拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
前回予告したとおり、『「挫折」の昭和史』に登場する花谷正のエピソードです。
この人と今田のつながりというと、柳条湖事件、そして昭和32年にこの事件の実態を秦郁彦のインタビューで”暴露”した「花谷証言」に尽きます。
まず結論から先に書いちゃいますと
「やっぱり花谷って酷い人間だよねー」
ということです。
あと、片倉衷についてもいろいろ書いてられるので、それも取り上げていきます。
ではまいる。
この人と今田のつながりというと、柳条湖事件、そして昭和32年にこの事件の実態を秦郁彦のインタビューで”暴露”した「花谷証言」に尽きます。
まず結論から先に書いちゃいますと
「やっぱり花谷って酷い人間だよねー」
ということです。
あと、片倉衷についてもいろいろ書いてられるので、それも取り上げていきます。
ではまいる。
関東軍内部の石原の協力者として高級参謀板垣征四郎大佐はよく知られている。参謀片倉衷も、自ら数多くの回想を書いているのでよく知られている。石原は昭和5年に関東軍幕僚付に転補されて来た片倉に里見岸雄を紹介している(片倉衷『片倉参謀の証言-叛乱と鎮圧-』芙蓉書房 1981年 52頁)。最も、満州事変の時は石原の片腕だった片倉は、後に東条派に変わるが、(後略)
p.204
この花谷は、すでに張作霖爆死事件に関係していた陰謀のエキスパートであった。昭和3年9月奉天総領事代理として赴任し、戦後『陰謀・暗殺・軍刀-一外交官の回想』(岩波新書 1950年)と言う貴重な証言を残している森島守人は、爆破事件について「河本大佐と、その下におった花谷正という参謀等2,3人の陰謀だったと思われるんです」と発言している(「満州某重大事件」テレビ東京報道部編『証言・私の昭和史①昭和初期』文春文庫 1989年 248頁)。
ただし柳条湖の鉄道爆破では、片倉衷の証言に「特務機関の花谷少佐は初めは参画していたが、途中から外された」とある(「満州事変勃発す」『片倉参謀の証言-叛乱と鎮圧-』259頁)
p.204~205
柳条湖の爆破事件が起きた後、森島は特務機関に呼ばれて赴き、板垣大佐に出動の「軍命令は誰が出したか」と訊ね、領事官が平和理に解決できると進言したところ、
《同大佐は語気も荒々しく「既に統帥権の発動をみたのに、総領事館は統帥権に容喙、干渉せんとするのか」と反問し、同席していた花谷の如きは、私の面前で軍刀を引き抜き「統帥権に容喙する者は容赦しない」とて威嚇的態度にさえ出た。》(森島守人『陰謀・暗殺・軍刀-一外交官の回想』52-53頁)
p.205
当時の関東軍を支配していたのは「板垣大佐を筆頭に、石原莞爾中佐、花谷少佐、片倉大尉のコンビ」であったと森島も述べている(森島守人『陰謀・暗殺・軍刀-一外交官の回想』63頁)。片倉は、時には石原を手玉に取るほどの冷徹な人物であり(以下略)
p.207
花谷正は岡山県の出身である。伊藤金次郎『陸海軍人国記』(芙蓉書房 1980年)には次の如く紹介されている。この後、山口氏は『昭和動乱私史』(矢次一夫 83-84頁)を引いて、花谷正と田中隆吉がいかに深い関係にあったかを説明しています。
《この県からは、いろいろな意味で勇猛果敢と歌われる歩兵大佐花谷正が出ている。花谷は、大陸馳駆の荒武者だ。いわば攻城野戦の元亀天正型である。…(中略)妙な男花谷正は、乱世においては結構お役に立つのだ》(193頁)
花谷正がどのように”お役に”立っていたか。どうも花谷の役割は、軍内部に籍を置きながら、民間人として甘粕の行っていた謀略に携わることであったらしい。というのは片倉衷も、溥儀によって貶められ極東裁判の判決で処刑された土肥原賢二に着せられた謀略の張本人が、花谷であったと受け取れるような証言をしているからである。片倉は次のように書いている。
《土肥原は好く謀略をやる奴、との世評があるが、私が接触した限りでは、そのようなことは決してなく、温厚で誠実な人であり、むしろ花谷少佐などの起こした数々の謀略の尻ぬぐいをして、悪評を一身に引き受け刑死したのであった。》(『片倉参謀の証言-叛乱と鎮圧-』65頁)
花谷にとってやや不利なのは、戦中には挑発者として中国で暴れ、戦後GHQ相手に告発者の役割を演じて評判の芳しからぬ田中隆吉との深い関係であろう。
p.207
昭和11年前後、花谷は十月事件以後パッとしないところを片倉が関東軍に送り出した辻政信と組んで、既に軍によって骨抜きにされた協和会の強化を策し、石原の不興を買っている。
(中略)
そして、昭和12年3月、片倉は関東軍参謀に任じられ、花谷と交代することとなる。
p.209-210
しかし、昭和16年12月、元関東軍の暴れ者花谷正(藤原彰によれば唯の「無法者」。「石原莞爾」『日本人物史体系7近代Ⅲ』朝倉書店 1960年 328頁)が参謀長として赴任してから、「すべてがぶちこわしになる。」花谷は武力制圧しか考えていなかった。青江は、この時の花谷を「右翼ヤクザのボスと変わるところがない」と述べている。この花谷が次に現れるのはビルマ戦線で、酷薄非情に部下を自決に追いやる鬼として描かれる(高木俊朗『戦死』朝日新聞社 1967年)。花谷は、陸軍の下品な面を一身に体現していたとも言える。この時花谷が赴任したのが第1軍、「青江」とは前エントリで出て来た青江舜二郎のこと。ちなみに戦後、花谷は実際に単独で右翼団体を運営していたらしい(○。○)
p.303
しかし、この時期今田は第1軍隷下第36師団参謀長だったはず。こんな馬鹿殿の下で…(つд`)
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