拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
いまさらですが、暑中お見舞い申し上げます。
唐突ながら網走か根室辺りに疎開したいなと思っているのですが、良い物件ご存じでしょうか(ヲイ)
を読んでいたら「貴族の家司には主に秦氏や中原氏と言った下級貴族が任ぜられるのが通例であった」というような文章があったような 気がするのだが(^^;) 今読み返したら見つからん_| ̄|○
ちなみに、島津氏は惟宗氏=秦氏の出身。
さてちょっと話は変わる。
唐突ながら網走か根室辺りに疎開したいなと思っているのですが、良い物件ご存じでしょうか(ヲイ)
を読んでいたら「貴族の家司には主に秦氏や中原氏と言った下級貴族が任ぜられるのが通例であった」というような文章があったような 気がするのだが(^^;) 今読み返したら見つからん_| ̄|○
ちなみに、島津氏は惟宗氏=秦氏の出身。
さてちょっと話は変わる。
上記の本には「本来なら”宮仕え”なんかしなくてもいい身分なのに宮仕えせざるを得なかった姫達」の実例がいくつも紹介されていた。藤原伊周の娘・周子がいい例で、父・伊周が早世したため庇護者を失い、本来なら天皇や親王の妃になってもいい人物が、従姉妹の中宮・藤原彰子の元に出仕したのである。
実は、私も戦国時代の島津家の女性を調べていて、幾人かそういう女性に出合っているのである。
一人は伊東家の家臣・山田匡得の妻。
もう一人が禰寝重竜の娘で伊地知重興の妻。後に「犬伊」という候名で島津義久に仕えたという。
先述の本の著者は、周子の候名が父の左遷時の官名であったことから、彼女に恥を掻かせ、同僚(ご存じの人が多いと思うが、中級貴族の娘が多い)のイジメに遭わせることでなぶり者にする目的があったとする。
山田匡徳の妻や犬伊もそうだったのだろうか…『日向纂記』の山田匡徳の妻の扱いから見るとそういうことはなかったと思いたいのだが。
実は、私も戦国時代の島津家の女性を調べていて、幾人かそういう女性に出合っているのである。
一人は伊東家の家臣・山田匡得の妻。
もう一人が禰寝重竜の娘で伊地知重興の妻。後に「犬伊」という候名で島津義久に仕えたという。
先述の本の著者は、周子の候名が父の左遷時の官名であったことから、彼女に恥を掻かせ、同僚(ご存じの人が多いと思うが、中級貴族の娘が多い)のイジメに遭わせることでなぶり者にする目的があったとする。
山田匡徳の妻や犬伊もそうだったのだろうか…『日向纂記』の山田匡徳の妻の扱いから見るとそういうことはなかったと思いたいのだが。
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逆パターンで
菱刈源兵衛が相良に妻子を置いて島津へ行ってるんです。
菱刈降伏後、島津に残った本家筋が心配だったからみたいなんです。
本家の家督相続を確認してから、再び相良へ帰参して没。
携帯なんで細かい経緯が書けないですが、
こんな感じで敵同士だけど、行き来って割とあったんじゃないかと、、、
因みに菱刈の武勇は義弘の折り紙付き。
紳士協定じゃないけど、ひとかどの武士なら妻子も粗略にされないし、過去の功績から帰参可なムードだったのでは〜
まぁ、当事者存命ギリギリ寛永年間くらいまでとは思います(^ ^)
菱刈降伏後、島津に残った本家筋が心配だったからみたいなんです。
本家の家督相続を確認してから、再び相良へ帰参して没。
携帯なんで細かい経緯が書けないですが、
こんな感じで敵同士だけど、行き来って割とあったんじゃないかと、、、
因みに菱刈の武勇は義弘の折り紙付き。
紳士協定じゃないけど、ひとかどの武士なら妻子も粗略にされないし、過去の功績から帰参可なムードだったのでは〜
まぁ、当事者存命ギリギリ寛永年間くらいまでとは思います(^ ^)