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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
前の話はこちら


前の話で、『中山世譜』の奇妙な島津亀寿”死亡”記事を私はこう考えてみた。
(1)前後の記事(島津義弘死亡記事、尚寧王死亡記事)が正しいことから見て、島津亀寿死亡記事は間違って混入された可能性は低い
(2)亀寿と琉球王朝双方に対する島津家久(忠恒)の嫌がらせの一環だったのでは

しかし、何でこの時期に島津家は亀寿を死亡したと琉球側に発表したのか、どうも気になって再度考えてみた。

重大なポイントは、島津義弘が前年に亡くなっていることだろう。
実は私が見る限り、どうも義弘と亀寿の中は割と良好だったようで、亀寿が実質家久(忠恒)と離婚した慶長16年以降も交流している形跡があるのは拙本館HPでも紹介している。
逆に言えば、義弘が生きている限り、家久(忠恒)は亀寿に手を挙げたくてもどうしようもない状態だったと言えよう。
ところが、元和5年(1619年)にその義弘が亡くなってしまう。亀寿にとっては唯一家久(忠恒)を抑えられる人物が亡くなったと言うことで大ピンチ状態に陥ってしまうわけである。家久(忠恒)にとっては亀寿を徹底的に排除できるチャンスが訪れたと言うことになる。

そこで家久(忠恒)が最初に行ったことこそが上記に書いた「琉球など対外的に亀寿を死んだことにする」事ではなかったのではないだろうか。
現在管見では他大名などとの交流を示す1次史料を見いだせないが、亀寿は豊臣政権下で関西に人質になっていたこともあり、また父・義久は五摂家当主の一人である近衛前久とは頻繁に交流しており、亀寿も公家などに知り合いがいた可能性は否定できない。家久(忠恒)にとってはそういうルートを使って亀寿が地位の復権を計ったり、或いは自分の意見を通すために中央と連絡することは恐れていた事態ではないかと考えられる。

よって、亀寿を「死人」にしてしまい、この世からいないことにしてしまう作戦を家久(忠恒)は取ったのではないかと私は考えるのである。

なお、伊集院忠真・平田増宗他、暗殺マニアだった家久(忠恒)が亀寿を暗殺しなかったのは、亀寿が持っていた島津家の家宝に理由があるのではと思われる。おそらく家宝のありかは亀寿しか知らなかったのではなかろうか。あるいは亀寿を殺してしまうと怒った亀寿付き家臣達が歴代家宝を廃棄してしまう可能性もあり得る。そのため、暗殺という手段はとらなかったのだろう。

こちらの方で『徳川実記』のweb化を行って下さってる(労作大感謝)ので、検索してみたのですが、亀寿の“死亡”記事はなかったです。幕府には連絡しなかったのか?単に記録漏れか?

…この考察もしかしたら続くかも???

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