しいまんづ雑記旧録
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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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2019-04-30T15:15:18+09:00
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藤原百能の母
当ブログ名物?人探しのコーナーです(^^;)
今までの人探しの記録
・「宇土御姉」とか「島津林雪」って誰なの? ※未解決なのでまだ情報お待ちしてます<(_ _)>
・「増喜」って誰? と思ったら伊集院忠真のことかよ_| ̄|○
・「春宋(春栄)」って誰? 1,2,3,4
・「花室大姉」っ...
今までの人探しの記録
・「宇土御姉」とか「島津林雪」って誰なの? ※未解決なのでまだ情報お待ちしてます<(_ _)>
・「増喜」って誰? と思ったら伊集院忠真のことかよ_| ̄|○
・「春宋(春栄)」って誰? 1,2,3,4
・「花室大姉」って誰?
・「藤原祐寿」って誰じゃ
・『三川雑記』にでてくる「島津重豪にバカにされたかわいそうなお殿様」
今回のネタは藤原百能という人のお母さん。
「藤原百能」知っている人はそこそこの古代史マニアかと。
拙ブログではこの辺でちょろっとだけご登場されています。藤原仲麻呂にボコボコにされたヾ(^^;)実兄・藤原豊成の正室で高級女官だった、と言った方が通りが良いかも。
この人は藤原京家の初代・藤原麻呂の娘でした。ところが母親については『尊卑分脈』で「母当麻氏」とあるだけで、皆目不詳。
当麻氏というのは用明天皇の皇子・当麻皇子の末裔を称していたという、一応血統ではそこそこの一族なんですが、実際『続日本紀』等を見る限りでは従三位以上の高位に登った官人がおらず、地味な氏族だったと考えられます。
ところが、先日『興福寺流記』と言う史料を読んでいたら興味深い記述を発見。
なんと百能が父と母のために興福寺に寄付をしていたらしい。
記述を引用してみる。一.東瓦葺堂 一宇
延暦記瓦葺小塔堂広四丈八尺在板庇敷板云々
(中略)
<土念>阿弥陀佛像并脇侍并像并僧正三位尚侍商蔵藤原夫人為往生回所也其一切経同夫人奉為所天故正一位右大臣藤原先考左右京大夫藤原先妣従四位下堂麻氏夫人以水田五十町永入寺社安置 所像及一切経論夜々長鑄燃燈日々屈三僧轉一切経谷三所息延暦弘仁記同之
http://webarchives.tnm.jp/dlib/img/3846;jsessionid=34E6798D63AE4F2273FE6FEEF9F10CF3/thumb/L0254478.jpg
どうも転写されるうちに誤記があったらしく、変な漢字が出て来たりとか読みにくい文章になっていますが、簡単に訳してみると
「阿弥陀仏像と脇侍、他の像、僧は正三位尚侍兼尚蔵の藤原夫人(=百能)が往生を願って納めた物である。その一切経も同夫人が夫の故正一位右大臣藤原(豊成)、亡父・左右大夫藤原(麻呂)、亡母従四位下当麻氏夫人のために水田50町を寺社に長く納め(行わせたものである)。一切経は夜々長く灯明を灯して僧侶が唱えていると…延暦記、弘仁記に同じ記述がある」
というところかと。
この東瓦葺堂は、孝謙・称徳天皇が天平宝字8年にあの現存世界最古の印刷物として知られる陀羅尼経+百万塔を納めるために造ったお堂のようなんですが、そこに百能は後から阿弥陀三尊像他を寄付して夫・豊成と両親の供養をしたようです。
拙ブログ的に重要なのは先妣従四位下堂麻氏夫人
というところ。つまり、百能の母は
・従四位下の女官
・従四位下当麻某の娘
のどちらかと言うことではないかと考えます。
…つまり『続日本紀』などで「従四位下当麻○○」という人を捜していったら、百能のおかあさん(かその親)にぶち当たる可能性は高い!?
では探してみましょう!
(1)女官従四位下当麻○○
古代の日本人捜しといえば!ヾ(^^;)…の『日本古代人名事典』(4巻し~て 吉川弘文館)を探したのですが…いませんでした!_(。_゜)/というか、当麻氏の女性って史料には淳仁天皇の母・当麻山背しか登場せんのな…。
(2)従四位下当麻○○
やはり先述の『日本古代人名事典』4巻を使って探してみる。
・当麻桜井:?-和銅8年2月14日(715年3月23日)。最終官位従四位下。
『日本書紀』によれば持統天皇3年(689年)に判事に任ぜられるが、この時同時に判事になった一人に藤原不比等がいたという興味深い記述がある。
・当麻智徳:?-和銅4年5月11日(711年6月1日)。最終官位従四位上。
該当者はこの2人だけです。あと従五位辺りの当麻氏官人は多数いましたが、年代が合いませんでした。
と言う事で、管見による該当者は2名のみ。
桜井か、智徳か、「上」と「下」の記入間違いはよくあるので判断が難しいのですが、個人的には藤原麻呂の父・不比等と職務上のつながりがある当麻桜井が百能の母方祖父の可能性が高いと考えます。
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古代史コラム
2019-10-28T10:28:19+09:00
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橘真都我は父から子へ夫を乗り換えたのか?
&hellip;自分で書いといて何だが、何か扇情的なタイトルだな(-_-;)
前の話はこちらです。
さて。
前の話で私はこんな事を書いていた。ところでwikipediaでは許麻呂の母である橘佐為の娘=藤原是公の妻となって真友、雄友を生んだ橘佐為の娘=橘真都我と言う恐ろしいことが書いてあるんですが&...
前の話はこちらです。
さて。
前の話で私はこんな事を書いていた。ところでwikipediaでは許麻呂の母である橘佐為の娘=藤原是公の妻となって真友、雄友を生んだ橘佐為の娘=橘真都我と言う恐ろしいことが書いてあるんですが…どうなんでしょ?これがホントだったら是公はお父さんの奥さんをお父さんが死んだ後横取りしたということになりますがね…モンゴルじゃ普通にあったことのようですが、古代日本じゃどうなんだろうか余り前例がないような。
…まず、このwikipediaの話が本当なのかどうか、実際の史料に当たって調べてみようではありませんか。
長くなりそうなので、ご興味のある方は「つづきはこちら」をクリックプリーズ。
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古代史コラム
2019-10-06T04:15:00+09:00
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御無沙汰しております
実は去年の秋ぐらいから、記事を書けなくなり、2018年のうちは書きためていた物を使ったりして何とかしたのですが、年が明けると全く書けなくなってしまい、現在に至っています。
日常生活でも薬の力を借りて何とか見た目は正常に見えているようですが、思索の時間を与えてくれない家族に対するおもいが溜まっている...
日常生活でも薬の力を借りて何とか見た目は正常に見えているようですが、思索の時間を与えてくれない家族に対するおもいが溜まっている状態です。
いよいよ今晩で元号が変わるわけですが、考えることはいっぱいあったのに、それを文章に出来なかったのが残念です。
思い返せば平成は良い時代ではなかったというのは日本のみなさんなら同じ考えかと思います。
「令和」はまともな時代になれるのでしょうか。
「令和」もいきなりクサされたりけなされたりしているようですが、「昭和」にリスペクトされた元号の様に感じられてちょっと心配です。昭和も前半は混迷から転落の一途でかなりメチャクチャでしたからね…
皆様なんとか生き延びて下さいね
では]]>
雑記
2019-04-30T23:08:43+09:00
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今年もご訪問ありがとうございました<(_ _)>
平成最後の年末ですが、皆様如何お過ごしでしょうか。
拙ブログを見返してみると、毎年最後には「今年も大変な一年だったなあ」と振り返るのが通例になってきてますが、今年はとりわけ異変の多い一年でした。
7月の大豪雨、それが終われば連日40度越えの猛暑、ちょっとお盆過ぎてマシになったと思えば台風20号、21...
拙ブログを見返してみると、毎年最後には「今年も大変な一年だったなあ」と振り返るのが通例になってきてますが、今年はとりわけ異変の多い一年でした。
7月の大豪雨、それが終われば連日40度越えの猛暑、ちょっとお盆過ぎてマシになったと思えば台風20号、21号の連発、21号の翌日は北海道で大地震…
自然災害をのけても、走行中の新幹線で通り魔とか頭のおかしい人や、北朝鮮+中国の不穏な動きが更に目立つように。
平成最後の年は、名前に反して「平らか成らざる」1年でした…
平成の30年間、実は私の人生の中盤大半を占めているのですが(年がばれる罠)、
振り返ってみると、平成という時代そのものが平穏でなかったように思います。
バブルの崩壊、阪神大震災、オウム真理教事件で始まり、この30年間の歩みというのは「日本の転落」そのものだったように思います。
私的な話しで恐縮ですが、個人的にもこの30年間はかなりつらかったです。
その30年の中で「戦国島津氏(の女性)」や「今田新太郎」という埋もれていたネタ(と私は勝手に思っています 失礼ご容赦)に遭遇して、HPを立ち上げたり、ブログを書けたのは数少ない僥倖だったのかなあ、とも思います。
…世間様の役にどれくらい立てているのか分からないんですが。
更に振り返ってみると、1945年に戦争に負けた時点から日本国民は必死になって這い上がってきたのですが、その到達点「世界で一番長寿」に実際になってみるとちっとも幸せじゃなかったという…戦後約70年の歩みが、結局「壮大な実験の破綻」だったというのは認めたくないのですが、連日報道される山のような高齢者問題を見ると、認めざるを得ないでしょう。
さて。
今年は前年度までよりは更新頻度が上げられたのが個人的には良かった点かな、と自己満足しています。ただ、内容が拙ブログの本来のネタである戦国島津がらみじゃなく、古代日本史ネタに偏って、昔からの読者の皆様には申し訳なくお詫び申し上げます<(_ _)> 平成もまもなく終わり、今まで死蔵していた自分の考えなどの諸々を整理していきたいなと言うのが、これから迎える新しい時代での私のテーマです。これを世間では「終活」という(苦笑)
…しかし、今年の猛暑ではエアコンかけて部屋冷やしても肝心の頭が働かず、やっと9月に入って涼しくなってきたと思ったところで、私生活でつらいことがあってどうしようもない事態に陥ってしまいまして。実は夏場以降の更新ネタの大半が、6月以前に書いていた物です。今頃ネタ晴らし(^^;) 来年以降も日本はこんな調子なんでしょうか。よく「熱帯の人間はサボりが多い」なんて酷評されてますが、サボりが多いんじゃなくて、暑さで動けないんですね…今回しみじみ悟りました。
拙HPも今年は3年ぶりに(ヲイ)更新しました。手直し程度なんですが(^^;)
来年以降もさくさくと進めていけたらいいなあ、と思っております。
では皆様、良いお年をお迎え下さい<(_ _)>]]>
雑記
2018-12-31T23:56:08+09:00
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過激すぎる歴史学徒の戦後。
前の話はこちらです。 前編 後編
実は、図書館で検索していて偶然に『学徒出陣の記録』には続編があったことを知る。
今回借りて参りました。
『学徒出陣から五十年』
前作は中公新書というメジャーどころから出されたのですが、こちらはどうも自費出版だったようで、それが気が付かなかった一因かと思われます...
前編 後編
実は、図書館で検索していて偶然に『学徒出陣の記録』には続編があったことを知る。
今回借りて参りました。
『学徒出陣から五十年』
前作は中公新書というメジャーどころから出されたのですが、こちらはどうも自費出版だったようで、それが気が付かなかった一因かと思われます。ただ、本自体のパッと見た目は中公新書っぽいんだよなあ(^^;)
実はこの本がだされた1993年(平成4年)時点で、この記事のネタ主ヾ(--;)・土田直鎮氏はガンのため死去されています…なので、前回(昭和43年)以後の考え方の変遷などを伺う文章が載せられていないのが残念なのですが、亡くなる直前に書かれたコラムなどが掲載されており、戦後の土田氏の歩みを伺うことは可能です。
こちらの本と、『歴史と私』(中公新書)を併用して、「過激な歴史学徒」土田直鎮青年がその後どうなったのかを、簡単にたどってみる。
ご興味のある方は「つづきはこちら」をクリックプリーズ。
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雑記
2018-12-08T01:52:55+09:00
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播磨の犬寺と枚夫長者の伝説 その壱
「播磨の犬寺」&hellip;と言っても兵庫県民でも知らない人の方が多いかも知れない。
が!実は1300年ぐらい歴史のあるお寺のようで、公式HPもちゃんと存在している。こちら
ちなみに正式名は「法楽寺」という&hellip;が、公式アドレスが既に「犬寺(inudera)」。
&hellip;最近更新...
が!実は1300年ぐらい歴史のあるお寺のようで、公式HPもちゃんと存在している。こちら
ちなみに正式名は「法楽寺」という…が、公式アドレスが既に「犬寺(inudera)」。
…最近更新されてないのが心配だがヾ(--;)
という、自分のことを棚に上げた話はおいといて
このお寺には極めて独自性の高い奇妙な創建説話が伝わっている。管見では、他の寺では同じ話を聞いたことがない。少なくともこのお寺の近隣で同じ説話を持っているところは見たことがない。公式HPから引用してみよう 大化年間、現在の兵庫県神崎郡神河町に枚夫長者という豪族がいた。彼には子供がいなかったが、二匹の愛犬を我が子のようにかわいがっていた。
そのころ都で戦が起こり、枚夫長者もその戦に従軍することになった。
その留守中家来と枚夫長者の妻が不倫関係となり、やがて帰ってきた枚夫長者を狩りに誘い出し殺そうとした。その危ないところを助けたのが、二匹の愛犬たちだった。
大変感激した枚夫長者は愛犬の死後、私財をなげうって伽藍を建立した。
以後、三度野火が迫るも千手観世音菩薩の霊験か、伽藍には被害がなかったという。そのことが、桓武天皇のお耳に達し当山を「官寺」とした。
http://www.inudera.com/engi.html
実はこの話、初出は「元亨釈書」という鎌倉時代に成立した日本仏教史解説本で、次に出てくるのが室町時代に成立した「峰相記」という播磨国の寺社解説本。両方でちょっと字が違ったりする個所もある(主人公の名前が「元号釈書」では”枚夫(ひらふ)”「峰相記」では“秀符(ひでふ)”)が、ほぼ上記で紹介したのと同じ内容である。
・「元亨釈書」版はこちら
・「峰相記」版はこちら
余りにも興味深い説話なので、地元の郷土誌かなんかで既に論究されているだろうと思った
ら、何と意外なことに郷土誌自体が存在してないことを今頃確認(○。○)
…拙ブログのネタ元・島津氏関係では各市町の郷土誌に大変お世話になったので、「鹿児島県でもこんなにあるから、兵庫県でも」と思ったのが大間違い_| ̄|○というか鹿児島のことなめててごめんなさい
ネットで検索してみたが、この話をネタにしている論文や本の類はないようだ…。地元の観光協会などで話に触れているのは以下の通り
・神河町観光協会「播磨犬寺物語」(pdf)
・兵庫県教育委員会「犬寺物語」(pdf)
但し両方共話を紹介しているだけで、その背景などを詳しく検証した物ではない。
図書館で調べた所、『兵庫県史』では論究無し、また一般向けの『兵庫史を歩く』『新兵庫史を歩く』『新兵庫史を歩く2』(以上NHK神戸放送局/神戸新聞総合出版センター)、『播磨史の謎に迫る』(播磨学研究所/神戸新聞総合出版センター)を見たが、「犬寺」「法楽寺」の名前すら出てこない_| ̄|○
学術的に検証してそうな論文はciniiで検索した限りでは以下の物だけのようだ。
・『犬寺縁起絵巻』の成立 : 付・翻刻(徳田和夫、学習院女子大学紀要 1, 43-68, 1999)
・再び『犬寺縁起絵巻』について(徳田和夫、学習院女子大学紀要 2, 1-13, 2000)
※「犬寺縁起絵巻」は先述の話を元に江戸時代に描かれた絵巻物で、内容に脚色が入っているという。現在は大阪市立美術館所蔵。
…こんな面白いネタなのに、何と全く手つかず状態だった…(-_-;)
が!こういうネタこそばんないの好物(ヲイ)
今まで拙ブログで「このネタ手つかず!」…と食い散らしたネタは以下の通り数知れず?ヾ(^^;)
・島津義弘のあの肖像画
・「昭和15年在神戸英国領事館襲撃事件」について
こんな美味しいお話に食いつかない方が勿体ないでしょう!?
…ということで、この辺が切りが良いので、次回に続くということで_(。_゜)/。]]>
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2018-12-06T17:12:44+09:00
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「式部尊」藤原朝臣? その参
前の話はこちらです。
ところで、実際「正倉院文書」に&rdquo;○○尊&rdquo;という単語は何回出てくるのだろうか。
東大史料編纂所データベースを元に検索してみて管見に引っかかった物をリストしてみました。
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こちらです。
ところで、実際「正倉院文書」に”○○尊”という単語は何回出てくるのだろうか。
東大史料編纂所データベースを元に検索してみて管見に引っかかった物をリストしてみました。
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2018-11-11T01:33:26+09:00
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「式部尊」藤原朝臣? その弐
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2018-11-05T01:00:49+09:00
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「式部尊」藤原朝臣? その壱
実は東大史料編纂所データベースの『大日本古文書』を用があって検索していたときに偶然見つけたんだが○造東大寺司解案(続々修16帙1)
(中略)
大輔藤原朝臣
八巻金光明経□一部八巻 依式部尊十五年九月廿日宣所奉写者
...
○造東大寺司解案(続々修16帙1)
(中略)
大輔藤原朝臣
八巻金光明経□一部八巻 依式部尊十五年九月廿日宣所奉写者
可着経一丈六尺巻別二尺 軸八枚
(後略)
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/image/idata/850/8500/05/0010/0377.tif『大日本古文書』の注釈によると「式部尊藤原朝臣」を藤原豊成としている。…が、実は豊成は式部省関連の役職に就いたことがないのである。養老7年(723年) 日付不詳:内舎人兼兵部大丞
神亀元年(724年) 2月22日:従五位下。日付不詳:兵部少輔
天平4年(732年) 正月20日:従五位上
天平9年(737年) 2月14日:正五位上(越階)。9月28日:従四位下。12月12日:参議、兵部卿
天平11年(739年) 正月13日:正四位下(越階)
天平12年(740年) 正月:兼中衛大将
天平14年(740年) 日付不詳:兼中務卿
天平15年(743年) 5月5日:従三位、中納言、中衛大将如元
天平18年(746年) 4月5日:東海道鎮撫使
天平20年(748年) 3月22日:従二位、大納言、中衛大将如元
天平感宝元年(749年) 4月14日:右大臣
天平勝宝6年(754年) 11月1日:東山道巡察使
天平勝宝8年(756年) 5月3日:御装束司(聖武上皇崩御)
天平勝宝9年(757年) 5月20日:正二位。7月12日:大宰員外帥、停右大臣
天平宝字8年(764年) 9月14日:復右大臣。9月20日:従一位
wikipediaより引用 スイマセン手抜きで(^^;)
天平15年には豊成は中納言兼中衛大将。式部卿兼任…は考えられなくもないが、文書では「式部大輔」と書いてある。中納言クラスの藤原豊成のような人物が次官の大輔兼任というのは考えづらい。また、この頃の式部卿は知太政官事だった鈴鹿王(『続日本紀』天平17年9月4日条)と推定される。
では、この文書に書かれた「天平15年9月20日」の時点で式部大輔に就いていた藤原氏は誰なのか?…これは藤原八束しか考えられない。『続日本紀』天平神護2年3月条の薨伝で在籍年月不詳だが「正五位下式部大輔兼右衛士督」とあること、同じ『続日本紀』天平13年12月に右衛士督(当時従五位上)に、天平15年5月に従五位上から正五位下に昇進していることから類推される。「正倉院文書」天平17年2月24日の文書(続々修35帙6巻、『大日本古文書』2-395)に「従四位下行右衛士督兼大輔藤原朝臣」と書かれている人物も藤原八束を指すというのが通説。
ただ、『大日本古文書』自体が翻刻する時点で間違った可能性もあるので、念のため影印本も入手してみることに。『正倉院古文書影印集成』というのが影印本らしいんだが…なんと当該文書はまだ所収されてないことが判明⊂(。Д。⊂⌒`つ。マイクロフィルム化はされているようなんだが、これがまたほとんどの大学で所蔵してないという代物・゚・(´Д⊂ヽ・゚・
…と言う事で、遠路はるばる宮城県からcopyを取り寄せました。
まさか石原完爾ネタ以外で宮城県からcopyを取り寄せる羽目になるとは思わなかった(^^;)。
実物copyを見た第一印象 予想と大違いで愕然…
表面は清書っぽいと聞いていた(『大日本古文書』の説明もそう書いてあった)のだが、全然清書っぽくない…と言うかすごい下手字ヾ(--;)。どういう事なんだこの文書。
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古代史コラム
2018-10-27T01:48:27+09:00
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宮内庁書陵部
検索していて、気になる史料を見つけた。
所蔵しているのは何と宮内庁の書陵部。
しかし、HPをよく読んでみると、手続きさえちゃんとすれば、プロの研究者以外にも公開しているようだ。
ということで、9月上旬頃に電話で問い合わせてみました。
※「電話で問い合わせ」したのは、HPはあるが、Eメールでの受付を...
所蔵しているのは何と宮内庁の書陵部。
しかし、HPをよく読んでみると、手続きさえちゃんとすれば、プロの研究者以外にも公開しているようだ。
ということで、9月上旬頃に電話で問い合わせてみました。
※「電話で問い合わせ」したのは、HPはあるが、Eメールでの受付をしていなかったので。
電話に出たのは感じの良い女性。「HPでみた書陵部の史料について…」というと「担当に回しますね」
ということで、転送されたら、次に対応してくれたのは
どーんよりした声色の男性ヾ(^^;)
おそるおそる聞いてみる
「…あの、HPで○○○という史料を所蔵されていると見たのですが、COPY可能でしょうか」
「あー、大体の史料は大丈夫だと思いますよ。」
という、何か心許ない回答ではあったが、指示されたとおり 封書 で申請。
それから申請したことを忘れかけた約2週間後に、
「宮内庁」
と印字された封筒がポストに入っていた。
文書内容は
「宮内書初○○○号
平成30年9月○○日
○○○○(※ばんない本名)殿
宮内庁書陵部長(印)
平成30年9月○日付けで申請のあった資料の使用については下記の通り差し支えありません。
(以下略)」
…文章がガチガチに硬いヾ(^^;)さすが宮内庁。
ただ、肝心の資料本体は入っておらず、別紙に「後日郵送」「請求書は資料と同封」と書いてあった。
そして申請自体をすっかり忘れた(ヲイ)一昨日になって、身に覚えのない小包が…
送り主をよく見ると「宮内庁依頼資料」と書いてある。それをみて「ああ、あれかあ!」と思い出したのであった。
肝心の中身なのだが
COPY用紙A4が3枚(資料の内容が内容(←謎)だったのでもっと大きな物かと思っていたのだが…)
問題なのはこれだけの文書で
請求金額¥1490⊂(。Д。⊂⌒`つ
…な、なんてぼろい商売ヾ(--;)
高額になった原因としてはCOPY3枚をわざわざゆうパック60サイズで送って下さったと言うこともあるかと。というか、その分量なら普通郵便でも良かったです…。せめてクリックポストとか
今時申請にメールもつかえず、レスポンスは申請から1ヶ月半というカタツムリもビックリの遅さヾ(--;)
でも、勤めるならこんな所が良かったかなあ、と思ったのでした(ヲイ)
宮内庁書陵部は最初から就職先の候補にも入ってなかった、不覚ヾ(^^;)もっともこっちが希望しても簡単に就職できる場所じゃないというのは重々承知してますけどねー。
肝心の史料については後日公開(来年になるかも?)]]>
雑記
2018-10-21T23:22:43+09:00
ばんない
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