拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
「義久君上京日記(仮)」は 天正18年3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
関連の和歌は 1 2 3 4 5 6 7 8
前回までで「義久君上京日記」とそれに関連した和歌のUPは終了したのですが、読んでいるといくつか興味深い点が目に付いたので。
(1)「東山公」
おつきあいしている相手ですが、圧倒的に頻出しているのが「東山公」こと近衛前久(当時出家して”龍山”)です。近衛家と島津氏、というより近衛前久と島津義久のつきあいの深さから考えると、まあ当然といえば当然なんですが…
(2)「民部卿法印」
その他に頻出しているのが「民部卿法印」こと前田玄以です。意外に細川幽斎はあまり出てきてない。でも、この後余り前田玄以は島津氏に関わってきてなかったような。
ついでに感じたことですが、島津氏の取次といえば石田三成が超有名ですが、この日記を見る限りでは石田三成が島津氏に関わってくるときは島津義弘が上洛したときに限っているように思います。
(3)豊臣秀長
その他に目立つのが豊臣秀長との交流ですが、(1)(2)ほど頻繁かつ親密さはなく、秀長の本拠地である大和(大和郡山城)へ伺候するという形を取っています。それも連絡の行き違いがあるなど、何かぎくしゃくしているような印象があります。
(4)おつきあいの範囲
(1)(2)(3)の他には連歌師(里村紹巴など)や能役者が多いように思われます。大名クラスでは毛利輝元(3月、7月)、秋月氏(種長か?、4月)、松浦久信(4月、12月)とつき合ってる程度。もうちょっと交際範囲を広げた方が…。
(5)遊んでばっかり
この日記見てると、義久は前久や里村紹巴らと連歌や和歌の応酬に明け暮れ、たまに伊勢神宮詣でとか鞍馬寺詣でとか…要は遊んでばっかりのように見えるんですな。この頃国元では敗戦と秀吉政権からの要求などでえらい疲弊した状態な訳で…こんな状態でいいの?義久?
(6)<空欄>
この日記、一目瞭然なのですが空白の日付が多いです…。
最後に、この日記の著者について考察もどきをば。
義久の近臣であることは確かでしょうが、大坂に行ったとき置いておかれているなどの様子を見ると重要度はやや低めの人と思われます。日記で名前が明示されている人は当然除かれるし…うーむ追求するとパズルみたいだ やめとくか(^^;)
関連の和歌は 1 2 3 4 5 6 7 8
前回までで「義久君上京日記」とそれに関連した和歌のUPは終了したのですが、読んでいるといくつか興味深い点が目に付いたので。
(1)「東山公」
おつきあいしている相手ですが、圧倒的に頻出しているのが「東山公」こと近衛前久(当時出家して”龍山”)です。近衛家と島津氏、というより近衛前久と島津義久のつきあいの深さから考えると、まあ当然といえば当然なんですが…
(2)「民部卿法印」
その他に頻出しているのが「民部卿法印」こと前田玄以です。意外に細川幽斎はあまり出てきてない。でも、この後余り前田玄以は島津氏に関わってきてなかったような。
ついでに感じたことですが、島津氏の取次といえば石田三成が超有名ですが、この日記を見る限りでは石田三成が島津氏に関わってくるときは島津義弘が上洛したときに限っているように思います。
(3)豊臣秀長
その他に目立つのが豊臣秀長との交流ですが、(1)(2)ほど頻繁かつ親密さはなく、秀長の本拠地である大和(大和郡山城)へ伺候するという形を取っています。それも連絡の行き違いがあるなど、何かぎくしゃくしているような印象があります。
(4)おつきあいの範囲
(1)(2)(3)の他には連歌師(里村紹巴など)や能役者が多いように思われます。大名クラスでは毛利輝元(3月、7月)、秋月氏(種長か?、4月)、松浦久信(4月、12月)とつき合ってる程度。もうちょっと交際範囲を広げた方が…。
(5)遊んでばっかり
この日記見てると、義久は前久や里村紹巴らと連歌や和歌の応酬に明け暮れ、たまに伊勢神宮詣でとか鞍馬寺詣でとか…要は遊んでばっかりのように見えるんですな。この頃国元では敗戦と秀吉政権からの要求などでえらい疲弊した状態な訳で…こんな状態でいいの?義久?
(6)<空欄>
この日記、一目瞭然なのですが空白の日付が多いです…。
最後に、この日記の著者について考察もどきをば。
義久の近臣であることは確かでしょうが、大坂に行ったとき置いておかれているなどの様子を見ると重要度はやや低めの人と思われます。日記で名前が明示されている人は当然除かれるし…うーむ追求するとパズルみたいだ やめとくか(^^;)
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無題
>もうちょっと交際範囲を広げた方が…。
,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
すいません・・・つい・・・
でも、一応罪を受けて(関白と戦って)隠居した身だから、交際範囲は憚って・・・・やっぱ性格かな?
隠居だからってヒッキーしてたら、何か企んで・・豊臣に不満?・・って痛くも無い腹を探られるから、なるべく遊び歩いてる・・・・単に趣味かな?^^;
自分の中の黒い近衛は、義久の行動を関白に報告してます,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
秋月・・・自分も種長の方だと思う。
種長の奥方は英彦山座主の娘だから、英彦山からみで種長夫妻と交流あったんじゃないかなぁ~と推測してました。
亀寿が関ヶ原の後に大坂脱出するときに、種長夫人も同行してるし、日頃、島津家と御付き合いしてたんだろうなぁ~と
秋月も記録が少なくて、推測が多くなっちゃう^^;
考察に拍手
,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
すいません・・・つい・・・
でも、一応罪を受けて(関白と戦って)隠居した身だから、交際範囲は憚って・・・・やっぱ性格かな?
隠居だからってヒッキーしてたら、何か企んで・・豊臣に不満?・・って痛くも無い腹を探られるから、なるべく遊び歩いてる・・・・単に趣味かな?^^;
自分の中の黒い近衛は、義久の行動を関白に報告してます,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
秋月・・・自分も種長の方だと思う。
種長の奥方は英彦山座主の娘だから、英彦山からみで種長夫妻と交流あったんじゃないかなぁ~と推測してました。
亀寿が関ヶ原の後に大坂脱出するときに、種長夫人も同行してるし、日頃、島津家と御付き合いしてたんだろうなぁ~と
秋月も記録が少なくて、推測が多くなっちゃう^^;
考察に拍手
やはり
よく言われる、三成ー義弘・忠棟ラインですか。
義久のいろは歌で乱拍子のことが書かれている
歌がありましたが、義久も能を
舞ったのでしょうかね・・。
秋月との仲は、血縁にあたる高橋元種二男を
後に家臣とするのにも関係ありなのでしょうか。
義久のいろは歌で乱拍子のことが書かれている
歌がありましたが、義久も能を
舞ったのでしょうかね・・。
秋月との仲は、血縁にあたる高橋元種二男を
後に家臣とするのにも関係ありなのでしょうか。
隠居
時乃栞様コメントありがとうございます。
>でも、一応罪を受けて(関白と戦って)隠居した身だから、交際範囲は憚って・・・・やっぱ性格かな?
私も最初はそう思っていたのですが、どうもこの時点では隠居はしてないみたいなのです…
>秋月・・・自分も種長の方だと思う。
>種長の奥方は英彦山座主の娘だから、英彦山からみで種長夫妻と交流あったんじゃないかなぁ~と推測してました。
なるほど 御教示ありがとうございます。秋月氏は幕末まで続いているのに、余り史料がないですね。私が知らないだけか?
>でも、一応罪を受けて(関白と戦って)隠居した身だから、交際範囲は憚って・・・・やっぱ性格かな?
私も最初はそう思っていたのですが、どうもこの時点では隠居はしてないみたいなのです…
>秋月・・・自分も種長の方だと思う。
>種長の奥方は英彦山座主の娘だから、英彦山からみで種長夫妻と交流あったんじゃないかなぁ~と推測してました。
なるほど 御教示ありがとうございます。秋月氏は幕末まで続いているのに、余り史料がないですね。私が知らないだけか?
三成、秋月
平八様コメントありがとうございます。
>よく言われる、三成ー義弘・忠棟ラインですか。
改めてこの日記をチェックすると、三成が登場したのは
(義弘上洛9月)
・11月30日
・12月5日
・12月16日
ですね。
それと伊集院忠棟ですが、三成-義弘・忠棟ラインを最初に唱えたのは山本博文氏と記憶しているのですが、個人的には忠棟の立場は非常に微妙だと思っています。
>義久も能を舞ったのでしょうかね
隆達節をぴーひゃら吹いてたぐらい(拙ブログ http://sheemandzu.blog.shinobi.jp/Entry/483/)なので、能もやってたのではないかと(ちなみに拙ブログのこの記事(http://sheemandzu.blog.shinobi.jp/Entry/117/)で取り上げた史料で、義久が謡をやっている話が出てきます)
いろは歌ではここ(拙ブログ http://sheemandzu.blog.shinobi.jp/Entry/290/)で乱舞の話が出てきますね。
>秋月との仲
豊臣秀吉の九州御動座の時に、九州のほとんどの武将が豊臣側についてしまったのですが、秋月と高橋だけが島津に味方しました。そんな御縁で仲良かったみたいです。庄内の乱の際も、徳川家康が斡旋して近隣の九州大名に加勢させようとしますが、秋月と高橋だけにお願いし、後の大名は断りを入れてます。
>よく言われる、三成ー義弘・忠棟ラインですか。
改めてこの日記をチェックすると、三成が登場したのは
(義弘上洛9月)
・11月30日
・12月5日
・12月16日
ですね。
それと伊集院忠棟ですが、三成-義弘・忠棟ラインを最初に唱えたのは山本博文氏と記憶しているのですが、個人的には忠棟の立場は非常に微妙だと思っています。
>義久も能を舞ったのでしょうかね
隆達節をぴーひゃら吹いてたぐらい(拙ブログ http://sheemandzu.blog.shinobi.jp/Entry/483/)なので、能もやってたのではないかと(ちなみに拙ブログのこの記事(http://sheemandzu.blog.shinobi.jp/Entry/117/)で取り上げた史料で、義久が謡をやっている話が出てきます)
いろは歌ではここ(拙ブログ http://sheemandzu.blog.shinobi.jp/Entry/290/)で乱舞の話が出てきますね。
>秋月との仲
豊臣秀吉の九州御動座の時に、九州のほとんどの武将が豊臣側についてしまったのですが、秋月と高橋だけが島津に味方しました。そんな御縁で仲良かったみたいです。庄内の乱の際も、徳川家康が斡旋して近隣の九州大名に加勢させようとしますが、秋月と高橋だけにお願いし、後の大名は断りを入れてます。
ご紹介有難うございます
私も能を少し嗜んでいるので、義久がどういう
演目が好みが知りたかったのですが、
忠恒ぐらいからしか分からないですかね・・。
清正などは勝修羅が好きだったようですが。
そのまんま過ぎですねえ。
演目が好みが知りたかったのですが、
忠恒ぐらいからしか分からないですかね・・。
清正などは勝修羅が好きだったようですが。
そのまんま過ぎですねえ。
能
平八様コメントありがとうございます。
茶道だけではなく能もたしなまれていたとはすごいですね。
義久と能については全くの不勉強で、史料が残っているかどうかすらも皆目見当付かないのですが、拙ブログでこういうネタを一度やってました。
http://sheemandzu.blog.shinobi.jp/Entry/200/
>勝修羅
というより清正が能たしなんでたということ自体に驚き(ヲイ)
秀吉が一時期かなり能にはまったという話を何かの本で読んだことがあります。清正も気に入られるために頑張ったんでしょうね。ただし、自分の好みの範囲で(苦笑)
茶道だけではなく能もたしなまれていたとはすごいですね。
義久と能については全くの不勉強で、史料が残っているかどうかすらも皆目見当付かないのですが、拙ブログでこういうネタを一度やってました。
http://sheemandzu.blog.shinobi.jp/Entry/200/
>勝修羅
というより清正が能たしなんでたということ自体に驚き(ヲイ)
秀吉が一時期かなり能にはまったという話を何かの本で読んだことがあります。清正も気に入られるために頑張ったんでしょうね。ただし、自分の好みの範囲で(苦笑)
秀吉が
能狂いの頃在鮮の将兵は死に物狂い(汗。
秀次の方が能楽は先に目覚めたようです。
秀吉は禁中能、そして名護屋でも
しょちゅう能を催しましたし、
挙句の果ては「豊公能」という自分の事績を
能にしました・・テキストが残っているのは
「吉野詣」「高野参詣」「明智討」「柴田」
「北条」ですね・・。現在では
滅多に観れませんが。
慶長元年に大坂城に勅使が来た際には
家康と秀吉で「静之舞」を舞ったとの事です。
島津家には中西秀長という、金春流の名人
下間少進(本願寺の坊官)の弟子が
指南役だったと記憶しております。
中西家の墓も福昌寺にありますね。
義久と当麻の話、また島津○業さんが
仙巌園で薪能を催す際には演目候補になれば
いいですね・・
ご紹介有難うございました。
秀次の方が能楽は先に目覚めたようです。
秀吉は禁中能、そして名護屋でも
しょちゅう能を催しましたし、
挙句の果ては「豊公能」という自分の事績を
能にしました・・テキストが残っているのは
「吉野詣」「高野参詣」「明智討」「柴田」
「北条」ですね・・。現在では
滅多に観れませんが。
慶長元年に大坂城に勅使が来た際には
家康と秀吉で「静之舞」を舞ったとの事です。
島津家には中西秀長という、金春流の名人
下間少進(本願寺の坊官)の弟子が
指南役だったと記憶しております。
中西家の墓も福昌寺にありますね。
義久と当麻の話、また島津○業さんが
仙巌園で薪能を催す際には演目候補になれば
いいですね・・
ご紹介有難うございました。
無題
コメントありがとうございます。
>挙句の果ては「豊公能」という自分の事績を
>能にしました
うっわ さすがは秀吉らしいあつかま(以下自粛)
>家康と秀吉で「静之舞」を舞った
「二人静」でしょうか。何かイメージ違うが…ま、お面かぶって、だぶっとした装束を着用するから大丈夫か(汗)
>挙句の果ては「豊公能」という自分の事績を
>能にしました
うっわ さすがは秀吉らしいあつかま(以下自粛)
>家康と秀吉で「静之舞」を舞った
「二人静」でしょうか。何かイメージ違うが…ま、お面かぶって、だぶっとした装束を着用するから大丈夫か(汗)