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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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今回ご紹介するのは読売新聞社から昭和40年代に出された『昭和史の天皇』です。地元の図書館の検索で見たら何と30巻もあるみたい。しかも更にこんなに重量級の本なのに索引がないようだ。

これは許せぬ読売。ナベツネは責任を取れ!ヾ(^^;)

…で、これまたネット検索で今田新太郎の記述があることを見つけたのでした。第25巻になります。
もしかしたら他の巻にも今田記述があるのかも知れないのですが、上記の通り索引がないので探すのは諦めました。ごめんなさいヾ(--;)

ではまいる。
…って、あれ?今田の話は、何とあの片倉衷の談話で出てくるようです。


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協和会というのは、満州国(現中国東北)建国直後の昭和7年7月に創立されたんだが、当時で言えば日本の翼賛団体みたいな物です。満州国というのは所謂五族協和、満州、漢(中国)、朝鮮、蒙古、日本の五つの民族の協和と言うことから、民族的にも国としても、なんていうか、一つの密着剤が必要だっが。そういう組織体が協和会ですよ。民間も、官吏も、軍人もこれに入っていて、しかし政治には直接関係はしない。だから政治団体でも思想団体でもなく、政治的思想的団体だというのが当時の概念でした。
余談になりますが、協和会が発足してまもなくの頃でしたか、私はまだ関東軍参謀でいたんですが、われわれの仲間の一人で今田新太郎というのが参謀本部にいたが、それが東京から飛んできましてね、奉天(現在・瀋陽)で会ったところ、
「君らはとんでもないことをやっている。何か民主主義の"共和会"を作るとは何事だ」
と言うんです。戦前は民主主義は"アカ"という十把一からげの言い方で共産主義と同義語、反国家思想、つまり協和会=共和会と早とちりしている。今田氏ですらそういう認識、参謀本部の幹部の見る目も推して知るべし、後で私が参謀本部員になって、当時の軍の電報を調べてみると憲兵関係の物にこの『共和会』としたのがいっぱいあって、改めて驚いたものでした。協和会というのは満州国の役人その他を通じて赤色のなにかを作るもくろみを持っているように彼らは考えていたんです。
「二つの暴走」”"協和会"の性格” p.190
今田と片倉の間については微妙な物があったのは先述した。ではこの証言もやはり今田を落とすための虚言なのか?
…それについては私はそうは考えず、この話はほぼ事実なのではないかと思う。
理由としては
・今田は初期の満州国の政府立ち上げに関わったが(自治指導部)、どうも協和会を立ち上げた満州青年同盟とは遠く、それと対立した大雄峰会側に近いように思われる
・今田の父・主税は頭山満の盟友であり、今田もその影響下にあったのは言うまでもない。上記のような考えを持っていてもおかしくない
などです。

この本にはもう1か所今田が登場します。
昭和14年の"浅原事件"は、軍中央の意図で、誰もケガ人を出さないよう処理されたが(中略)この間石原中将は京都の第16師団長に進歩親補されたが、昭和16年3月待命になった。軍職を退いたわけで、この人事を行ったのはライバルの東条陸相である。
ところが石原氏が満州(中国東北)における五族協和の理想像を目指し、その運動団体として東亜連盟を指導したことはよく知られている。その協力者の一人が"満州グループ"の今田新太郎大佐だった。今田大佐は浅原氏とも昵懇の間柄であることは前に述べた。昭和16年の春から20年夏にかけて第36師団参謀長で北シ(華北)に駐屯しており、18年春、部下に津野田知重少佐参謀がいた。津野田参謀が東亜連盟思想に共鳴するのにそう時間はかからなかった。更に連盟思想をタテ軸に石原氏の人物像に傾倒しただろう事も想像にかたくない。
津野田参謀は18年6月には支那派遣軍参謀へ、更に翌19年6月、大本営参謀に転じるが、支那派遣総参謀長は石原氏とは血盟の中の板垣征四郎大将である。その影響は濃密な物になる。そして大谷敬二郎氏の「昭和憲兵史」によると、上海の浅原氏を訪れて意見をあれこれ聞き、その識見に敬服したという。
「二つの暴走」"「浅原事件」始末"p.197-198
津野田知重については先述した。 これとかこれ
『昭和史の天皇』のこの記述は恐らく文中で紹介されている大谷敬二郎著「昭和憲兵史」を参考にしたと思われるが、当事者・津野田の証言とはやや異なる。津野田は東亜連盟思想に共鳴したと言うよりは今田の思想に共鳴したのである。また、板垣征四郎とは恐らく接点はなかったと思われる。

後今田の記述は出てこないが、今田に深く関わっている浅原事件について興味深い証言を片倉衷がしている。
浅原君は、元来は東条(英機)さんとの関係は悪くなかったんですよ。
(中略)
ところが、その年(※昭和13年 ばんない補足)の9月に、石原さんが参謀本部の作戦部長から関東軍の参謀副長で東条さんの下に来たでしょう。(中略)その時に山口重次とか韓雲階とか満州(中国東北)のいろんな人たちが満州政策について東条さんを怒らすような問題を石原さんに持ち込むと言うこともあって、二人の間がうまくいかなくなった。それを東条さんは、ひが目もあって、浅原君が石原さんに知恵を付けていると感じたんです。
(中略)
一方、その頃東京の協和会事務所で、五郎丸保というのが浅原君を憲兵に密告したと言われるんです。五郎丸は元々長く協和会事務所をやっていたんですが、そこへ浅原君が入ったものだから「浅原は石原や板垣の意を受けておれを抑えようとしている。けしからん」という気持ちがある。一方では、さっきの石原さんの動きとか、石原ファンが流言を飛ばしているときに、浅原君がまた「石原を使え」という。そこで「浅原はアカだ。石原や協和会を利用して国内改造を図っている」と密告したんですね。
で、この事件では、浅原君を外へ出し、それに関連した将校もなるべく散らすという方策が採られたんです。(攻略)
「二つの暴走」”石原追い落とし” p.195-196
五郎丸保は山口重次のこの写真に登場。恐らく満州青年協会の関係者と思われる。東京の協和会事務所は上記のように石原莞爾と浅原建三の政策本部へと脱線していくのですが、満州に固執する満州青年協会=協和会メンバーの五郎丸としたら耐えられない状態だったでしょう。でも山口重次は石原莞爾を死後も慕っていたようで追悼文なども書いてたりしますが。まあ利己主義者?の山口ですんで…



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