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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
といっても、超有名な京都の三千院とか寂光院とかベニシアさんご在住のヾ(^^;)方ではございません。

実は奈良県の明日香村にも「小原」と言う所がありまして。 ※地図こちら
「それって”おおはら”じゃなくて”こはら”だろ」
…確かにごもっともですが、なぜか昔から「小原」と書いても「おおはら」と呼んでいたという。
ここは『万葉集』にも出てくる藤原氏縁の地として有名でした。
天皇、藤原夫人に賜ふ御歌一首
我が里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまくは後
藤原夫人(ぶにん)の和(こた)へ奉(たてまつ)る歌
我が岡のおかみに言ひて降らしめし雪の砕けしそこに散りけむ
(万2-104)
現在も「藤原鎌足の産湯の井戸」とか、「鎌足の母・大伴夫人の墓」など真偽不明なれどヾ(^^;)いろんな史跡が残っています。

さて、この藤原氏の故地ですが、都が藤原京から遠く離れた奈良の平城京に移った後はどうなってしまったんでしょうか?
-実はこれが全く史料が残ってない_(。_゜)/
しばらくは屋敷などが残っていたのではと推測されますが、藤原氏も不比等の死後は4家に別れてしまったし、維持管理体制はどうなってたんでしょうか…いろいろと謎があります。

ところが、およそ数百年を経た延久2年(1070年)作成の「興福寺大和国雑役免田等坪付帳」に興味深い記述が登場します。“本願施入”なる墾田の一覧が書かれているのです。泉谷康夫氏の考察に依れば「興福寺本願の藤原不比等が在世中に永年私財の墾田はまだ存在しないから、“本願施入田畠”というのは間違っている」(『興福寺』吉川弘文館 P.120)ということですが、かなり古いころに藤原氏の誰かが興福寺に寄付したのは間違いないところでしょう。
この中に「大原」が登場するのです。
・田村庄(山辺郡) 27町8反
・糸井南庄(城下郡) 10町
・十市庄(十市郡) 15町
・菩提庄(添下郡) 3町
・雲飛(うねび)庄(高市郡) 8町1反125歩
大原庄(高市郡) 4町4反180歩
・片岡庄(葛下郡) 17町1反340歩
・長枝庄(葛上郡) 12町1反100歩
『興福寺』吉川弘文館 P.121
なんと、氏寺・興福寺の荘園に化けていたようです。
なお、泉谷氏も指摘していますが、天平宝字元年閏8月に藤原仲麻呂が維摩会の料田として曾祖父鎌足の功田100町を興福寺に寄進しています。上記の荘園を合計すると大体100町(97町5反745歩)になりますが、上記に挙げられた荘園が仲麻呂が寄進した物と同一かどうかは不明。

この大原庄ですが、その後どうなったのでしょうか。泉谷氏の前掲書を元に追跡。
応仁の乱のころの興福寺大乗院門跡・尋尊(一条兼良の息子)による『尋尊御記』には上記の荘園の内「田村庄」しか登場しないそうなのですが、『大乗院寺社雑事記』文明14年(1482年)閏7月23日条には「片岡、長枝、十市、雲飛、大原」が七堂毎日の仏聖米を出す荘園として登場しているので、この頃までは大原はまだ興福寺の荘園として存在していたと考えられます。ただ、泉谷氏によると「田村庄はまとまりを持った一円所領の庄園として発展したが、他の五ヶ庄は一円化が成功せず、負所(おっしょ)の庄園になってしまった」(P.139)としています。

その後の史料には出てこないのか、上掲書には記述がありませんでした。
戦国時代の混乱のなか、この手の弱小荘園は地元の国人に吸収or強奪されて消滅したのではないでしょうか。

なお、江戸時代にはこの地に「東源寺(藤原寺)」という多武峰寺(現在の談山神社)の道場となっていたお寺があったらしいが、明治時代の廃仏毀釈で消滅したそうな。(参考こちらのHP
鎌倉~室町時代には興福寺と多武峰寺は権益争いでしょっちゅう武闘抗争(^^;)していたらしいから、何とも皮肉な結末に。



おまけ
泉谷氏の本にこんな気になる記述が
摂関家領荘園の一部を院主が相伝した物としては、『簡要類聚鈔』に、一乗院領として、大隅・薩摩・日向三国にまたがる嶋津庄、(中略)があげられている。これらは、一乗院門跡実信(じっしん)が近衞家領の一部を相伝したことにより、一乗院領荘園となった物であった。
『興福寺』P.153
えええ、摂関家だけの物じゃなかったの?>島津荘
これは初耳だった。と言うかそういう話を聞かない位、まともに興福寺一乗院に年貢を納めてなかったのかも(ヲイ)どっちにしろ島津氏には「知ったこっちゃ無いわ!」という話だったかも。どうかな。

おまけ2
先に「さて、この藤原氏の故地ですが、都が藤原京から遠く離れた奈良の平城京に移った後はどうなってしまったんでしょうか?-実はこれが全く史料が残ってない_(。_゜)/」と書いては見た物の、あとで「そういえば『続日本紀』で見たような記憶が」と思いだし、必死になって調べた所、確かに1回登場していた。
天平神護元年(764年)10月14日条に「車駕、巡歴大原・長岡。臨明日香川而還。」として登場しています。称徳天皇が紀伊国に行幸した途中で立ち寄ったらしい。
ちなみにこの行幸は、淡路島に配流中の淳仁天皇とそのシンパに圧力を掛ける目的があったという説があります(『孝謙・称徳天皇』(ミネルヴァ書房)他)。そういう旅行の途中で寄ったのか。意味深。

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東野治之氏が『週刊朝日百科 国宝』別冊1のコラムで紹介していた「史料批判が必要だが興味深い史料」として紹介していた「法隆寺東院縁起」。『寺誌叢書』第1(「大日本仏教全書」117巻)に所収されていると言うことで、入手して読んでみた。

…久し振りの漢文で頭が朦朧とヾ(--;)

気を取り直して。
年紀も何も書いてないので、いつ頃書かれた物すら分からないという難儀な史料なのだが、ちょっと気になる記述が
天平十一年夏四月十日即令河内山贈太政大臣藤原朝臣敬造此院。
「天平11年の4月10日(旧暦)に”河内山贈太政大臣藤原朝臣某”によって法隆寺東院(※現在夢殿などが建っている一画のこと)が建てられた」ということなのだが、さて「河内山の贈太政大臣藤原朝臣」…いったい誰?
奈良時代ぐらいから、その居所とか関係地を頭に付けて「○○の大臣」というのが流行りだしたようですが、同時代史料(例えば『続日本紀』など)には出てこないので実際どれくらいの頻度で遣われたのか、本当にその時代にそういう風に呼ばれていたかもはっきりしない。
ただ、『尊卑分脈』『公卿補任』ではよく出てくるので、後世の人が付けた可能性はありそう。
例えば
・橘諸兄:井出左大臣、西院大臣
・藤原豊成:横佩大臣(これは「中将姫伝説」で出てくるのでご存じの方も多いかも)
・藤原永手:長岡左大臣(実は長岡京遷都前にお亡くなりになっているので、何でこんな命名になったか不詳)
などなど

最初の話に戻って。では「河内山贈太政大臣」って誰じゃ?(゜_。)?(。_゜)?
…同じ「法隆寺東院縁起」の記述の中にヒントがありました。後の記述で同年同月同日に法隆寺東院を作った人物として
 正三位藤原朝臣総前
と言う名前が出てくるからです。「総前」は「ふささき」とも読めますし、死去時の官位も一致してますので、藤原房前と断定できるかと。つまり、「河内山贈太政大臣」=藤原房前ということか。
※なお、房前は天平9年に左大臣を追贈、更に天平宝字5年に房前は贈左大臣から贈太政大臣に昇格してますので、この点でも記述は史実と一致してます。「あれ?法隆寺東院を立てたという天平11年には房前死んでるんじゃ?」という正しすぎるつっこみは無しで(^^;)

しかし、房前が「河内山の大臣」と言われているという話は初めて見ました。
『尊卑分脈』にも『公卿補任』にもそんな事書いてないんですけど。
…つまり先述したとおり、「法隆寺東院縁起」を書いたころには房前のことをそういう風に読んでいたと言うことか。考えを変えてみると、「法隆寺東院縁起」が書かれたころまでは、房前の居所or関係地が伝わっていたので、こういう命名をしたと推測されます。
…つまり、「河内山」がどこか分かれば、房前の住所とか領地とか分かるんじゃなかろうか?



…と言う事で、ネットで検索してみたのですが
(1)現在の奈良県に「河内山」は存在するのか
存在しないようです_| ̄|○ と言うか、近鉄沿線に「河内山本駅」というのがあって、そっちの情報が大量にヒットしてはじくのに苦労・゚・(´Д⊂ヽ・゚・
(2)他地域に「河内山」は存在するのか
意外や意外、これも存在しないらしい。というか、時代劇でご存じの方も多い「河内山宗俊」の話が大量にヒットしてはじくのに(以下略)
…うーむ。昔の地図とか当たるしかないのだろうか。

この企画つづく?ヾ(--;)

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以前本屋で立ち読みして気になっていた雑誌のバックナンバーを取り寄せたでござる。
『婦人画報』2018年2月号なのだが(^^;)
…何で私がこんな似合わないおセレブな雑誌を入手したかというと、「西郷どん」関連特集を組んでいたから。もっと細かく言うと「西郷どん関連でなぜか津田梅子の後裔が登場していたから」
「倒幕の士・西郷どんの関係で、何で旧幕臣の後裔・津田梅子が登場???」
と疑問に思われたあなたは私と同志(^^;)
実はこの雑誌を改めて精読して分かったのだが、津田梅子の孫娘(正確に言うと養子の娘なので義理の孫になるわけだが)が結婚した相手が西郷どんの曾孫(西郷隆盛次男・寅太郎の孫の一人である隆晄氏)で、結局この孫娘の産んだ男子の一人が津田家の養子になったという次第らしい。その御養子というのが現在大阪芸大教授で写真家の津田直氏で、確かに公式HPを見ても簡単に経歴が紹介されている。
津田梅子と西郷どんが親戚になっていたとは驚きました。ちなみに西郷寅太郎の妻は競馬で有名な武豊の親族なので、武家とも遠い親戚ということになります>津田直氏

…しかし、今回読んで一番驚いたのは
子供のころに暮らしていた家は、六甲山系の摩耶山(兵庫県神戸市)の麓にあった。
(p.120)
と言う話。ばんないちの無茶苦茶近所なのだが(^^;)



では、ようやく本題の話。
なお、前回のお話はこちらです。

「かまたり神社」でググってみた。
…何と兵庫県にもうひとつ「かまたり神社」があるらしい。
なお、前回は漁師さんたち渾身の?オヤジギャグの化身が神社と化した?代物だったがヾ(--;)今回は祭神は「藤原鎌足」。多可町は海に面していないので、イルカ退治とは関係なさそう。どうも本物の「鎌足神社」のようだ。
…いや前回の神社がにせものだ!というのではありませんので念のため<(_ _)>

ちなみに場所はこちらです。
いやはやお遊びで検索したのだが、こういう結果が待っていたとは。

ところが、更に地図を拡大してみると驚くべき結果が。
※ご興味のある方は「つづきはこちら」をクリック

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今までの話 第1話 第2話 第3話

ご興味のある方は「つづきはこちら」をクリックプリーズ。


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前回までのお話 その1 その2

かなりマニアックな話になってきましたので内容についてこれる人が少なそう(^^;)
ご興味のある方は「続きはこちら」をクリックプリーズ。



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