拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
今までのお話 1 2 3 4
記事の下調べのために検索したら、こんなマイナー人物がwikipediaに登録されてんのな。こちら
で、この記事を立項した人の編集記事をいろいろ見てたら、こんなのがでてきた
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正室:北郷忠孝の娘
- 娘:お屋地(二郎相久室、島津朝久室)〔母:北郷忠孝の娘〕
- 継室:亀徳(相良晴広の娘)
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継室:実窓夫人(広瀬夫人とも、園田実明の娘)
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長男:鶴寿丸(永禄12年(1569年) - 天正4年11月22日(1576年12月12日))〔母:実窓夫人〕
- 日向国加久藤城にて出生、同城にて早世。墓も加久藤城内に建てられている。
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次男:島津久保(天正元年(1573年) - 文禄2年9月8日(1593年10月2日))〔母:実窓夫人〕
- 幼名:万寿丸。通称:又一郎。 朝鮮国唐島にて病死。
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三男:島津家久(忠恒)(天正4年11月7日(1576年11月27日) - 寛永15年2月23日(1638年4月7日))〔母:実窓夫人〕
- 幼名:米菊丸。 通称:又八郎。島津家当主、初代薩摩藩主。
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四男:万千代丸(天正8年(1580年) - 天正16年2月23日(1588年3月20日))〔母:実窓夫人〕
- 泉州堺にて早世。
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五男:島津忠清(天正10年(1582年) - 文禄4年7月4日(1595年8月9日))〔母:実窓夫人〕
- 幼名:長満丸。通称:久四郎。文禄2年(1593年)6月23日に上洛したとの記録があるが、その2年後に早世している。法名は蘭桂純香大禅定門。栗野(現・鹿児島県姶良郡)の徳光寺に葬られた。松下源四郎なる者が殉死している。
- 娘:御下(伊集院忠真室、島津久元室)〔母:実窓夫人〕
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長男:鶴寿丸(永禄12年(1569年) - 天正4年11月22日(1576年12月12日))〔母:実窓夫人〕
気になるところを再掲
次男:島津久保(天正元年(1573年) - 文禄2年9月8日(1593年10月2日))〔母:実窓夫人〕幼名:万寿丸。通称:又一郎。
ぬおおお だから「久保幼名:万寿丸」は根拠不明の説であって…だがしかし、これが『鹿児島県史料』の島津氏系図にすべからく載っているのだから厄介だ。こうしてアヤシイ説が常識として広まっていくのねシクシク
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タイトルそのまんま(^^;)
武士にとって、長男とは大事な家の跡継ぎ。
なので、長男を養子に取られる=他家に奪われる というのはあってはならない事態
…のはずなのですが、
たまにそういう悲劇?を見たりします。
戦国時代で一般的に有名なのは 伊達晴宗(あの政宗のおじいさんです)の長男・岩城親隆 だろう。
何でそうなってしまったかというと、これも有名だと思うが晴宗は自分の妻(岩城久保)を
他家に婚礼に行く途中で強奪して連れてきた(○。○)
という経緯があり、面目をつぶされた久保の両親に「長男が生まれたら岩城家の養子にすること」という条件で許してもらったのであった。
さて、ここで拙HP/ブログのネタである島津氏+家臣団。
長男を養子に取られたという人が…
武士にとって、長男とは大事な家の跡継ぎ。
なので、長男を養子に取られる=他家に奪われる というのはあってはならない事態
…のはずなのですが、
たまにそういう悲劇?を見たりします。
戦国時代で一般的に有名なのは 伊達晴宗(あの政宗のおじいさんです)の長男・岩城親隆 だろう。
何でそうなってしまったかというと、これも有名だと思うが晴宗は自分の妻(岩城久保)を
他家に婚礼に行く途中で強奪して連れてきた(○。○)
という経緯があり、面目をつぶされた久保の両親に「長男が生まれたら岩城家の養子にすること」という条件で許してもらったのであった。
さて、ここで拙HP/ブログのネタである島津氏+家臣団。
長男を養子に取られたという人が…
島津義久晩年の御家騒動に絡んで、島津忠恒(家久)に殺された平田増宗。
彼の二男が船が難破したときに切腹されられたのが慶長15年らしい(「平田系図」他)
船が難破して事故死ならともかく「切腹」という所、実はどさくさ紛れに島津家久(忠恒)の命令で殺されたのではないかと。
(実は平田増宗も「本藩人物誌」などでは誅殺となってますが、どうも当初は単なる闇討ちと思われていた?思わせていた?ような 詳しくはこちら)
実は肝付本家の当主もこの時に溺死している。肝付本家当主・肝付兼幸は他に兄弟もなく、その後肝付本家は暫く絶家状態となり、暫く後に兼幸の母の功績により何故か母の縁者(新納家)から選ばれた人物が肝付本家を継いでいる。ここからみて、兼幸は実質最後の肝付本家当主だったと考えて良いだろう。
それにしても、これって偶然かなあ。
肝付本家はこの頃はかなり衰退していたので滅亡させる理由はなく、偶然だと思う…思いたい…いやしかし家久(忠恒)のことだからなあ。
彼の二男が船が難破したときに切腹されられたのが慶長15年らしい(「平田系図」他)
船が難破して事故死ならともかく「切腹」という所、実はどさくさ紛れに島津家久(忠恒)の命令で殺されたのではないかと。
(実は平田増宗も「本藩人物誌」などでは誅殺となってますが、どうも当初は単なる闇討ちと思われていた?思わせていた?ような 詳しくはこちら)
実は肝付本家の当主もこの時に溺死している。肝付本家当主・肝付兼幸は他に兄弟もなく、その後肝付本家は暫く絶家状態となり、暫く後に兼幸の母の功績により何故か母の縁者(新納家)から選ばれた人物が肝付本家を継いでいる。ここからみて、兼幸は実質最後の肝付本家当主だったと考えて良いだろう。
それにしても、これって偶然かなあ。
肝付本家はこの頃はかなり衰退していたので滅亡させる理由はなく、偶然だと思う…思いたい…いやしかし家久(忠恒)のことだからなあ。
タイトル見て、一発で分かったあなたはこのブログの中毒患者ヾ(^^;)
拙ブログで何回もネタにした垂水島津家2代当主・島津信久(久信)の息子です。
詳細な経過は書きませんが、本家の島津忠恒(家久)の謀略?により父の後を継げずに分家させられ「新城島津家」初代当主となります。
が、寛永17年、義兄の島津光久の命で東上した際、京都で突如逐電、その後発見されて鹿児島に連れ戻され、長年の幽閉後、非業の死を遂げた人です。
この人の名乗りですが、タイトルの通り 島津大和守久章 となってます。
ちなみに、父の信久(久信)は島津相模守信久(久信)でした。
ついでに祖父の彰久は守右衛門尉、これは字なのか官名なのか判別しがたい。
おまけに曾祖父の以久は右馬頭でした。これは以久のもう一つの子孫・佐土原島津家当主の名乗りとなって残っていきます。
さて、これを見たら分かるように、久章の名乗りはご先祖の誰ともつながっていません。
では、島津家中の他の誰かで、大和守を名乗った人は居ないかと探してみたら…
拙ブログで何回もネタにした垂水島津家2代当主・島津信久(久信)の息子です。
詳細な経過は書きませんが、本家の島津忠恒(家久)の謀略?により父の後を継げずに分家させられ「新城島津家」初代当主となります。
が、寛永17年、義兄の島津光久の命で東上した際、京都で突如逐電、その後発見されて鹿児島に連れ戻され、長年の幽閉後、非業の死を遂げた人です。
この人の名乗りですが、タイトルの通り 島津大和守久章 となってます。
ちなみに、父の信久(久信)は島津相模守信久(久信)でした。
ついでに祖父の彰久は守右衛門尉、これは字なのか官名なのか判別しがたい。
おまけに曾祖父の以久は右馬頭でした。これは以久のもう一つの子孫・佐土原島津家当主の名乗りとなって残っていきます。
さて、これを見たら分かるように、久章の名乗りはご先祖の誰ともつながっていません。
では、島津家中の他の誰かで、大和守を名乗った人は居ないかと探してみたら…
いまさらですが、暑中お見舞い申し上げます。
唐突ながら網走か根室辺りに疎開したいなと思っているのですが、良い物件ご存じでしょうか(ヲイ)
を読んでいたら「貴族の家司には主に秦氏や中原氏と言った下級貴族が任ぜられるのが通例であった」というような文章があったような 気がするのだが(^^;) 今読み返したら見つからん_| ̄|○
ちなみに、島津氏は惟宗氏=秦氏の出身。
さてちょっと話は変わる。
唐突ながら網走か根室辺りに疎開したいなと思っているのですが、良い物件ご存じでしょうか(ヲイ)
を読んでいたら「貴族の家司には主に秦氏や中原氏と言った下級貴族が任ぜられるのが通例であった」というような文章があったような 気がするのだが(^^;) 今読み返したら見つからん_| ̄|○
ちなみに、島津氏は惟宗氏=秦氏の出身。
さてちょっと話は変わる。