感想:なかなか面白かった のですが、先週に比べるとゲストが…ヾ(--;)
個人的に言わせてもらうと童門冬二が座っていたところに美輪明宏を座らせて 美輪明宏が座っていたところに別の研究者を連れてくるとか…
しかし、原城って今も掘ったら人骨わんさか出てくるんだな。おそろしい…
※なお番組公式HPはないみたい_(。_゜)/ この辺参考
さて、この島原の乱。
やはりというかお約束というか、拙HP+拙ブログのネタである島津家。
当然…関わってました!当たり前だな一応九州大名だし。
幕府のご命令により出した兵数は…1000人。
これが少ないのかどうか分からないので、他の藩と比較してみましょ。
福岡藩(黒田家):18000人
柳川藩(立花家):5500人
久留米藩(有馬家):8300人
佐賀藩(鍋島家):35000人
熊本藩(細川家):23500人
小倉藩(小笠原家):6000人
…
をい!公称70万石の大名がこれでいいのか? ヾ(^^;)
実際の所、この前年あたりから島津家久が重病に陥っており、そのため出兵を勘弁してもらったらしい。ただし、”父の看病”の名目で帰国中だった島津光久が、途中で立ち寄ったりしてます。なんという壮絶な道草ヾ(^^;)
しかし、わたしはですな
このときに
とも書いていたのだが、結局どこだか分からずじまい…おまけ2
堤家の菩提寺は松林院
京都には何カ所かありますが、これが伏見の松林院だとすると、薩摩藩御用達・寺田屋の菩提寺であります。ますます腐れ縁?ヾ(^^;)
そして数年の月日が流れ…
検索中に偶然見つけてしまったい_(。_゜)/
松林院を塔頭に持っていた清浄華院が公式HPを作っていた(^^;)
沿革など結構詳しく書いてあるようだ
なるほど、松林院という名前が残ってなかったのはこれが理由のようだ。
- 貴族たちが帰依した阿弥陀堂(旧松林院)
阿弥陀如来を安置するお堂。阿弥陀堂は現在のつきかげ苑の位置に南向きにありましたが、平成になって取り壊したため、塔頭・松林院の本堂を改築して阿弥陀堂としました。
ご本尊の阿弥陀如来坐像は松林院のご本尊だったものがそのままお祀りされています。平安時代風の優美なお像です。松林院は後伏見天皇の皇孫で当院八世となった敬法上人が創建した由緒ある塔頭で、江戸時代は勅願所として別院の扱いを受けていました。皇族やお公家さんの檀家が多く、桃園天皇御母の開明門院の御尊牌や、万里小路家、山科家、姉小路家など諸家のお位牌を現在も安置しています。
幕末には会津藩主で京都守護職を務めた松平容保公が半年ほど逗留しています。文久3年(1863)八月十八日の政変以後、孝明天皇に御所近くにいるように命じられた容保公は、文久3年12月から翌年5月まで松林院に逗留しました。この間に新選組の近藤勇らが容保公に呼び出されたという記録もありますので、新選組の隊士らも清浄華院の門を潜ったことがあったようです。
現在の建物は大正天皇御大典の際に二条城に建てられた饗応所(大廊下)を宮内省より下賜され、その部材を使って建てられています。
http://jozan.jp/index.php?garan
そして本題のお千万の方の墓へ
いきなり『篤姫』便乗ネタで押してきたか_| ̄|○
- 天璋院篤姫の曾祖母の供養塔 智満姫供養塔
智満姫(お千万の方・春光院)は公家の堤公長の娘で、薩摩藩8代藩主・島津重豪の側室となった人物です。
智満姫は重豪との間に9代藩主となる島津斉宣をもうけます。そして斉宣七男の島津忠剛が今泉島津家へ養子入りし、幸と結婚して生まれたのが天璋院篤姫です。
つまり、智満姫は天璋院篤姫の曾祖母に当たります。この宝篋印塔は、智満姫こと春光院の供養塔と伝えられているものです。残念ながら銘文は剥落して残っていませんが、本山の記録や堤家の伝承によると、智満姫の実家・堤家の菩提寺が清浄華院の塔頭・松林院であったことから、島津家より智満姫の供養塔として寄進されたものと伝えられています。
智満姫が嫁いだ島津重豪のもとには、後室として甘露寺矩長の娘・綾姫も嫁いでいます。甘露寺家も松林院の檀家であり、松林院には綾姫(玉貌院)の位牌も大切に祀られています。当時の大名家は朝廷や皇室の権威にあやかるため、公家衆より競って妻を迎えました。公家衆の女性には実家の信仰を嫁ぎ先へ持ち込む習慣がありましたので、そうした関係で清浄華院も大名家と縁を結んでいます。薩摩島津家(薩摩藩)や阿波蜂須賀家(徳島藩)、秋月黒田家(秋月藩)などがその代表です。
http://jozan.jp/index.php?keidai
ていうかそのネタ使うなら、なんでも篤姫に関連づけられるぞ、意外に斉宣子だくさんだし(*´д`)
しかし、最後の節が引っかかるなあ
重豪とお千万の方の関係って言うのは…事故みたいな物じゃないかと(ヲイ)当時の大名家は朝廷や皇室の権威にあやかるため、公家衆より競って妻を迎えました。
鹿児島県知事選 現職の伊藤氏当確
7月8日 20時16分
任期満了に伴う鹿児島県知事選挙は、8日、投票が行われ、無所属で現職の伊藤祐一郎氏の3回目の当選が確実になりました。
伊藤氏は、鹿児島県出水市出身の64歳。
総務省の総括審議官などを経て、前々回、平成16年の県知事選挙で初当選しました。
(後略)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120708/k10013435751000.html
実はこの人のご先祖が、戦国島津で大活躍した人物…って知っている人はかなりの
伊藤氏は元々井尻氏といい、島津忠良に仕えていた武将なんですな。
…しかし恐ろしいのは、その井尻氏の武将・祐元の妻で島津貴久の乳母となった宇多貞次の娘。
リンク先(拙本館)を見てもらえば一目で分かりますが…
・45歳で出産
今でも流石にちょっと高齢かもと言われるお年だが、何しろ戦国時代の45歳である。…恐ろしい ちなみに初産だったかどうかは不明
・47歳の時に島津貴久の乳母に任ぜられる
45歳での出産2年後に任命されてるという事は、実際貴久におっぱいあげてた可能性が高いかと思われます貴久かわいそうヾ(^^;)
・60歳の時、島津実久が貴久を攻撃してくるのを察知、鹿児島からの脱走を主導した模様 今なら別に驚きもしないが、戦国時代の60歳なので…
・結局87歳で死去 今なら驚きもしないが、何しろ戦国(以下略)
何というこのハイパーかーちゃんぶり。猛母というか獰猛乳母というか。
ということで3期目頑張って下さい
わたしは「けんくんじんじゃ」と読んでいた。というか、京都市在住者のほとんどがこう読むと思う(多分)。
だが…
によると、
がーん(○。○)しかし、同書(※角川文庫版『信長公記』)が底本とした陽明文庫本は建勲(たていさお)神社本の写しである上、(p.35)
多分、京都市バスのバス停の名称が「建勲神社前(けんくんじんじゃまえ)」で、それが広く流布したんだろうか。
ちなみにこの神社、織田信長を明治2年に祭ったものです。ご存じの方が多いと思いますが念のため。
※本日は本能寺の変があった日だそうです(wikipediaによる新暦換算)