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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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前の話はこちら
参考エントリは こちら とか こちら



こちら
問題の「ノイローゼ」発言の、実はこれが初出です。これが、『戦陣随録』(1972年発行)等とは全く真逆の発言なのは拙ブログのこの記事で指摘済みですが、何故1982年になって片倉が突然発言内容を変えたのか?これについての詳細な検討は別のエントリで。
と予告したので、簡単ながらこれに関する今のところの推測を。



拍手[3回]



問題の「ノイローゼ」発言、阪谷芳直が指摘したように、非常に今田を貶める発言であることに間違いはないでしょう。
実際、阪谷が案じていたように片倉のこの発言を真に受けた早稲田大学の先生もいらっしゃるようですし

しかし、この「ノイローゼ」がどうも事実じゃないのは、上掲阪谷芳直論文の検証もありますが、なにより今田の早期帰国の原因についての片倉自身の発言が
 「駒井顧問との対立」(『戦陣随録』など)
 「ノイローゼ」(『片倉衷氏談話速記録』など)
と二転していることから推測できます。

先ず、片倉が何故このように今田を貶める捏造を行ったのか?という点については、拙ブログをお読みの方ならもうおわかりでしょう。
男の嫉妬。これに尽きます。
こちらで、私はこのような片倉の発言をピックアップしました。
今田なんていう人が、平素参謀肩章をつってるんですよ。これは参謀じゃないんですからね、それが参謀肩章をつっているじゃないですか、「なんだ、あなた参謀になったんじゃないか」と、言ったらね、参謀肩章をつって指揮している。「何だ、この野郎って」ね。
たかが肩から提げてる金モールという無かれ。「参謀肩章」(参謀頸飾とも言う)に関する軍内部の羨望というのは、後世の私たちからは想像できないほどすごい物があったようです。例えば、『陸軍大学校』にはこのような記述があります。
飾緒は、綺麗で素人目にはいかにも偉そうに見えたらしい。支那事変の始め、関東軍から東条兵団が張家口に進入した際、先ず新京に対して「飾緒20本を送れ」との要望があったとの噂もあった。
p.400
※「飾緒」=参謀肩章(頸飾)のこと
本来なら参謀肩章を提げられないはずなのに提げている今田、かたや「関東軍参謀部附」つまり参謀見習いで正式に関東軍参謀になっていなかった立場上、参謀肩章提げてもおかしくないのに提げられない片倉。…片倉が今田に対して猛烈に嫉妬、いや怒りすら覚えていたとしてもおかしくはありません。

片倉が今田に対して悪感情を抱いていたのは、これでおわかり下さったかと思いますが、では、何故今田に関する証言を途中から180度変えてしまったのでしょうか。
問題の発言が載った資料を発行年度順に提示してみます。
 1967年(昭和42年)『挫折した理想国』
 1972年(昭和47年)『戦陣随録』
 1978年(昭和53年)『回想の満州国』
------------
 1982~83年(昭和57年~58年)『片倉衷氏談話速記録』
 1986年『将軍の遺書 遠藤三郎日記』
(※「-------」を境に発言内容が変わる)
今田を貶める発言をするのなら、昭和32年の花谷証言(満州事変の実行犯が今田であることを花谷正が証言した)の後なら、今田の名声も地に落ちておりタイミング的にはおかしくないはずです。が、その後の昭和42年、47年,53年もまだ問題の「ノイローゼ」発言を片倉は行っていません。
昭和47年から57年の間に、今田と片倉の関係を変えるような何かがあったのでしょうか?

昭和53年(1983年)、ある一人の元軍人が世を去りました。その名は高嶋辰彦。陸軍士官学校30期生、陸軍大学校37期生、幼年学校から陸軍大学校まですべてを首席で通し、将来は陸軍大臣か参謀総長かとまで言われ、天才の名をほしいままにしていた人物ですが、昭和20年の終戦により運命は一変。戦後は表舞台からは去り、知る人ぞ知ると言う存在だったようです。…どうも、阪本芳直論文などに紹介されたところから推測するに、中央幼年学校、士官学校、大学校と同窓となり、一時期陸軍内でも同じ職場にいた高嶋と今田はかなりの親友だったようで、花谷証言以降地に落ちた今田の擁護を行っていた数少ない人物でもあるようなのです。
-私は、恐らくこのことで片倉が「ノイローゼ」発言をおおっぴらにするようになったのではないかと考えています。
軍マニアの人ならご存じの方が多いでしょうが、先輩後輩の差は絶対の世界です。特に士官学校の卒業年次は絶対でした。今田、高嶋は30期生、片倉は31期で一つ下になります。軍OB社会では片倉が高嶋に頭が上がらなかったことは容易に想像できます。その高嶋の死によって、片倉は自分の発言を自分の都合の良いように変えていったのでしょう。
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『将軍の遺言 遠藤三郎日記』
自己レスです。
気になるので、原資料を入手しました。

問題の記述はp.50に出て来ますが、前のエントリで取り上げたとほぼ同文なので省略。

さて。実はこの話は1985年に宮武剛氏が片倉をインタビューしたときに聞いた物と言うことが分かった。
「皇居の緑を一望する東京・丸の内。国際ビル八階「日本倶楽部」ロビーで、87歳の片倉衷・元陸軍少将は張りのある声で語り始めた。「満州事変の機密を知る人間は、もう俺一人になったよ」。小柄だが眼光鋭く陸軍きっての荒武者ぶりは残る。」
p.48~49

この本には「赤い将軍」と言われた遠藤三郎元中将の写真がわんさか載っているが、能面みたいな顔だった⊂(。Д。⊂⌒`つ かなりおもってたんと違う…
ばんない 2013/10/11(Fri)00:59:57 編集
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