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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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京都の今熊野観音寺には島津義久の逆修墓と言われる物がある
 拙HP こちら
 桐野作人氏の紹介 こちら

この中心にあるのが島津義久(或いはその娘の亀寿)、向かって左隣にあるのが平田増宗 というのは判明している。
ところが、右側にある物は誰の物か判然としない。というのも「薩摩住」(胴部)「春栄(或いは「春宋」)」(台部)としか掘られておらず、データが圧倒的に少ないのである。

しかし、その少ないデータから無理矢理探そうではないか!「春栄(春宋)」は誰じゃ~ヾ(^^;)

まず、京都で築かれた墓という事から類推して、慶長3年時点で在京の人物という事になる。ちなみに義久、亀寿、増宗は当時在京していました。

次に、義久・亀寿にかなり近い人物であるという事。増宗は弟・宗親が義久専属の家老になるなど義久にかなり近い人物でした。

まずこういう物を探す基本文献といえば
「本藩人物誌」(鹿児島県史料集13)
順番にめくっていきます…

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「義久君上京日記(仮)」は 天正18年3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
関連の和歌は         

前回までで「義久君上京日記」とそれに関連した和歌のUPは終了したのですが、読んでいるといくつか興味深い点が目に付いたので。

(1)「東山公」
おつきあいしている相手ですが、圧倒的に頻出しているのが「東山公」こと近衛前久(当時出家して”龍山”)です。近衛家と島津氏、というより近衛前久と島津義久のつきあいの深さから考えると、まあ当然といえば当然なんですが…

(2)「民部卿法印」
その他に頻出しているのが「民部卿法印」こと前田玄以です。意外に細川幽斎はあまり出てきてない。でも、この後余り前田玄以は島津氏に関わってきてなかったような。
ついでに感じたことですが、島津氏の取次といえば石田三成が超有名ですが、この日記を見る限りでは石田三成が島津氏に関わってくるときは島津義弘が上洛したときに限っているように思います。

(3)豊臣秀長
その他に目立つのが豊臣秀長との交流ですが、(1)(2)ほど頻繁かつ親密さはなく、秀長の本拠地である大和(大和郡山城)へ伺候するという形を取っています。それも連絡の行き違いがあるなど、何かぎくしゃくしているような印象があります。

(4)おつきあいの範囲
(1)(2)(3)の他には連歌師(里村紹巴など)や能役者が多いように思われます。大名クラスでは毛利輝元(3月7月)、秋月氏(種長か?、4月)、松浦久信(4月12月)とつき合ってる程度。もうちょっと交際範囲を広げた方が…。

(5)遊んでばっかり
この日記見てると、義久は前久や里村紹巴らと連歌や和歌の応酬に明け暮れ、たまに伊勢神宮詣でとか鞍馬寺詣でとか…要は遊んでばっかりのように見えるんですな。この頃国元では敗戦と秀吉政権からの要求などでえらい疲弊した状態な訳で…こんな状態でいいの?義久?

(6)<空欄>
この日記、一目瞭然なのですが空白の日付が多いです…。

最後に、この日記の著者について考察もどきをば。
義久の近臣であることは確かでしょうが、大坂に行ったとき置いておかれているなどの様子を見ると重要度はやや低めの人と思われます。日記で名前が明示されている人は当然除かれるし…うーむ追求するとパズルみたいだ やめとくか(^^;)

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前の話はこちら


かなり古いエントリーに、去年の9月突然コメントが付けられた。
気になる点もあり、応答を続けると言うことも出来たのだが、当方の病気や疲労でまともに応答の応酬が出来る状態ではなくなってしまい、お礼を言うという形にして無理矢理切ってしまったのでした。本当に済みません…

ちなみに

・顔:戦国武将はひげを生やすことが通例だったのに、この画像はひげを生やしていない。武士がひげを剃るのが普通になったのは、江戸時代初期以降といわれる。

というのは私独自の解釈ではない。
氏家幹人氏の『武士道とエロス 』か『江戸の少年 』に載っていた話なのである。

なお、その後いくつか「ひげのない戦国武将肖像画」を見付けた。
明智光秀 有名な肖像画だがすっかり忘れていた(^^;)
今川義元 肖像画じゃなくて木像ですが…
それと御教示のあった大内義興、この3人に共通する物は…
都の文化に造詣が深かったこと。
あ、その大内義興の息子で更なる都かぶれの大内義隆さんの肖像画に髭があることにつっこみは無しですよ(^^;)

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前の話はこちら


前の話で、『中山世譜』の奇妙な島津亀寿”死亡”記事を私はこう考えてみた。
(1)前後の記事(島津義弘死亡記事、尚寧王死亡記事)が正しいことから見て、島津亀寿死亡記事は間違って混入された可能性は低い
(2)亀寿と琉球王朝双方に対する島津家久(忠恒)の嫌がらせの一環だったのでは

しかし、何でこの時期に島津家は亀寿を死亡したと琉球側に発表したのか、どうも気になって再度考えてみた。

重大なポイントは、島津義弘が前年に亡くなっていることだろう。
実は私が見る限り、どうも義弘と亀寿の中は割と良好だったようで、亀寿が実質家久(忠恒)と離婚した慶長16年以降も交流している形跡があるのは拙本館HPでも紹介している。
逆に言えば、義弘が生きている限り、家久(忠恒)は亀寿に手を挙げたくてもどうしようもない状態だったと言えよう。
ところが、元和5年(1619年)にその義弘が亡くなってしまう。亀寿にとっては唯一家久(忠恒)を抑えられる人物が亡くなったと言うことで大ピンチ状態に陥ってしまうわけである。家久(忠恒)にとっては亀寿を徹底的に排除できるチャンスが訪れたと言うことになる。

そこで家久(忠恒)が最初に行ったことこそが上記に書いた「琉球など対外的に亀寿を死んだことにする」事ではなかったのではないだろうか。
現在管見では他大名などとの交流を示す1次史料を見いだせないが、亀寿は豊臣政権下で関西に人質になっていたこともあり、また父・義久は五摂家当主の一人である近衛前久とは頻繁に交流しており、亀寿も公家などに知り合いがいた可能性は否定できない。家久(忠恒)にとってはそういうルートを使って亀寿が地位の復権を計ったり、或いは自分の意見を通すために中央と連絡することは恐れていた事態ではないかと考えられる。

よって、亀寿を「死人」にしてしまい、この世からいないことにしてしまう作戦を家久(忠恒)は取ったのではないかと私は考えるのである。

なお、伊集院忠真・平田増宗他、暗殺マニアだった家久(忠恒)が亀寿を暗殺しなかったのは、亀寿が持っていた島津家の家宝に理由があるのではと思われる。おそらく家宝のありかは亀寿しか知らなかったのではなかろうか。あるいは亀寿を殺してしまうと怒った亀寿付き家臣達が歴代家宝を廃棄してしまう可能性もあり得る。そのため、暗殺という手段はとらなかったのだろう。

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まず、このブログでも何回か書いているが、実は安土桃山時代のほぼ同時期に、
島津家には「忠清」という人物が2人いた(ややこしい)
一人は島津義弘の五男・久四郎忠清
もう一人が、今回のネタである薩州家出身/島津義虎の三男である忠清である。
…このブログでは「島津光久の母方の祖父」といった方が通りが良いかも。

この人には謎がある。
このブログでも何回も取り上げてきた。
    

今回取り上げるのは
「忠清の息子は何故忠清の跡を継がなかったのか」
という謎。

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