忍者ブログ
拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

まず、このブログでも何回か書いているが、実は安土桃山時代のほぼ同時期に、
島津家には「忠清」という人物が2人いた(ややこしい)
一人は島津義弘の五男・久四郎忠清
もう一人が、今回のネタである薩州家出身/島津義虎の三男である忠清である。
…このブログでは「島津光久の母方の祖父」といった方が通りが良いかも。

この人には謎がある。
このブログでも何回も取り上げてきた。
    

今回取り上げるのは
「忠清の息子は何故忠清の跡を継がなかったのか」
という謎。

拍手[0回]


系図(「旧記雑録 諸家系図」薩州用久)に寄れば、忠清には2人子供がいた。
一人は女子で島津忠恒(家久)の後室
一人は男子
ところがこの息子は何故か忠清の跡を継がなかった。その当時空席になっていた新納氏本家の跡を継いだのである。ちなみに新納本家の前当主はあの島津久元(島津忠長の次男)だったが、兄・忠倍が早世したために新納家から島津家に戻ったのである。
今まで私は
「島津忠清は島津家では家格が高いとは言えないだろうし、側室の実家の格を上げるためにこういう事を島津家久(忠恒)がしたんだろうな」
とぐらいにしか考えていなかった。
しかし、上記で紹介したように、島津忠清がどうも元々島津家からは復帰を歓迎されてなかったらしい人物であることを知り、上記の私の考えにも疑問が出てきた。島津忠清が島津家からは歓迎されざる人物なら、忠清とその子孫が後の薩摩藩主の外戚として残っていくのも余り島津本家にとってはうれしくない話なのではないだろうか。だから、忠清の息子は忠清の跡を継がなかった…というより継がせてもらえなかったのではないか。

ちなみに「旧記雑録」諸家系図”薩州用久”によれば、その後忠清には養子が入ったのだが、その養子は新納本家に養子に行った息子のひ孫の一人である。つまりかなり年代が立ってからの話になる…。
PR
Comment
name 
title 
color 
mail 
URL
comment 
pass    Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
コメントの修正にはpasswordが必要です。任意の英数字を入力して下さい。
この記事へのトラックバック
この記事にトラックバックする:
カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
最新コメント
[09/22 書き人知らず]
[09/22 大嶋昌治]
[06/28 Albertbaw]
[05/19 春山]
[05/06 桐野作人]
最新トラックバック
ブログ内検索
プロフィール
HN:
ばんない
性別:
非公開
自己紹介:
初めての方はこちらの説明をお読み下さい。リンク・引用の注意もあります。

プロフ詳細はこの辺とかこの辺とか
カウンター
バーコード
アクセス解析
P R
Template by Crow's nest 忍者ブログ [PR]