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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
まず、このブログでも何回か書いているが、実は安土桃山時代のほぼ同時期に、
島津家には「忠清」という人物が2人いた(ややこしい)
一人は島津義弘の五男・久四郎忠清
もう一人が、今回のネタである薩州家出身/島津義虎の三男である忠清である。
…このブログでは「島津光久の母方の祖父」といった方が通りが良いかも。

この人には謎がある。
このブログでも何回も取り上げてきた。
    

今回取り上げるのは
「忠清の息子は何故忠清の跡を継がなかったのか」
という謎。

系図(「旧記雑録 諸家系図」薩州用久)に寄れば、忠清には2人子供がいた。
一人は女子で島津忠恒(家久)の後室
一人は男子
ところがこの息子は何故か忠清の跡を継がなかった。その当時空席になっていた新納氏本家の跡を継いだのである。ちなみに新納本家の前当主はあの島津久元(島津忠長の次男)だったが、兄・忠倍が早世したために新納家から島津家に戻ったのである。
今まで私は
「島津忠清は島津家では家格が高いとは言えないだろうし、側室の実家の格を上げるためにこういう事を島津家久(忠恒)がしたんだろうな」
とぐらいにしか考えていなかった。
しかし、上記で紹介したように、島津忠清がどうも元々島津家からは復帰を歓迎されてなかったらしい人物であることを知り、上記の私の考えにも疑問が出てきた。島津忠清が島津家からは歓迎されざる人物なら、忠清とその子孫が後の薩摩藩主の外戚として残っていくのも余り島津本家にとってはうれしくない話なのではないだろうか。だから、忠清の息子は忠清の跡を継がなかった…というより継がせてもらえなかったのではないか。

ちなみに「旧記雑録」諸家系図”薩州用久”によれば、その後忠清には養子が入ったのだが、その養子は新納本家に養子に行った息子のひ孫の一人である。つまりかなり年代が立ってからの話になる…。

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