内閣に一任することと成った…ところが15日の夜になって蒋介石から連絡が来た。立場がまずくなった内閣側は「今頃になって蒋介石が連絡取ってくるなんて話にならんわ!和平の条件なんて無条件承認にきまっとるわ!」と逆ギレ。陸軍大臣(=杉山元)の方も強硬で(北支関係とか国内が強硬なのに影響されているようだ)和平派の次官(=梅津美治郎)を押さえ込んだため部内不統一が明るみになり、大臣は責任取って辞職するとか言ってるらしい。こんなドタバタの末、内閣は統帥部(参謀本部、軍令部)を押さえ込んで1/16の声明(=「今後国民政府を相手とせず」という失礼かつ有名な近衛文麿の声明のこと)となったそうな。
・昭和13年9/17 多田参謀次長が幕僚数名と共にやってきた。いろいろダベリングした内容を要約すると(1)早く支那事変を切り上げてソ連に対して備えたい(2)今や内地では口には出さない物の支那事変早く終わってくれという声が大きい 実は一番そう思ってるのが昭和天皇(3)右翼方面の者ががやがや言ってくるかも知れないけど、彼らだって内心は「こんなのは違う」って感じているから打開の余地はあると思う。大臣と参謀総長が悪い子になればよいのだ。外務大臣は…決してそんな事はしないだろうな
 さっきから読んでいて思ったのだが、意外や意外仲の良い畑と多田。似たような性格だから?
・昭和13年12/11 中島総務部長の話によると「2,3日前多田駿からお手紙が来た。その内容は(1)畑さんは日本へ帰国決定(2)畑さんの後任は関東軍第三軍司令官山田乙三(3)その山田さんの後釜が多田」ということだった。多田さんが参謀本部から出されるのには何か事情がありそうだ
 この予想は的中することとなる↓
・昭和14年1/12 先日の人事問題にはいろいろ憶測があるようだが、石原莞爾と東条英機の対立(主として協和会第11条に関する事項)から多田参謀次長が石原側にたったので大臣(=板垣征四郎)は東条→航空総監、多田→第3軍司令官という苦渋の決定をしたとのことである。
また、近頃荒木(貞夫)、柳川(平助)という連中が真崎(甚三郎)を参議にしようと運動してるとか。誠に苦々しい限りである。本庄繁大将に依頼して「こんな事は辞めてくれ」と真崎に申し入れしたそうだが、本庄とて真崎の掌の上の人、心許ないことだ。
 「第11条」とは大日本帝国憲法第11条「天皇は軍隊を統帥す」のこと。実は上記で書いたように当初畑は石原vs東条の原因は満州国協和会にあると思っていたのだが、後で二重線でそれを消して横に「第11条」と書き直した。喧嘩の原因が協和会にあるなら単なる派閥問題なのだが、第11条がらみとなると憲法解釈問題となりかなり深刻な対立だったことになる。
 また、この頃皇道派が復権を試みていたこと、それに本庄繁が絡んでいたというのは興味深い。
・昭和14年6/14 新しく32~37に準じる編成の師団を新設し、今年の秋冬の頃に現地に交代派遣することになった
 今田が最後に配属された第36師団はこの時に作られたものなのか。なお畑日記ではこの師団の消息を「ガダルカナル方面の形勢依然不良にして(中略)ゆゆいかぬとのことに目下攻撃再興準備中にて、第17軍(百武(晴吉))に更に38,51の両D(※師団の略号)を加へ、又ニューギニアのポートモレスビーに対しても地形の困難なる為攻撃中々用意成らず、今度第18軍を設け北支方面軍参謀長安達(二十三)中将を軍司令官とし、追て6D以下2,3師団を以てこの方面に作戦せしめ(昭和17年11/11)」「一方ニューギニア方面に於ける敵飛行機の行動活発となり、制空を要せざれば我補給は困難なる状況にして(昭和18年4/5)」「米のニューギニア方面の攻勢機運は先般来活発となりたるが(昭和18年5/12)」「東南太平洋方面の敵機依然優勢にして2000機を算するものの如く、我は之に対しラバウル方面に海軍150機、ニューギニア方面に陸軍80機に過ぎず。第一線は500機を獲れば反攻容易なりと熱望しあり(昭和19年1/17)」…と師団名は明記していないが、簡略に伝えている。
・昭和14年7/6 板垣征四郎陸相が昨日昭和天皇と話をしたとき、その御下問の内容を重大に捉えた板垣は大臣を辞職しようとした。で、畑(※このとき侍従武官になっています)が昭和天皇と会って話を聞いてみると、「昨日板垣に話した内容というのは(1)山下奉文、石原莞爾の栄転ってどうよ(2)寺内寿一がドイツに派遣されるというのもどうよ(向こうから招待されたから行くと簡単に言えばいいのに「防共枢軸の強化の為」という余り好ましくないことを強調し、その流れで外務大臣の言ったことと反対のことを言ったりする)こういう軽々しい発言をするのは陸軍の教育が主観的に過ぎ、元来幼年学校の教育がドイツ流の手段を選ばず独断専行型だからじゃないのか?」最後に畑が昭和天皇に「板垣はおしかり置き程度のものなんでしょうか」と言うと「その程度であって辞表出すまでのことではない」と言うことだった。
 有名な「昭和天皇が陸軍幼年学校をぼろくそにいった話」はこの辺がベースになってるんでしょうか。なおこの人事問題、この後に続きがある↓
・昭和14年7/11 先日の人事問題、山下奉文は天津問題で、石原莞爾は浅原事件に関係しているので親補職に栄転させるというのは納得できない、寺内寿一は「防共枢軸強化」という政治目標がよろしくないので派遣は不可である、と裁可が降りなかった。結局、石原は浅原事件取り調べ終了まで、山下は天津問題の解決まで保留とし、寺内は書類を訂正して再上奏することとした。
 浅原事件については拙ブログこちら 今田はこれに連坐して左遷されたとされるが…(『秘録東条英機暗殺計画』)「天津問題」と山下奉文の関係についてはこちら
・昭和14年9/8 侍従武官長の後任は第十六師団長・藤江恵輔中将と内定し前陸相(板垣征四郎)から上奏し天皇のご裁可まで出ていたのに藤江中将が視力障害を理由に断ってきたので蓮沼蕃に急遽差し替えた。これは「陸軍から武官長出せないなら海軍からだしちゃお~」と海軍が動き出したので先手を取ったのだが、たまたま藤江の後任が石原莞爾だったので「石原を師団長にしたいので藤江を待機状態にしたのか」と悪口たたかれる始末(特に海軍が)
・昭和15年12/15 大臣在任中に辻政信が上京して東亜連盟の思想について報告したので「よく検討するように」と回答して置いたのだが、その後中国に転勤してきたら東亜連盟運動がやたら盛んになっていて、板垣征四郎との会話の時にもこの話題が出るし、汪兆銘もこの運動に賛成のようだ。最近では中支から南支、更に北支にまでもこの運動が広がっていてえらい勢力になっている。ところが、東条英機は感情的な問題もあってこの運動を毛嫌いして「俺が大臣になってる間は東亜連盟は絶対に許さない!」と公言している。阿南是幾陸軍次官はこの状態を憂えていて、何とか融和させようと策を講じていると言った。
 あの辻政信登場。実はこの後にも登場する。それにしてもこの当時は石原莞爾が提唱した東亜連盟運動がえらい勢力になっていたことが伺えて興味深いです。東条がこれを毛嫌いしてたのは…ま、しょうがないしょ(^^;)
・昭和16年3/20 板垣征四郎総参謀長が北支に出張することになった。それは田中隆吉兵務局長が太原にいたときに閻錫山の寝返り工作をやっていたのだが参謀長の更迭で頓挫してしまったので、これを再開するために行ったのだ
 再びモンスター田中登場。閻錫山寝返りとはまたまた胡散臭い活動をやっておられたんですな。なお、田中隆吉はこの頃東条英機に同行してたまたま太原に出張していたので、この工作に再び関わることになったらしい(3/24条)
・昭和16年6/5 汪兆銘が来日することになった。汪は首、陸、海、外、蔵相の他に平沼威一郎内務大臣と頭山満に面会を希望しているとのことである。
 汪兆銘が内閣首脳部に面会を求めるのは当然なのだが、その他に政界の右翼大物・平沼と民間の右翼大物・頭山に面会を求めたのは非常に興味深い。なお、頭山との面会では「全面和平は国府(=国民党)の強化より招来すべきものなり、ただ私と蒋介石の間に個人的問題が起きたときには仲裁を宜しく」と依頼したという(6/30条)ちなみに何度も書いてきたが、頭山満は今田の父/主税の盟友である。
・昭和17年1/14 広東、香港に出張。総参謀長の報告によると第23軍の幕僚には政治的興味を持つ者が少なく、加えて参謀長・栗林忠道は事務に没頭し軍司令官を十分に補佐できていないばかりか、軍司令官も栗林を信用していない様子で、香港の占領行政は全く出来ていない
 今田には全く関係ないのだが、有名な栗林忠道に関する珍しい否定的な評価なのでのせてみた。
・昭和17年3/8 路安に出張し、第36師団長・井関仭の司令部で上京を聞いた
 この頃今田は既にこの第36師団の参謀長となっているが、この記事には名前が出てこない(涙)
・昭和17年11/30 駐ドイツ大使・大島浩の情勢判断(中略)由来大島大使の判断はドイツ側に常に有利な内容であり、要注意である。
 鋭い畑さん。事実畑日記にはこの前後にも大島大使の報告なるものが出てくるが、やたらナチス・ドイツよりで余り正確な報告が出来ていない形跡がある。それというのも大島がドイツびいきだったから。困った大使である。
・昭和17年6/15 「参謀本部第一部部員辻中佐(従来よく問題となる漢なり)連絡の為来寧」
 原文のまま引用しました。畑さん的には「よく問題となる男」だったんですね。あーやっぱりそうだったんだヾ(^^;) ところがまた辻は後で問題を起こす↓
・昭和18年2/22 上海にいた項営(項英?)のもとに重慶(=国民党)側のスパイが近づいて「一度重慶の上京を見てはどう?」と言う話があったのを人づてに聞いた辻政信は項英を信用してその従者と成って重慶に乗り込み状況を察知した…というのは辻一流の思い込みであって、ここに重慶側のブローカーやら入ってきて話はとんとん拍子に進んで、さらに国民党は「項営が辻を御供にして重慶に来ることを許可するし、道中護衛もする」と言う話まで出て辻はますます有頂天となり、畑の所にやってきて重慶行きの許可を求めた。畑が「これだけの条件じゃ駄目だ」と突き返したら、辻は「では噂話として中央当局に話してみるのはよいか」というので「それくらいなら良いだろう」と返したところ、2/10に「兵站関係」との用件で上京していった(でも本心は上記の工作をする為だったらしい、さらに1月には既に三笠宮殿下にまで話してしまっていた 宮様共鳴したらしいけど…)。これを辻から聞いた中央当局が柴山兼四郎に至急の状況命令があってこの話をしたところ、柴山は大反対「これが実行できるかどうかは首相(東条英機)の決意如何である」といったところ、結局「時期を待つことに」となった。
・昭和18年2/13 柴山兼四郎が上記の辻工作について汪兆銘と話をしたところ、汪兆銘も反対、更に「私が聞いたところでは重慶は日本敗北を希望してるし、英米もソ連対策から支那が自立更生する必要があり、それには日本が邪魔であるので負けて欲しいと思ってる。今辻大佐が出て行ってもルドルフ・ヘスの二の舞だし、更にヘスはまだ副総理だったけど辻さんは一介の総軍課長でしょ?」と返答された。
 キタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!!暴走つじーん。なおここでは省略しましたが、辻は「この作戦は汪兆銘首席が了解すれば実行すべし」と報告し、勝手に汪兆銘に会いにいったらしいです…(畑さんも「適当と言い難し」と怒り心頭)
・昭和19年7/15 田中敬二中佐、辻大佐の後任・松谷誠大佐の報告を総合すると「(中略)内地は母屋に火が付いた状態なので、支那のことは派遣軍で適当にやって下さい、中央に心配掛けないで」ということらしい…ふざけんな自分から種蒔いて今頃何いっとるんじゃ!!!
 意訳ですが、ほんとにこれくらいの勢いで畑さんは怒りを日記に書いています。
・昭和19年9/19 半島特別志願兵が脱走したという第65師団の軸重隊を視察。隊長の報告によれば「半島からの志願兵だから」と言う事で訓練に力を入れすぎ、これが却って怠惰なる彼らの耐えられないところとなり脱走したという。隊の好意に慣れきってたのと駐屯していた徐州は半島人が多かったので脱走しやすかったんだろう。尚脱走兵の多くは親四軍か蒋介石軍に投降したらしい。要は半島徴兵なんて時期尚早、飽く迄度し難い民族である
 前紹介した畑俊六回想録でもそうだが、朝鮮・台湾人に対する見方が辛い畑さん。最も差別的と言うより現地で冷静にものみた結果こうなったとも言えるが…
・昭和20年1/11 東京陸軍幼年学校視察したら生徒の体格が小さいのにビックリ
 この辺の話は『帰らざる夏』(加賀乙彦著)にも出て来ます。皆様既にご明察でしょうが、栄養不足が原因でした。
・昭和20年2/27 小磯国昭が何とか国会を打開しようと宇垣一成を翼制会の党首に推したが、陸軍三長官は「え~、宇垣~」と嫌な顔(宇垣が米内光政のように現役復帰して陸軍大臣を狙ってくる可能性を恐れている)。小磯はなお押す気でいるようだが、宇垣大将も色気むんむんだし。本当に困ったじいさんである>宇垣
 (^^;)



長々成りましたが引用は以上。
結構興味深い話が多く、中々削れませんでした…

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