…しかし未だしっくりきまへんなーヾ(^^;)
私にとっては「パンチDEデート」「ヤングおーおー」「愛ラブ爆笑クリニック」の桂三枝なのです。
うちの家人などは「文枝という由緒ある名跡を三枝如きが継いでいいのか」とまで言っております…流石にこれはかわいそうすぎると思いますが。
実は
島津家一門にも「桂」と言う名字を名乗った一族がいました。
本宗家9代当主・島津忠国の四男・勝久の末裔です。
この勝久から数えて4代目・忠俊の時、永禄元年12月27日に、島津義久の命で島津姓をやめて桂姓に変えます。
なお、島津家の分家で別名字を名乗ったのはこの桂家でいったん最後となりますが、江戸時代に余りにも増えすぎた分家を処理するため、孫分家などは島津姓をやめさせ別名字を名乗らせるようになります。このブログでも何度も出てきた垂水島津家の”末川”、永吉島津家(島津豊久の系譜上の末裔)の”九良加野”などです。
ちなみに、「桂」の由来は所領の名前から来ているとのこと。日向国志布志月野の”月”が“桂”の縁語による(「月の桂」)ことによるものです(「本藩人物誌」)。
この忠俊さんは耳川の合戦に従軍したりしているようですが、何より活躍したのはこの忠俊さんの息子の忠詮(前名「忠昉」)さんです。豊臣秀吉が九州御動座で攻めてきたときには、平佐城に立てこもり、新納忠元らと共に最後まで抵抗するなど武闘派だったようです。関ヶ原の合戦後、かくまっていた宇喜多秀家を駿府まで護送する役を務めたり、大坂の陣にも出陣してますが、この時に重病にかかり、帰国後58歳で死去しています(「本藩人物誌」)。
この4代後に血筋は絶え、島津家久(忠恒)の12男を養子に迎えさせられています(桂忠隆)。
なお、忠俊さんはあの梅北国兼の一揆に参加したという疑惑があります(○。○)…「本藩人物誌」には書いてありませんけどね。
その後も養子による相続が多いですが、この中で一番有名なのが幕末~明治の当主であった桂久武。実家は日置島津家(島津歳久の系譜上の末裔)、長兄は島津久徴、次兄は西郷隆盛に影響を与えた赤山靭負、揃いもそろって島津斉彬派の重鎮でした。久武もこのため流刑にあったりしますが、流刑先で西郷と知り合い、親友となります。最後は西南戦争に巻き込まれるように参加して戦死、一家は官軍に家を荒らされるなど苦汁をなめることになります。
…で、この桂一族の話を読む度、どうも私の頭の中では桂三枝とシンクロしてしまい、
武闘派のはずの桂忠俊さんも
幕末から明治にかけて活躍した桂久武さんも
顔は何故か桂三枝になってしまうのですヾ(--;)
特に久武さんはこんなイケメン?な写真も残ってますのにね。
あ、そういえば桂一門には桂ざこばとか桂南光とか桂小枝もいるのに…何で三枝になってしまうんだろ。武闘派のざこばには忠俊さんがあってそうな…いややはり無理があるか(^^;)
…が、実はその史料は存在していたらしい。
しかも「陰徳太平記」って…結構メジャー所じゃん
詳しい内容は『大塚薬報637:47-49(2008年8月1日)』「いれずみ物語26」
サブタイトルは「戦国時代のいれずみ : 島津勢500余人,討死前夜その腕にいれずみ」
をお読み下さい。(こちらにpdfファイルへのリンクがあります)
超短めの論文(というよりコラムかな)ですが、それでも「忙しい!読む暇無し!」という方に要約すると
(1)島津家久軍の兵50人を生け捕ってみたら、ちょんまげのもとどりに「我二度と帰還せず」という札付けてたので首はねた 「薩摩兵って勇猛だよな」とみんなで話し合った
(2)島津歳久の長男・忠隣の兵・500名を討ち取ってみたら、みんな二の腕に「○○氏○○ 行年○○歳 ○月○日討死」って入れ墨してた
(3)黒田軍(官兵衛?)と対峙していた薩摩軍、黒田軍も「明日は討ち死にかも」と覚悟していたら、薩摩軍が急に引き上げ始めた。その後に行ってみると、手負いの兵の首を全部討ち取って路傍に埋めてあった
実は(2)の入れ墨の話、奈良時代から江戸時代までの入れ墨空白期に突如登場した唯一の入れ墨史料なのだ。また、この入れ墨習俗には衆道の影響が強く感じられる。二才と稚児のペアで突撃前夜にお互いの腕に“起請受け”として彫りあいっこしたのかも。
うーむ、要約というよりはしょりすぎか(^^;)
しかしこの「陰徳太平記」の話がうそ誇張でなければ、豊臣軍はある意味島津軍にびびったのではないかと思います。
…「何この変人達」という感じで(ヲイ)
拙ブログ関連ネタ
・バラ色な庄内の乱 その1
・バラ色な庄内の乱 その2