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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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先日実家で『Precious』と言う雑誌を読んできたのだが、そこに小沢征良さんという人がおばあさんの思い出を書いていたのだな。小沢征良さんと言えば俳優・小沢征悦の姉で父はあの小澤征爾
つまり、祖父は満州建国に関わった満州青年同盟の代表の1人だった小沢開作。
超間接的にいまこのブログでやってるネタと関係がある人なのだ(^^;)
さて、小沢征良のおばあさんというのは、つまりは小沢開作夫人と言うことで、一体どんな女性だったのかというと
「孫にはビーフストロガノフとかのロシア料理を作って、ロシアの昔話を語って聞かせ、そして普段着ている服はシャネルのスーツだった」
…そうである。恐れ入りました。



では本題。
「永田鉄山」といういかめしい名前に覚えがある人は、日本近代史にかなり詳しい人だと思う。
実は戦前は陸軍の大物としてかなり有名だった人らしい。
ところが、2.26事件の直前に皇道派と「統制派」の対立の中で「統制派」の大ボスと見られた永田は、何と勤務中に他の陸軍将校に暗殺されてしまうというトンデモナイ最期を迎えてしまう。
戦後は忘れ去られた存在になっていたように感じられる。「統制派」の首領と言われていたことや、あの東条英機が慕っていたことがマイナスイメージになったように思われる。

何でこの人を調べようとしたかというと、
・今田も「統制派」扱いされてたからw
・もしかしたら陸軍大学の教官として今田を教えていたかも?という可能性が出て来たから
です。

ところが、実際調べはじめて見るとたかだか80年前に死んだ人の割にはかなり資料の少ない人なのですな。しかし近年『永田鉄山: 平和維持は軍人の最大責務なり (ミネルヴァ日本評伝選)』(森靖夫著)という超一般向け入手しやすい本としてこの人の伝記が出たことで、情報を簡単に入手できるようになりました。(しかしよくこんなどマイナーな人物をラインアップした物だ>ミネルヴァ) それによると、資料が少ない理由は「戦争による空襲で日記や書簡などの殆どを灰にしてしまった」これらしい。
この本と、後輩・友人達による回想本『秘録永田鉄山 (1972年)』の2冊から永田鉄山と今田の関係を探ってみたいと思います。

先ず、永田鉄山の人となり
・長野県出身。長野県出身の軍人って何か印象が薄い…とおもっていたが、「硫黄島からの手紙 」の栗林中将と今田の同期・今井武夫は長野県出身でした。
・永田家は代々御典医という家柄で、鉄山の父も医者。裕福な家庭に育つ…と言いたいのだが、鉄山が小学生の時父が急死。以後はそれこそ赤貧洗う状況だったようです…
・父の遺言が「軍人になって御国にご恩返ししろ」そのため、異母兄や知り合いを頼って何とか中学に入学し、そこから陸軍幼年学校に入学。血のにじむような努力をしてトップに躍り出る。尚、同期にあの梅津美治郎(最後の参謀総長で石原莞爾の天敵)がおり、どうも梅津が学生時代の永田のライバルだったようです。
・陸軍士官学校の同期は小畑敏四郎、岡村寧次、そしてあの板垣征四郎も(○。○)。後に小畑・岡村とは因縁の友人となります。
・陸軍大学校を優等で卒業し、恩賜の軍刀を貰う。がこのときの首席がまた梅津美治郎。なお、梅津と永田の関係は調べたがよく分からない(森靖夫による)のが現状のようだ。
・その後は教育総監部に所属。石原莞爾本をいろいろ読んでいた限りでは参謀本部、陸軍省、教育総監部の中で教育総監部は一番日陰の部署のように思っていたのだが、永田は逆にここで頭角を現したみたい。
・陸大を優等で卒業した人へのボーナスであるドイツ留学で更に磨きを掛ける永田。ちなみに帰国は武藤章と同じくアメリカをわざわざ経由したらしい。どうもこの辺の感性が石原莞爾とはかなり違うような。
・教育総監部在籍時の功績が認められて、今度はデンマーク駐在武官に派遣!…ところが第一次世界大戦勃発中という微妙な時期だった為、永田は派遣先からシカトされるなど非常に冷遇されたそうです(つд`)このとき運良くスウェーデン担当の畑俊六武官が急に帰国することになり(畑の回想によると、妹が急死した為に兄・英太郎の尽力により帰国できたとのこと。最も畑はこの仕事はそもそも不本意だったらしい)その後釜に納まる。でもスウェーデンでもあまりいい扱いではなかったようだが… 『秘録永田鉄山』p.319~320
・その後今度はスイス駐在武官に転じる。この時、ロシア革命勃発の煽りでドイツに避難していた小畑敏四郎や岡村寧次らの同期と再会、あの「バーデンバーテンの誓い」を結ぶこととなります。
・帰国後は順調に出世、特に陸軍省の役職を歴任する
・満州事変時には陸軍省所属。永田が事前に満州事変を知っていたかどうかについては未だに定説がないようだ(森靖夫氏は知らなかった説)。
・その後、陸軍内で一大異変があり、荒木貞夫・真崎甚三郎に代表される「皇道派」が中心を握ることに。ただ、真崎に仲人をして貰うなど皇道派とも仲は悪くなかった永田は参謀本部第2部長に就任する。…これがこの後の悲劇の発端になるとは誰が予想しただろうか
・この時に親友だった小畑敏四郎(当時参謀本部第3部長)と絶交するまでの対立関係となり、小畑共々参謀本部を追い出されてしまう。周辺の回想では「対ソ連政策を巡っての対立が原因」とする物が大半だが、森靖夫氏は「小畑の永田に対する嫉妬」とする。
・この頃から陸軍内での派閥争いが激しくなり、陸軍の統制を重視する永田は、若手将校を重用する(=軍の上下関係の統制を軽視)皇道派とは対立するようになる、と言うか本人は対立する気がなくてもそういう風に周りから見られてしまったというか
・荒木貞夫が急病の為陸軍大臣を辞職すると、永田は陸軍省軍務局長となり後任の林銑十郎の補佐となる。が、その頃には荒木/真崎の皇道派に嫌気が差した陸軍の他の人々や官僚・政治家などが林・永田を中心として皇道派の追い出しを図ろうとする。これが益々永田を苦境に追い込むことに。
・上記の騒動の結果、皇道派の若手将校は永田を仇として付け狙うことになる
・永田もストレスが見事に胃にあらわれ、晩年は暗殺直前まで医者がよいが欠かせなかった。なお永田の主治医は真鍋嘉一郎(東京帝大教授)(『永田鉄山』p.262)。真鍋は後に石原莞爾の主治医にもなった。
・昭和10年8月12日、勤務中の永田は乱入してきた将校に滅多切りにされるという最期を迎えたのであった…ちなみに暗殺犯・相沢三郎大佐は皇道派には珍しい中堅クラスの人物で、若手将校に感化された人物だったという
・家族構成は妻(先妻と後妻)、男の子3人に女の子2人。先妻は永田が中学入学時に学資など援助した人物の娘だったという。その先妻は病弱でしかも弱視だったらしい。その先妻死後に再婚するが、このときに座り仲人をしたのが先述の通り真崎甚三郎だった。
・先述したように名家の出身であったことからうかがえるが親戚も長野で功績を成した人が多く、信飛新聞社社主、小川鉄道大臣の実家、養命酒本家などそうそうたるメンバー。『秘録永田鉄山』p。394 なお父方の伯父に当たる守屋玄医は本業は医者であったにも拘わらず、明治維新の際には奈良県の十津川までいって勤王志士として大暴れしたという人物だったらしい。『秘録永田鉄山』p.299
・交友関係としては先述の小畑敏四郎、岡村寧次は非常に有名だが、実は岩波書店の創業者・岩波恒雄は尋常小学校以来の親友だったそうだ。これは意外な接点だった。『秘録永田鉄山』p.391他
・家庭観は非常にクラシック。欧米留学から帰ってきた親戚に対して「日本女性に参政権は必要ない、夫婦が相和してたらあんなもんはいらない、ヨーロッパでも最も進歩した国のスイスでも見て見ろ婦人参政権はないだろ、日本が強いのは日本の女性がいいのと家族制度がよいからだ」と延々と講義したそうだ(『秘録永田鉄山』p.387) この辺は石原莞爾とも似ているかも。 
・かたぶつのように思われがちな永田だが、酒と煙草は好物だったらしいw 『秘録永田鉄山』p.393
・趣味は「園芸」。といっても勿論イングリッシュガーデニングではないしヾ(--;)盆栽のようなちんまい物でもない。永田の園芸は大胆に庭の木によじ登り自ら選定をこなすこと。永田はリアル「天才バカボンのパパ」だった。ただ、男の家事によく言われる「やることは芸術的だが片付けが出来ない」典型だったようで、永田が庭仕事をした後、家族は夜まで後片付けに追われて最悪だったとか



では、『秘録・永田鉄山』から。昭和47年初版の本ですが、装丁がかなり凝っています。永田鉄山の郷里が長野県であることから、信州松崎和紙工業の特スキ和紙が使用されており、紅葉がスキ込まれているという。
軍人関係の本でこんな表装凝ってるのあまりないんじゃないんだろうか。

さて、これに思いがけない新資料が載っていました。何と今田の親友であった高嶋辰彦が回想を載せていたのです。
 「高嶋辰彦氏(日本史を動かした永田事件)」(第7章「永田鉄山小伝」(永田鉄山中将胸像復旧期成同盟会編)より)p.422~425
やや長文なので、要点のみ抜粋すると
大正13,4年頃に永田鉄山(軍事課兼陸大教官)の講義を受けたことがある。講義は計10回ほどだったが、最後に永田は高嶋に陸軍省への勤務を強く勧めたらしい。その後、高嶋は陸大卒業後僅か一年にして陸軍省勤務になった。
・高嶋は昭和4~昭和7にドイツに留学、帰国後小畑敏四郎(当時参謀本部第3部長)に挨拶に行ったとき、小畑は高嶋に「ヨーロッパから見た日本の満州対策についての初見」を求めた。高嶋が「ソ満国境付近の軍備充実第一主義より満州国の中央政治の充実確立+民生の安定を第一にした方がよい」というと、たちまちにして小畑の機嫌が悪くなり、話の続きも打ち切られてしまった。怪訝なまま退室した後、今度は永田鉄山(当時参謀本部第2部長)に挨拶に行ってこの話をしたら、何と自分の見解はほぼ永田と一致していた上、この話題が小畑と永田の喧嘩の原因だったことも知った。
・後に「皇道派」とか「統制派」と言われる人が入り乱れる中でお勤めしたけど、そんなに対立の実感はなかったよ!対立と言ってもそれは方法手段の見解の対立であって政党とか学閥の対立というのとは違うよ
・永田暗殺時には軍事課課員(予算主任)で、永田の部屋の二部屋隣にいたが、異変に全く気が付かなかった。その後すぐに駆けつけたが、もう手遅れの状態だった…。
注目はやはり一番上の抜粋。高嶋と陸士・陸大で同級だった今田も永田鉄山の謦咳に接したことがある可能性が出て来ました。…あ、でも陸大って、今のに日本の大学同様単位制だったっけなヾ(--;)『陸軍大学校』『陸軍大学校〈続〉 (1978年)』ではその辺書いてなかったような気が…
あと、皇道派と統制派の対立をそんなに感じなかったと言うが、これは派閥対立が強くなった頃にはまだ留学中だったことや、誰とでも仲良くできる高嶋本人の人徳もあるかも知れないです(何しろあの気の強い今田の親友なのですからな>高嶋)。

後、明記はされてないのだが、これどうみても今田さんの話ですよね(^^;)
目黒茂臣氏の話
(前略)
ある時ある人が私に、ある将校が恩賜のピストルを直接行動準備の為に右翼の誰それに渡したとと教えてくれたことがある(恩賜のピストルとは、戸山学校で優等学生に恩賜品として授けるピストル)
(後略)
『秘録永田鉄山』p.172
目黒茂臣は元陸軍憲兵大佐。後の2.26事件のきっかけとなる陸軍士官学校事件に巻き込まれた人物である。拙ブログではこちらで一度登場。
それにしても、長い間「恩賜のピストルって何よ」というのが疑問だったのだが、そうかあ、陸軍戸山学校で貰う物なのね。

他、今田に関係あるようなこととか無いようなことも気になるところピックアップ
「つづきはこちら」をクリック

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『秘録 永田鉄山』より
・片倉衷(永田暗殺時は陸軍省軍事課満州班長で、永田の部下だった)の回想1:昭和10年7月末頃、片倉は永田を心配して「護衛でも付けたらどうですか」といったが、永田は「片倉、人間は死ぬときには死ぬ。殺されるときはやられる。すべては運命だ。私は運命に従う。君の心配する護衛は必要ない。」とはねつけられてしまった。(p.34)
 こういう話を聞いて私が思い浮かべたのは大久保利通との類似性。にしても、この回想をした片倉自身はこの翌年2.26事件で皇道派将校に頭ぶち抜かれても死なず、大戦を生き延び、最終的には90オーバーまで生きて証言者となり、ステーキ食ってたというのだから…ヾ(^^;)これもまた「運命」かな。
・鈴木貞一(永田暗殺時には内閣調査局調査官)の回想1:永田鉄山は「(満州事変では)満州以外には兵を使わない」と方針を決め、外務省から発表もしていたが、関東軍は北支那にまで進出しようとしていた。永田と鈴木はこれは大問題になると、参謀本部の今村均(当時作戦課長)に行って関東軍を止めさせようとしたが、今村は「引き上げさせるのはいいが、関東軍は命令を聞かないだろう、石原と板垣がやっているのだから言うことは聞かないだろう」といった。鈴木は「そりゃ参謀本部が指導しても聞かないに決まってるから、大命を仰げばいい」と答えた。(p.61~62)
 「石原と板垣がやっているのだから言うことは聞かない」という今村が言ったらしい一言に爆笑。事実この時は結局昭和天皇からの命令で兵を止めたそうです。
・鈴木貞一の回想2:鈴木は「日本の軍事は対ソ作戦に向けて中国は絶対やってはいけない」と考えていた。石原莞爾もその点では同じなのだが北支那の資源(鉄鋼と石炭)は欲しがるという矛盾があった。後に事変(日中戦争)が始まっても石原はそれを止められなかったが、先に言った「関東軍を大命で止めた話」のように作戦部長が本気出せば止められないはずはない。石原は根底薄弱なところはあるが奇道の人なので外から見ると珍しくて面白い人間。永田はそれに比べたら合理主義者で人の幅といい物を考える深さといい問題にならない(p.67~69)
 この鈴木の「石原莞爾が北支那の資源は欲しがっていた」という話については、今並行して読んでいる『秘録板垣征四郎』にそれに関する別の人の回想があるのでまた紹介できるかも。にしても、「最初皇道派のち東条英機の腰巾着」だった鈴木貞一のこの石原評は中々興味深い。
 鈴木貞一と今田の意外に深い関係については拙ブログのこちら参照。
・片倉衷の回想2:昭和8年8月に久留米師団参謀から参謀本部に転勤した後、陸士31期~36期の有志14名(後13名)で非常対策の研究を始め、片倉が座長をしていた。この年の暮れに荒木貞夫陸相が病気で辞めた後、軍務局長には永田鉄山が相応しいとこのグループで活動したが、そのためかどうか翌9年3月に永田は軍務局長になった。次に武藤章を軍事課に異動させるように活動した。また、陸軍省は永田をもって、参謀本部は当時仙台の歩兵第4連隊長に在職していた石原莞爾をもって固めなければならないと構想し、昭和10年8月に参謀本部作戦課長になったが、これには林銑十郎陸相、橋本虎之助次官、永田軍務局長の尽力があった。(p.92~93)
 この「片倉座長の研究グループ」についてはかなり前に紹介している。メンバーに西浦進、服部卓四郎、堀場一雄、そしてあの辻政信がいるのが興味深い。なおここには漏れているが、このグループに今田もいたことも前回紹介済み。
・片倉衷の回想3:永田鉄山にしろ石原莞爾にしろ派閥の思想がなかった。石原が志を得られなかった原因は派閥に乗っていなかったこと、孤高であったこと、そして実践的でなく哲学的だったこと。軍令のひとではあったが軍政の人ではなかった。よって組織を作って事を為すのが苦手であり、その才能を生かすのには肝胆相照らす補佐官が必要であった。(p.98)
・有末精三(永田暗殺時には永田直属の部下)の小畑敏四郎に関する回想:小畑さんは私の陸大時代の教官の一人で、元田肇の婿(船田中の義兄弟)。第一次大戦の時に荒木貞夫と一緒に従軍したことから荒木に重用され、荒木が作戦部長だったときには作戦課長に抜擢された。その時に有末はもう一人の課長(柳川平助演習課長)付の庶務将校だったが、柳川は「小畑作戦課長には何とかして1室与えたいから」と言って有末に無理に部屋割りさせて後輩の小畑の為に課長室をしつらえさせた。その頃(大正末期)は所謂「太平時代」で金を握っている陸軍省が横暴で参謀本部はとにかく押さえつけられており、軍政より統帥を重視していた柳川は不満を有末に漏らしていた。(p.119~120)
 小畑と今田の関係については拙ブログのこの辺とかこの辺でちらり。柳川平助が今田の詩集を持っていたかも知れない可能性についてはこちら
 なお、この後有末は荒木貞夫が陸軍大臣になったときに秘書官に抜擢されるが、それが災いして、その後陸軍大臣が林銑十郎に替わると皇道派側からは「お前は小磯(反皇道派)に抜擢されたんだ」といわれ、林銑十郎からは皇道派と見られて信用されないなど派閥争いに振り回されてしまい、昭和10年4月に「イタリア大使館付き武官が病気で倒れたから後釜にどう?」というお誘いが来たときに渡りに舟と逃げたそうだ(p.125~128)。
・橋本秀信の回想:永田鉄山が生きていたら戦争はなかったといわれているけど、それは小畑敏四郎や鈴木率道でも同じだったろう。陸軍の歴史と国の実力を良く知る信念の人が責任者の地位にいれば大東亜戦争にまでならなかっただろう。荒木貞夫がそうであり、石原莞爾もそうであった。統帥部としてはいろいろの仮想敵国を想定して計画していたが、戦争をやるとは考えていない。東条英機は元々熱情、単純明快な果敢な性格で、若い元気の良いのが中央に来て班長→課長になり、支那事変以来軍事優先になり要求通り予算もドンドン取れるので登場を煽って軍の実力以上のことに発展させてしまったと言える。戦争が進展していた頃、私が荒木大将に会うと「一体良いのか、これで良いのか」ととても心配していた。(p.132)
 橋本秀信は小畑敏四郎が参謀本部第二課長だったときの部下で、予算計画をくんだりなどの重職を任されていたことから見て皇道派の一人と見て間違いないだろう。ただし、永田鉄山については「永田さんは陸軍省=軍政の人だから軍令(参謀本部)の小畑と対立したのではないか、国家総動員時代には統帥権独立というのはもはや時代遅れだった、それを巡るのが軍政=永田、軍令=小畑の対立だったのだ、派閥対立というのは当たらない」(p.129~131)という見方。
 なお、橋本の東条観は、現在一般に感じられている物とはかなり違うので興味深い。
・目黒茂臣の回想:幕僚になる人は陸軍大学を卒業し、頭もいいし常識もある。外国の状況も見分して視野の深い広い見方を持っている。その一方、出世欲もあるから、政治的に合理的に改革しようとする。一方、2.26事件を起こしたような青年将校達と言えば、幼年学校→士官学校で受けた教育を信じており、一方でその肌で兵隊や庶民の貧しさを感じているから、自らの命をかけて元老・重臣の不貞を正す為に直接行動すれが、そのあとは神である天皇が庶民の心をくんでよい国、良い政治になる.自分たちはやることをすればその後は腹を切ると純粋に考えているのである。(p.171)
 同じようなことを、『現代史資料』の附録で作家の加賀乙彦が書いていた。また触れることがあるかな。加賀は名古屋陸軍幼年学校に終戦時在籍し、後に終戦時の状況を『帰らざる夏』という小説に書いたことがある。

次に『永田鉄山』(ミネルヴァ人物評伝選)より
1927年12月20日に大阪中央公会堂(中之島公会堂)において、(永田は ※ばんない補注)「国家総動員」と題する一般向けの講演を行った。全国新聞の最大手の一つである大阪毎日新聞社がスポンサーについた大々的な物で、後に出版もされた(永田鉄山氏講演『国家総動員』)
(中略)
まず、永田は国際連盟が戦争抑止効果を発揮しえないという判断のもとに、国防の準備に万全を期すことが重要であると述べている。永田はカントの『永遠平和のために』を引き合いに出してそれを説明した。カントは「永久平和という物は遂に恐らく来ないであろうが、しかしながら、人類はそれが恰も来る物であるかの如く行動せねばならぬ」と主張していると永田は解釈し、カントの理想を賞賛した。だがその一方で、永遠平和の達成は「長時間的の問題」であり、欧米各国が世界大戦を経験したにも拘わらず国防の充実に今も専念していること枯らしても、以前として戦争への備えが重要であると結論づけるのである。
(後略)
p.117~118
今田がカントを読んでいたのは先述したが、もしかして陸軍軍人の間でカント読んでる人多かったのか?でも石原莞爾がカント読んだという記述は未見(^^;)
永田は郷里の後輩にあたる矢崎勘十に宛てた書簡に、「問題の解決は陸軍としては何としても出来ず、また上意なくして憲法の範疇外に出ることを許さず。陸軍の力のみにて事を決するは、国が真に滅するやいなやの土壇場の最大非常手段なり」と述べている(1931年8月8日、永田鉄山発矢崎勘十宛て書簡 『秘録永田鉄山』所収)。まさに陸軍の力のみにて事を決しようとしていた関東軍に対する戒めと言えた。矢崎は、永田の推挙を受けて張学良の軍事顧問に従事していた。
p.157
矢崎勘十は今田と同時に張学良顧問に出向させられた人物。矢崎の人事が永田の物とする意見は私はこれが初見なのだが、森氏は何を元にこう書かれたのだろうか。
関東軍参謀の花谷正は陸軍中央で無条件に信用できた人物を重藤、根本、橋本の三人とし、次に一応信頼できた人物として永田を挙げ、永田には85%程度計画(前3名には95%)を打ち明けたと述べている(花谷正「満州事変はこうして計画された」『別冊知性12』)
p.158~159
<補足>
・重藤:重藤千秋 この当時参謀本部支那課課長 だから今田の直接上司である。
・根本:根本博 この当時は参謀本部支那班長、そしてあの橋本欣五郎率いる「桜会」の幹部だったらしいコワモテ
・橋本:男一代橋本欣五郎ヾ(^^;) 何度も書いたが趣味は革命らしい
しかし永田は、国民世論とりわけ新聞論評のブレのはげしさから、「国民」の意思をつかみかねていた。事変前までは「軍閥の専横」が叫ばれ、平和支持の下軍縮推進の旗頭となったが、中村大尉事件から一気に対外硬となり、満州事変を支持・賞賛した。リットン報告書が連盟の審議に掛けられた際には、全国132社の新聞社が連名で報告書を批判し、満州国の承認を強く訴える共同宣言を出した(『東京朝日新聞』1932年12月19日)
ところが連名脱退が現実に迫ってくると、今度は一気にトーンダウンする。『時事新報』に至っては連盟脱退反対キャンペーンを行うほどであった(臼井勝美『満州国と国際連盟』)。『東京朝日新聞』も委任統治返還問題を持ち出して連盟脱退は不利と判断していた(社説)。また『東京朝日新聞』は、政府の連盟脱退に反対こそしなかったが、英米、とりわけイギリスの対日経済断交を気にしていた(『東京朝日新聞』1933年2月22日、3月1日社説)。『東京日日新聞』の脱退反対論は連盟の勧告は何の法的権限がないため日本が毅然とした態度を維持すればよいと言う物で、対外硬という点ではある意味一貫していた(2月14日「勧告の効力 不応諾差支え無し」)。最も『東日』は、連盟の勧告に反対することが閣議決定した17日以降脱退論を唱えていく。このころ永田は陸大教官時代の生徒であった高嶋辰彦少佐(徳島第43連隊第3大隊長)に宛てた返書の中で、次のように述べている。
国民、なかんずく言論機関の対連盟認識不足は、正に日本の大国たる権威を落とす物と存じ候。(中略)言論機関も国民各層ももっと落ち着いた態度を持せねば、大国の襟度に宜しからざるのみならず、神経衰弱視せられると存じ候(後略)
(永田鉄山発高嶋辰彦宛書簡、防衛省防衛研究所図書館所蔵)
永田は、日本の国民やメディアが世界から「神経衰弱」視されるとまで言い放ち、元生徒に対していらだちを隠さなかった。正に国家総力戦論で自らが指摘した「熱しやすく冷めやすい」日本の国民性に、永田は頭を悩まされていたのである。
p.205~206
何か、この辺は今でもそうですよね(ため息)
ただ真崎や青年将校らはともに、元老・宮中グループや財界と結託して陸軍を押さえ込もうとしていることが特に許せなかったのである。だが、外部の政治権力を通じて軍を統制する、この仕組みは1920年代後半の政党内閣が陸相を通じて陸軍を統制してきた仕組みそのものなのであった。
p.274
結局は今までもよく言われていたように「統帥権独立」が諸悪の根源なのか。

蛇足ながら、森氏の本の核心は実はp.282の最後にある「国民一人ひとりが国の安全を守る意識を持つと言うことは、民主主義が発達した現代だからと言って、なおざりにして良いことではない」かも知れないとか思った。
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