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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
やっぱり軽薄なタイトルでごめんなさい…
前回のお話はこちら



結局買ってしまいましたf(^_^;)いやamazonでみたら思ったより安かったんで…
『秘録東条英機暗殺計画』※再版された物のようです



一気に読みました。
無茶苦茶面白かった。この時代に興味ある人は一読お奨めします。
とくに今田フェチな私ヾ(--;)にはものすごく興味深かったかな
今田と津野田と並んだ写真(後掲)とか、
今田+津野田+牛島辰熊+浅原健三in上海(p.79)→ という余りにも濃すぎる写真とか(しかしなんで「濃い」かという理由は石原莞爾の伝記を何冊か読まないと分からないかも) ※ちなみに左から今田→牛島→浅原→津野田 一番右端の白いコートの男性は不明)
その他「あ!」という情報が多かったです。
今田さんの写真と言えばこれとかあれしか知らなかった私にとっては、やはり幹部クラス軍人としての今田さんの見せる表情は全然違うなあ、と言うのが感想です。特に鈴江夫妻と撮った写真なんて柔和そのものなのに対し、この本に載ってる写真の今田さんの視線(津野田さんもそうだが)はそれだけで相手を蹴落とせますな。

以下気になる描写

確か、昭和22,3年の5月頃のことであったと思う。(中略)ある日の午後、私が偶々上京して、銀座に出た折のことである。銀座4丁目の服部時計店(現・和光)の前で、ばったり知重と出合った。7年ぶりのことだった。連れが一人いた。眼付きの鋭い、肩幅の張った、堂々とした体躯の男であった。紹介されて知った、これが牛島辰熊である。昭和6,7年の全日本柔道選手権試合で2連勝を果たすなどして、"鬼の牛島"の有名は柔道界のみならず鳴り渡っていた。
p.12
実の兄弟なのに、終戦をはさんでるのに、7年間も音信不通だったんですか(○。○)…少しぐらい心配せーよヾ(^^;)
しかし、この時点で既に牛島とダチだった津野田知重、そのなれそめは後述。
私と4歳違いの弟知重は、父津野田是重、母菊枝の3男として、大正6年2月1日、広島市段原町で生まれた。私と知重との間には、次男の孝重というのがいたが、昭和11年1月18日、21歳で病没している。従って現在は、兄弟2人である。知重が2男と間違われているのは、このためであろう。ちなみに、私たち兄弟の名は、乃木希典大将が父に下さった「忠、孝、知」の書から採ったものである。
p.20
この後、両親についての詳しい説明があるのだが、かいつまんで説明すると
・父・是重:熊本藩士・津野田是吉、母・艶登の一人息子。日露戦争の時に乃木希典中将(当時)の参謀を務める(一番若い参謀だったとか)。水師営の会見の時、銃弾飛び交う中、ロシア軍に軍使として向かったり、当時は捕虜から生還した兵は死刑になるのが普通だったのをかばったり、などなどの武勇伝を残す。傍若無人で奔放覇気の傾向があり、49歳で少将に進級するも、その直後に予備役編入(上原勇作との軋轢が原因らしい)。昭和5年9月2日急死。享年59歳。
・母・菊枝:長野県の小坂家の分家出身。小坂家は和宮降嫁時にその宿所となったなどの名家。甥に小坂善太郎、徳太郎元衆議院議員がいる。かつてあの吉田茂と見合いしたことがある。昭和43年12月21日死去。享年80歳。
…知重はこの母親に似た美貌と、父親のぶっ飛んだ性格を受け継ぐことになる…

さて、父親の急死により、知重は陸軍軍人になることを決意する。末っ子の知重を溺愛していた母・菊枝は猛反対し、知り合いの山下奉文に頼んで止めて貰おうとするが、逆にその心掛けに感心されて、軍人になることを進められる始末。…菊枝も諦めざるを得なかったのであった(p.30)。
陸軍幼年学校を無事終了し、士官学校に進むと、知重は急に頭角を現し、常に成績は3番以内、卒業時は2位。本隊に戻った後、2年後(最短)に連隊長の推薦を受けて陸軍大学校に合格、2年後に卒業(本来は3年だったが、戦時中の為2年に短縮されていた)。卒業時の順位は首席…だったはずなのだが、教師に向かっての傍若無人な態度がマイナス評価となり次席に落とされたらしい(p.31~32)…ってそれどこの石原莞爾ヾ(--;)

なお、知重が中尉時代、あの武藤章と討論の末、大げんかになったのだが、その時に仲裁に入ってくれたのが東条英機であった。それは東条が陸軍大学校の生徒だったときの教師が、知重の父・是重だったから(p.33~35)。…が、この後2人は運命の糸に操られていく…
昭和18年2月。陸大を出て大本営第3部(通信担当)に勤務し、3ヶ月の研修を終えた知重は、華北戦線山西省ロ安地区に駐屯する東北地方健児の集団・第36師団(師団長:井関仭中将)付参謀を命ぜられて赴任していった。
知重は勇躍した。待望の第一線勤務であったからである。
p.38
<少しだけ補足>
・ロ安:「ロ」はさんずいに「路」
・井関仭:1940年8月1日~1943年2月27日 第36師団師団長。終戦時は満州の第134師団という急造部隊の師団長で、予想通りシベリア抑留の悲劇に遭ってしまう。
なお、第36師団はめっさ強いことで知られていたらしい。どうも実験的な部隊だったらしく、編成も装備も最新鋭だった。将来の対英米戦に備えた訓練をかねていたらしい…そのかわり、最新鋭の装備を持った八路軍第129部隊を相手に毎日戦闘していたが(p.38)
しかし、こういうポジションが、知重にとってはとてもおいしかったらしく
この部隊の8月下旬から12月上旬にかけて行われた2次にわたる反攻作戦-「晋中作戦」の第2次作戦で、知重は徹底的に実戦を経験した。参謀でありながら第一線兵の先頭に立って突撃したり、幾度も自ら兵を率いて山岳戦にさえ臨み、ピストルや戦死した兵の銃をつかんで応戦したりしたのである。
知重の軍刀は、父の秘蔵刀中の一振りであった「備前国長船元重」銘入り、2尺4寸の銘刀である。これを知重は、吊さずに腰に差し、突撃の際には竹の枝を指揮棒にして、後に続く兵の「参謀殿を殺すな」の怒号と共に、敵陣へ突入した物だった
p.39
おい待て、何か無茶苦茶なように見えるのだが。何で参謀なのに先頭に立ってるのだ?これって兵にとっては非常に迷惑なのでわヾ(^^;)それに「参謀殿を殺すな」って、どこかで聞いたような…辻ーんだっけヾ(^^;)
ために、称ばれた異名が「乱暴参謀」であったそうだ
p.39
やっぱり_| ̄|○
ところで、こんな無茶苦茶な参謀見習いの飼い主は誰ですか~
知重が後に、この剛胆さへ更に反東条、反政治干与の強い支柱をはめ込んだのは、この時の上司で参謀長の今田新太郎大佐の、思想的な感化影響によってであった。
p.39
おい、今田かよ(○。○)
知重は、陸士30期出で「陸軍の黒豹」の異名を持つこの今田新太郎参謀長の、日本内地では絶対に見られないような強烈な個性に、すっかり魅せられた。知重は、どちらかと言えば傲岸不遜な性格である。故に言語行動は、しばしば傍若無人さを見せ、反感を買うことが多かった。
(中略)
この知重が、魅せられたのである。今田という男の個性は、剛毅不屈、滅多に人を許さず、盤石の信念を持っていた。「類を断ち倫を離る」-仲間より特に優れていたに相違ない。
p.40
この本によると、今田の部下の育成方法は「決断力に富み、その実行力と、部下を信頼し、思うように作戦を立てさせて実行に移らせ、実行後はその作戦を徹底的に講評し、指導する包容力は人をして感服せしむるに充分」(p.40~41)だったそうで…まあ、放任主義?ヾ(--;)
それにしても津野田と今田の関係…個人的には単純に「魅せられた」とだけは言えないような気がする。それについては後述。
今田新太郎は、本籍は東京だが、出身地は奈良県である。父は、今田買剣という郡山藩の剣道指南役であった。それだけに、剣道の腕は抜群で、武道を好んだ。武道試合が開催されることを知ると、軍務を放り出してでも、遠近を問わずに出かけていったそうだった。今田が牛島辰熊と義兄弟の縁を結んだのも、そうした武道大会へ出かけた折のことである。p.40
「軍務を放り出して」趣味の為に出かけるなんて、職場放棄はよくないと思います(棒読み)
ところで、今田は「本籍は奈良県だが、出身地は東京」で、逆じゃないのかな。中江丑吉関連の本を見る限りでは、東京市小石川生まれで確定のようだし>今田
今田新太郎大佐は、知る人ぞ知る満州事変の立役者四人中の一人であった。他の三人は、石原莞爾と板垣征四郎、それに花谷正である。この四人には大きな人口を抱える日本という小さな島国を存立させていくために、政治的、経済的、国防的にも満州を確保しなければならない、と言う、共通したヴィジョンがあった。
p.41
いや!違う!!!ここはつっこみ所だヾ(^^;)
今のところ私が調べた印象では
・石原莞爾:総力戦と日米対立と日蓮の経典に基づく最終戦争で日本が勝ち抜く為
・板垣征四郎:石原の話を聞いてたらこれが正しそうに思えたので(^^;)
・花谷正:お祭りわっしょいヾ(--;)
・今田新太郎:土壇場になって巻き込まれた(涙)
なんだけどな
ところで、この後の記述によると、柳条湖事件に関わったことを今田はあっさり津野田に白状したらしい(p.42)…意外に口軽いですか?今田さんヾ(--;)
今田参謀長は、知重をよほど愛していたらしく、二人で痛飲したときは口癖のように、軍上層部が戦略も無しに、どういう形で戦争を終結せしめるのか、について、慨嘆し、また、軍人がひたすら政治欲、権勢欲にとりつかれている現状を痛憤したそうである。またその痛憤は、決して私憤でなく、陰謀じみたものでもなく、まことに堂々とした物であったという。p.44
…と言う感じで津野田君は今田に洗脳されちゃうわけですが(ヲイ)
更に
昭和18年6月。知重は、今田参謀長の言葉がそのまま現実となっていくのを、遠い北支の山奥から驚嘆の眼で見つめていたこの月、一通の電報命令によって、支那派遣総司令部付参謀として、南京へ赴任することになった。
今田参謀長とは、僅か半年余りのつきあいでしかなかったが、知重にとっては、ただ一人の尊敬すべき先輩であり、師とも思っていただけに断腸の思いがした。
二人だけの別れの宴で痛飲していた時、酔いにまかせて知重が好きな『バイロン詩集』の一篇を口にすれば、今田参謀長は『杜甫』や『蘇軾』の一篇を吟じた。世代こそ異なれ、二人には心の通じ合う物があったのだ。
「お別れですな、参謀長。お元気でいて下さい」
知重が、そう別離の言葉を述べたとき、一瞬、今田新太郎は眼を潤ませたが、ただ一言、この言葉を餞として与えただけだった。
「身体を労えよ」
p.45~46
<ちょっと補足>
・昭和18年6月:昭和16年10月18日より東条英機内閣が成立し、その後太平洋戦争に突入するが、緒戦は勝利する物の、その後は泥沼だったのは周知の通り。
・今田参謀長の言葉:幹部軍人が「天皇機関説」を不埒としている割には、統帥権を楯に取り、まるで「天皇機関説」にのっとったように、政治家も天皇もそっちのけで政治を独占している…ことを非難していたらしい。
-それにしても、このように二人でいちゃいちゃしている様子を他の参謀達は見て変に思わなかったのだろうか?ヾ(--;)まあ、この本にはこういうツーショット→ (p.45所収 ちなみに左が津野田で右が今田)が載っているので、まず誤解することはないと思うんですけどね、思うんです…が、腐った女子なら判らないヾ(--;)
知重がこの牛島辰熊と初めてあったのは、まだ山西省ロ安地区の第36師団参謀部にいた頃、牛島が今田新太郎参謀長をわざわざ日本から陣中慰問に来た折のことである。
p.58
津野田が牛島辰熊と知りあったのは今田の紹介がきっかけのようだ。
なお、この時牛島は三上卓(元海軍中尉、5.15事件の主犯の一人)も連れてきていたとか。三上が石原莞爾率いる東亜連盟の会員になったので顔見せしに来たらしい。最もネットで見る限りでは、この後の三上は東亜連盟とは縁薄くなるようですが。

その後、転勤先で津野田は、あの辻ーんこと辻政信の配下になるが、どうも辻とは相性が悪く、その頃令名高かったにも関わらず-そして、あの数々の悪名がばれる前だったにも関わらず、辻ってたいしたことないのかもと思っていたようだ(p.68~69)
ここで、津野田が苦手な後方補給(軸重も大事でっせ!(^^;))の仕事をしていた昭和18年11月26日、とんでもない情報が入ってくる。-それは、今田のいる第36師団がニューギニアに飛ばされるという話であった。

今田が最前線の、それも激戦地に飛ばされることを知った津野田。さあ、どうする?
 …が、かなり長くなってきたので、ここで続く_(。_゜)/

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