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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
前回はこちら
今回は『秘録 板垣征四郎』から板垣本人の文章である「巣鴨日記」を紹介します。 ここに全く予測してなかったのですが、今田のことに関する記述が2箇所ありました。 ではまいる。
(昭和21年)6月11日 山田氏来訪、補佐として佐々川知治氏選定決定の件並びに諸情報パンフレット「リットン報告に対する帝国意見書」を受領す。片倉証人承知のこと、寺田ノモンハン事件承知のこと、要すれば証人として立つこと、堀場支那事件纏めたること、満州事変に付き建川の行動、今田の関係なきこと、石原中将その他多数取調を受け居ること、田中隆吉も証人に立つこと(以下略)p.374
<補足>
・山田氏:板垣の主任弁護人
・片倉:ご存じ片倉衷 証人としてばかりではなく実質的に板垣の弁護のために東奔西走したことは本人も『秘録板垣征四郎』などで語っているばかりでなく、「石原莞爾日記」にも登場する。
・寺田:よく分からなかった 誰か御教示お願いします<(_ _)>
・堀場:堀場一雄 陸軍士官学校36期の「三羽烏」(後2人は服部卓四郎と辻政信)、「三羽烏」の中では一番の真人間、たぶん。今田と戦争指導課で同僚だったことがある。
・建川:建川美次 満州事変時には参謀本部第一本部長で「止め男」だった…が、その頃から満州事変に干与していたという噂は絶えなかったようだ 東京裁判時には既に故人。
・石原中将:ご存じ石原莞爾 治療のために山形から東京に転院したら、待ってましたとばかりGHQに絞られたのは本人の日記ばかりでなく知人の回想にも頻出
(昭和22年)9月5日 (前略) 今後の態度決定要素。満大日記(8日すみ)。原田熊雄日記(8日すみ)。今田新太郎の件。花谷正の件(8日すみ)。(後略) p.434
<補足>
・満大日記:関東軍の業務日誌、現在は防衛省防衛研究所所蔵
・原田熊雄日記:現題『西園寺公と政局』 原田熊雄は男爵で、西園寺公望の筆頭秘書
・花谷正:ご存じ満州事変の花谷。ビッグマウス。

上記二点の板垣の記述は箇条書きになっているので流れが捕らえにくい部分があるのですが、推測してみるとだいたい以下のようなことかと考えます
昭和21年6月11日 主任弁護士との打ち合わせで、以下のことを話し合った(1)補佐弁護人の決定(2)リットン報告関係の資料の受領(3)片倉衷が証人を了承してくれたこと(4)寺田という人物がノモンハン事件の件について了解してくれたこと(資料提出?)、場合によっては証人になってくれること(5)堀場一雄が支那事変についてまとめてくれたこと(6)満州事変時の建川美次の行動についての話(7)今田新太郎は(満州事変に)関係がないこと(8)石原莞爾他多数の人間が(満州事変の件で)取り調べを受けていること(9)田中隆吉も証人になること
今田新太郎はこの時まだシンガポールで抑留の身の上でしたが、その時点で既に満州事変に関係がないと言われていたことが分かります。文の流れから見て「今田満州事変無関係説」を言ったのは板垣征四郎本人でしょう。今田をかばったと言うだけではなく、満州事変の実行犯だった今田が招致されようものなら、今田の性格から見て完全に真相を伏せることは恐らく無理でしょうし、その点からも今田無関係説を強く主張した物と思います。 ところが、板垣のこれほどの主張があったにもかかわらず、まだ今田に対する「疑い」は晴れていませんでした。昭和21年6月21日条にも出て来た田中隆吉が満州事変の今田干与説を強硬に主張していたからと思われます(拙ブログこちら参照)。そして1年以上経った翌年の9月5日、再び今田が話題に登場します。
昭和22年9月5日 今後の裁判の態度を決定する情報 (1)満大日記(9/8済)(2)原田日記(9/8済)、今田新太郎の件、花谷正の件(9/8済)
この時には今田は復員し(昭和21年12月)、東京に戻っていました。さてこの時、板垣が今後の裁判戦略対策として、いろんな資料や証言者になりそうな人物とのすりあわせを行っていたことが伺えるのですが、9/5に項目をリストアップし、9/8までにはほとんど確認を終えているのに、今田にだけは確認を終えていなかったようです。そして、板垣の巣鴨日記にはその後二度と今田の名前が出なかったため、この後今田と連絡は取れたのかどうなったのか、全く分からないまま終了しています。

以下、今田に直接関係ないこと 要点を箇条書きでいきます。

・昭和21/5/3 木村兵太郎と共に南方から飛び飛び巣鴨プリズンに到着、懐かしい面々と再会。が、大川周明の狂態には一種の悲哀を感じる…
・昭和21/5/16 一昨日から田中隆吉の『軍閥』を読んでいる。真相かも知れないが、国家に対して何の利益もないだろこれ。しかもその真相たるや自分の自慢か自己弁護ばっかり、しかも復讐の意図すら感じられて断じて許すまじ。こいつは武士の風上にも置けない男である。
・昭和21/7/4 (巣鴨の独房生活は)人生に得難き反省生活にして人間として最後の仕上げの時である。戦争に負けたのは天皇陛下並びに国民に対して責任は万死に値する。が、満州問題を侵略犯罪ではないことを証明するのは個人の問題ではない、今生きているのはそれを明らかにするためである
・昭和21/7/5 木戸幸一が自分の日記を自発的に提供した真意は測りかねる。この日、人面・獣心の田中隆吉が出廷してきた。売国的行動は憎んでもなお余りある。
・昭和21/7/15 所感:(1)だいたい本年末に自分は死ぬだろう(2)この半年の間に自分の人生の総決算が必要である(3)自分の行動はこれを以て手本とせざるべからず(4)子孫の為、国民の為、満州事変の責任を明らかにしておくこと
・昭和21/8/21 溥儀の浅ましい姿には徐口二世の哀れを催した ああ、終戦時の扱いに不満があったのは分かるが
・昭和21/9/18 満州事変15周年を拘置所に向かえ感慨無量、昭和6年が21年になり、私も47歳が62歳になり、心身共に年を取った物だと感じる。この年を顧みると、日常のことを処理するのではなく、別に周章することもなく驚くこともなく、淡々と自然にやむにやまれる道を進んだのだと思う。最初日本側各方面とも諒解無く、四面敵の感もあったが、我々はただもくもくとして為すべき事を成し遂げたのだ。実に喜んで貰った、心から喜んで貰ったのだ
(以下、途中経過を箇条書きに列挙しているが、長文につき省略)
 決死十五年白髪三千丈 意気常衝天拡大天地問 当年意気壮今日猶未衰
おとなりの満州の野に嵐吹き、王道楽土今どこにある
・昭和21/12/18 山口重次の口供書を見たが余りに中央をこき下ろしているのはいかがな物だろうか…でも貴重な資料であることも確か
・昭和21/12/23 石原莞爾の近況を聞いた。加藤一平が吹雪を押して山形に行ってみると県境を越えるやいなや誰も石原の名前を知らない者はいない。山形の農業や電化を推進しているとか、石原は庄内の聖人と言うべきである でもガンで移動もままならんのよね
・昭和22/1/6 田中隆吉に対する反対尋問。田中に対してはアメリカ人弁護士や裁判長たちも反感を持っているようである
・昭和22/5/6 石原莞爾補充質問(酒田法廷)。軍参謀に命令権があるか、作戦計画と陸軍大臣の関係について、不相変意気天をつくものあると正しい理知には敬服のほかない
・昭和22/5/14 河辺虎四郎が昨日に続いて証人として出廷。1/16の問題は政府に見込み無し、多田は不明と判断、但し政府四相一致、多田主張を放棄、14日支那の申し込みに返事せず、断絶することに決定。証人として満点である。
・昭和22/6/4 張鼓峰の軍の集中、田中隆吉の小磯の発令は中央の命令によるものと小磯が言っているが
・昭和22/6/14 辻政信の消息を聞いた
・昭和22/10/30 10/18付のニューヨークタイムスは「昭和天皇は譲位して国の清掃をし新しい天皇のもとで出発すべきだ、日本の戦犯法廷では木戸侯爵が"陛下はけして無能力な皇帝ではなく、むしろ日本の軍事政策に軟弱ではあったかも知れないが干与していたのである」と社説を書いた。UP東洋総支配人のラッセル・ブラインズはこの木戸の発言について「木戸は陛下をして戦争に導いた諸々の出来事の責任、その上実際に開戦せしめた責任に深く深く追い込んだ、更に、木戸は宮中及び政府内での自分の活動を割引して責任回避を試みているのである」
・昭和22/12/29 東条英機の口供書(昨日からの続き) 「スター」誌が東条の写真をでかでかと載せて大きく誌面を取って特集しているが、口供書の内容については理解しようとしてもいない。2年前自殺を図った人物が、すべてを否定し敗戦の罪のみ認めるというような同情無き有様である
・昭和23/1/2 石原が相当重体ということだが元気回復すると確信している
・昭和23/2/1 すべては我全責任を持って解決する外なし。断じて回避せず。
・昭和23/8/19 李承晩韓国大統領が「対馬は俺とこの物だ」と言明しやがった。
・昭和23/9/11 影佐貞昭が10日になくなった…王揖唐(こと伊達順之助)も10日に死刑になった…9日に朝鮮共和国が樹立され金日成が首相になった。特使・趙炳玉は「対馬は歴史的に見て300年間日本に属している」と言った。
・昭和23/9/18 今日は満州事変の記念日。ああ、17年前の今月今日、満州事変は成功した。その後支那に手を出したのが間違いだった。万死に値する。
・昭和23/11/3 急遽東京裁判が翌日から再開されることが発表された。「本裁判の目的、一般的な目標は秩序正しく法の裁きを行うことである、特定の目的は侵略戦争の惨禍を防止する目的に向かって出来得る限り多くを寄与するにある。我々の目的は防止と予防にある。復讐報復の如き心の狭い意図は毛頭ない」
・昭和23/11/4 東京裁判が再開された。定刻より朗読に移ったが、一般に低級にして検事側の論告はそのまま採用しているのに対し、弁護側の証拠は何ら採用しなかった。
・昭和23/11/5 金内氏に面会、石原の病状は4月頃悪化したが、もっか好調に向かいつつある。農工一体政策の実現を計画しているようだ。東京裁判は広田内閣~平沼内閣のころの朗読に入ったが、検事側の証拠ばかり採用して弁護側の証拠を採用しないから、事実と違うところが少なくない。

以降、東京裁判の判決前日(昭和23/11/11)まで日記は続き、判決後は日記は禁止されたそうです(p。476)

一貫して感じられるのは、
・板垣は当初から自分が死刑になることは覚悟(予想)していた
・今回の戦争に対する責任は非常に感じていた
・…が、責任を感じていたのは日本が負けたことに対してであって、満州事変を起こしたことについては責任感じてないような。
・石原莞爾を神の如く尊敬していた
・東京裁判は「報復裁判」だと思っていた(『秘録板垣征四郎』に収録された家族への遺書「我が子のために」にもそれを感じさせる内容が頻出します)
・アメリカに対しては終始警戒感をとかず、連合軍の政策も日本を骨抜きにする物だとしています(p.501 p.506)。
・田中隆吉のことは罵倒一辺倒。自分にとって不利な証言ばかりしたと言うこともあるでしょうが、何よりも前回も書いたように板垣の元でやりたい放題やった張本人が田中隆吉本人なのに、自分は証人として「正義漢」ヅラしているのが許せなかったのではないかと。

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