忍者ブログ
拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

と言う事で前に予告してましたが、やってしまいました(^^;)
しっかし、ネット上では本当に情報少ない人ですな…「満州事変実行犯」こればっかりしかひっかかんない_| ̄|○



・父方は大和郡山藩の藩士の末裔(津野田知重(後述)が「今田新太郎は福島県郡山の出身」と書いているのは完全な誤解、と言うか先輩の出身地ぐらい調べなさいよ…)
母方は医者の家系(ちなみにあの天誅組にちょっと関わりがあるらしい?)、母親自身も津田梅子と懇意にし,梅子の開設した女子英学塾に通っていたという。新太郎の学問の幅の広さはこの母親に起因すること大だろう。
・姉妹6人のうちの男の子一人。たった一人の跡継ぎなんで大事にされたんだろうな…と思いきや、近所に住んでいた中江兆民の息子・丑吉と常に比較されて「丑さんを見習え!」と言われていたらしい…
・その中江家とは家族ぐるみでつきあいがあり、先述の中江丑吉とは兄弟同様の親交が丑吉が死ぬまで続いた
※以上はこちらのHPを参照しました
・丑吉関連ではかなりのエピソードが伝えられている
例えば「今田新太郎は早くから丑吉に私淑していたが、それに関して丑吉は「今田が自分に心服しついてくるのは、自分がすぐれた理論を言うからとか、高い識見をもっているからというのでは決してないのだ。自分の言行一致のところを、自分の行動を見て、それでついてくるのである」と人に言っていたという」
「丑吉が病気になったとき、今田は看護していた人に「そんなマヅイ食物ばかり差し上げないで、鯛のお茶漬けとか鰺の干物とかもっとオツリキなものを工夫すべし」と手紙を送った。すると丑吉は「オツリキで栄養のないものを食ったら死んでしまう。まずいのは病気にとって当然だ。ジンギスカンなら狩りをする気で戦争したろうが、近代戦にシュメルツは必然だ。自分はシュメルツに耐えて戦争するつもり也、と返事に書いてくれ」と答えたそうな」本題とは脱線しますが”オツリキ”って珍しい言葉で、検索すると「一風変わっていてしゃれている・こと(さま)。」と言う意味らしい。今や死語かも知れない…。
※以上はこちらのブログを参照しました
・中国共産党員だった鈴江言一が憲兵に捕縛されたときには助けをさしのべ、結果鈴江は8ヶ月で釈放された。これも上記の丑吉との縁だろう(鈴江は丑吉の弟子的存在だった)
※以上はこちらのHPを参照しました
・なお、新婚の鈴江夫妻(妻は丑吉の姪)と取った記念写真が、上記で参照したこちらのHPに掲載されている。実はこの写真、ネットで見られる唯一の今田新太郎の写真。それにしても中国共産党員と大日本帝国陸軍参謀の並んだ写真って…。同じくこちらのHPによると新太郎は「陸軍の黒豹」とも言われてたらしいですが、ちょっとこの外観からは想像出来ん
『靖獻遺言摘註』を出版
ちなみにこの本の著者が新太郎の父。ちょっと調べたがかなりの稀覯本で、都道府県立図書館でも所蔵はないみたいだ…所蔵者の皆様、地元の図書館に寄贈したら感謝されるかもよ?
・太平洋戦争(大東亜戦争)中に東條英機暗殺(○。○)を計画した津野田知重は新太郎の部下。しかし知重よ、先述の「福島県郡山出身」もあれなんだが、下の記述もどうかと思うぞ↓
恋しい女に会いたいという女々しい心情とは雲泥の差師とも仰いでいた今田新太郎が上海にいるのである。
…お前達は腐女子の餌食になりたいのかヾ(--;)
・石原莞爾の弟子だったのが東條英機に目を付けられ、太平洋戦争(大東亜戦争)末期には激戦地のニューギニアサルミ島に配属の師団("雪"兵団)ごと送られ、しかも補給を止められ見捨てられる(○。○) ちなみにこの"雪"兵団の主な構成員は東北出身者なのだが、特に莞爾の出身だった山形県庄内地方が多いようだ…もしかして…(((((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル なおこの師団長・田上八郎も東條英機と対立してはぶられた人物のようだ…
※"雪"兵団の悲劇についてはこちらのHPがくわしい
・終戦後はシンガポールに戦犯容疑者として収容されたらしい(どこかのHPで見たが、思い出せない…)この頃に日本で東京裁判が始まり、あの田中隆吉が満州事変の真相を検事に追求されて、シンガポール拘留中の今田をかばってこれだけはあいまいに供述したという
 田中が法廷で証言に窮したのは柳条溝事件であった。
 昭和6年9月、柳条溝の満鉄線が爆破されたのを中国側の仕業だとして、関東軍が軍事行動を開始したが、この爆破作業は石原莞爾の命令で、今田新太郎がやったものだ。今田はその時、張学良の軍事顧問だった。田中は直接今田の口から聞いていた。

・・・ウエップ裁判長は、『君が答えなければならぬ』という。
 切羽つまった田中は、『日本は中国側がやったといい、中国は日本側がやったといった』と苦しまぎれの証言をした。
 田中がこの証言を渋ったのは、当時今田がシンガポールで抑留されていたからだった。・・・・・
http://www.tante2.com/tokyo-saiban-tanaka3.htm#eguchi1
…が、後に明らかにされた供述調書見たらしっかり言ってるやん(^^;)
... 日関する調査は、きわめて慎重に行なわなければなりませルネオあたりにいるはずであります。問題の鉄道爆破に答今でも生存していると思います。彼は、どこかボ問現在、その人物は生存していますか。今田新太郎という名前の人物であることが判明していた ...
http://books.google.co.jp/books?id=Z_45AAAAMAAJ&q=%E4%BB%8A%E7%94%B0%E6%96%B0%E5%A4%AA%E9%83%8E&dq=%E4%BB%8A%E7%94%B0%E6%96%B0%E5%A4%AA%E9%83%8E&hl=ja&sa=X&ei=bE58UY3gK4uokgXw8IDoCA&ved=0CDAQ6AEwADgo
ともかくどうなったか分からないのだが、結局今田新太郎は罪に問われず、昭和21年(1946年)に復員した
・その後、莞爾の側近から「莞爾を交えた座談会を行って本にしたい」と言う企画を持ち込まれ、これに参加することに同意する が、肝心の莞爾本人が昭和24年8月15日に死去、企画はお流れに(『石原莞爾 生涯とその時代』)…新太郎もそのわずか2週間後に死去…

また続くかも

拍手[1回]

PR
この人知っている人は重度の軍ヲタである、と思う。
あ、でも満州事変マニアなら名前ぐらいは知っているという人多いかも。

というのも
 満州事変の実行犯の一人がこの今田新太郎なのである。
ちなみに事変時は陸軍から出向中で、満州事変の一方の主・張学良の下で軍事顧問になっていたと言うから…何か妙な立場の人ですな。

先祖代々儒学者であったという学問に精通した両親の元で育った。
あの中江兆民とも近所で、兆民の息子・丑吉とは親友だった。なお後の話になるが、蘆溝橋事件後、対立が深まる中国・日本の仲裁を丑吉は当時陸軍中央で参謀だった新太郎に度々依頼している。しかし一参謀の新太郎にはどだい無理な相談だったと思うんですが。それくらい心配して追いつめられてたんでしょうな丑吉さん。
なお、この時新太郎は石原莞爾と共に「不拡大路線」を主張しています。これは丑吉の思いとも一致していましたが、残念ながら陸軍の中では少数派でした。

家庭はどちらかというとリベラル気風だった様に思われるのだが…軍人になっちゃった。
そして、関東軍での石原莞爾との出会い。…彼は思いっきり莞爾に洗の…いや感化され(^^;)陸軍一といっていい莞爾ファンになってしまったのである。前に話した辻ーんこと辻政信とはレベルが違うと私は思う。辻は確かに石原莞爾の名前をよく挙げており行動を真似ようともしたが、部下に失敗を押しつける(莞爾は絶対にこれはしない)など、真似は皮相的であった。一方、今田はその思考も行動も見習おうとしたのである。

…その末路に待っていたのは「莞爾の失脚と共に没落」という道であった。

昭和20年。新太郎は満州からも日本からも遠く離れたニューギニアの離島で、当時陸軍最強と言われた第36師団こと"雪”兵団の参謀長となっていた。
しかし、補給が全くない状態での戦闘は当たり前だが困難を極め、10000人いた師団は最後に全体では1/3まで減ったという。部隊の中には「玉砕」した物もあった。そして、今田は不幸にも?その生き残りの中にいたのである。
当時今田が残った同胞達に語った「母を語る」メモが今に残っている。   
(新太郎の甥に当たる人のHPより)
それは実は石原莞爾の思想の影響を受けた物であったようだ。

戦後、シンガポールに収容されるも戦犯にはならずに日本に帰国。が、その僅か3年後、昭和24年8月29日死去。奇しくも師匠の莞爾の死の2週間後であった。

戦後、同僚だった片倉衷が「今田新太郎がノイローゼになった」話を同じく同僚の遠藤三郎に語っている。
 石原(莞爾 ※ばんない補記)から「満州の王様」と皮肉交じりに命名された片倉(衷 ※ばんない補記)大尉(当時)は、興味深いエピソードも語っている。

 「今田大尉がノイローゼになったんだ。仕方なく内地に転任させた。あの人は十八日の夜北大営を急襲し(張学良の命令で)ほとんど無抵抗の支那兵を斬った。抵抗しない人間を斬ると印象に残るもんだ。幻想に襲われて夜眠れない~修養が足りないんだ」。
http://blog.goo.ne.jp/oceandou/e/c288c0892d28a5cb960501c246b925a8
-彼は軍人になってはいけなかった人なんだと思った。

おまけ
この人は検索するとどうも追悼録とかつくられてないみたいなのです。一応少将まで進んだ人なのであってもおかしくはないと思うんですが。
やはり軍歴の最後が悲惨すぎたから?謎。

「石原莞爾が気になる。」まさかここまで続くと思ってはなかったこのシリーズですが
莞爾よりもこの今田新太郎の方が気になりつつあります(をい)
…次回から「今田新太郎が気になる。」に改題しようかなヾ(^^;)
(でも莞爾より全然情報少ないけどな!_| ̄|○)

拍手[0回]

さて、前回莞爾を
ある意味運命に翻弄された人物
と評してみたのだが、
どうもほんとにそうとしか言えない事件があったらしい。
さて、今回の手記で注目すべき事実が語られています。それは何と、陸軍大臣官邸を占拠した彼らは、殺人リストNO2の「見当たり次第、殺害すべき者」の軍人筆頭に石原莞爾大佐を挙げ、続いて根本 博中佐、武藤 章中佐、片倉 衷(ただし)少佐、(鉛筆書きで辻 政信大尉)の5名を指名していたことです。まさに、山本 又少尉は、その殺害任務を負っていたわけで、このうち片倉 衷少佐が磯部浅一によって頭をピストルで撃たれて重傷を負ったことは、よく知られています。

事件当日(26日午前)、石原莞爾大佐(参謀本部作戦課長、47歳)がやってきた場面は、こう記されています。

「陸相官邸の表門で、村中、磯部、竹嶌、山本は頑張って特定人物が到着するのを待っていた。
 歩哨線の前に、マントを着て悠々と闊歩してくる一人の将校がいた。私が手を挙げて歩哨線で止めさせた。その将校もまた手を挙げた。私が近づいて誰何(すいか)した。
『どなたでしょうか』
『石原大佐』とマントの将校は答える。
私は思った。うん、これが石原大佐か。見当たり次第、殺害すべき人物だ。石原大佐が言う。
『このままではみっともない。君らの言うことを聞く』
大佐はまだ原隊よりの補給も、陸軍大臣の告示のことも知らないのか。しかも大佐は陸軍部内で第一の知能大戦略家である。法華経の信仰も極めて深い。私は考えた。この人を殺すべきではない。君たちの言うことを聞く、と言う。よし、この人もまた味方としよう。
陸相官邸に大佐を案内した。」

「表門に来る途中、竹嶌中尉が石原大佐を見て、厳粛な敬礼をした。大佐は満洲事変の時、中佐参謀として大いなる活動をされた人であった。竹嶌中尉もまたそこに従軍したので、よく知っていた。二人で邸内に案内した。村中、磯部、香田と会う。石原大佐が言った。『負けた』。大佐もまた国家革新を主張する大重鎮であり、大先覚者である。ただし、我らとその信念で異なるところがある。大佐は玄関の白雪が鮮血に染まっているのに驚いて訊いた。
『誰をやったんだ、誰をやったんだ』
山本が『片倉少佐』と答えると、驚いて黙ってしまった。」

そして、この山本 又少尉が、軍の指揮官・安藤輝三大尉(31歳)に伝達に行った時のことが記されています。「『石原さんが来ましたか』と大尉が言う。
『来ました』と私が答えると、大尉がこう語った。
『石原さんが来たので、陸相官邸には行ってはいけないと言うと、大佐は自分の首をたたいて、“これか?”とうなづき、一笑して立ち去りました』
石原大佐は「見当たり次第、殺害すべき人」だ。自分の首をたたいたというのは、これを察知していたのだ。しかも悠々と単独で陸相官邸に来たのだ。常人ではとてもできまい。大佐は『知』の人であるとともに、『胆』の人でもあるのか。維新の道の上では、敵側の人ではあるが、殺すには忍びなかったと私が言うと、安藤大尉もまた、『それは良かったです』と答えた。」

次第に形勢逆転の様子(2月28日午前)が、憲兵司令部でのやり取りから読み取れます。

「満井中佐と石原大佐に面会を申し込んだ。やがて石原大佐が来た。
『大佐殿は法華経へのご信心がまことに深いと承ります。ありがたいことであります。つきましては、今朝からしきりと大勅渙発と討伐の情報二つが飛んでいます。どっちが本当なのですか。どうか大勅渙発の奏請に努力なさって下さい。大佐殿は、このことについて非常に努力なさっておられると承ります』
と私が言うと、石原大佐は、
『いや微力で、錦旗に手向かえば、討伐する』
と多くは語らず、早々に立ち去ってしまった。形勢は読めた。」

2月28日午後、討伐が明白となった後の警備司令部での様子は、次のように描かれています。

「石原大佐、満井中佐は扉の外にいた。
磯部が言った。
『大勅案はと゜うなりました。討伐するんですか』
満井中佐は泣きながら、こう言った。
『後は良くする、後は良くなる』
石原大佐もまた泣いていた。
磯部は討伐が決定したと判断したものの、態度は揺るがず、平常と変わりなかった。
石原大佐は言った。
『磯部は偉いやつだ』
簡単なやり取りをして辞去した。」

実際の討伐命令は28日の午前5時過ぎに発令されたことが今日知られていますが、山本少尉は他の箇所で、「幕僚の多くが討伐を云々しているのを、石原大佐が大いに鎮撫したと聞いた。本当の討伐ではないのだ」と書いており、事実、29日、「皇軍相撃つことなく解決しましたので、結局、兵を原隊に帰すことに一決し、それから兵を全部外に出して整列叉銃(さじゅう)し、当時、石原莞爾の代理と称する参謀中佐が来ましたので、その方に全部処置を一任することになり、将校も一同屋外に出ました」(供述調書)と、事件の収束まで石原大佐が関わっていたことを明かしています。

この収拾案については、解説を書いた保阪正康氏は、橋本欣五郎大佐が石原大佐に面談を求め、大赦を条件に反乱軍を降伏させる「維新政府詔書案」を提示し、石原大佐も賛同し、行動したものの、結局、首班の首相を誰にするかで折り合いがつかなかったことを紹介しています。

保阪氏の解説で、もう一つ明らかとなったのは、この山本 又少尉は、田中智学の「国柱会」の入信者であったことです。噂では聞いていた石原大佐との初対面が事件当日であったということ、それに安藤輝三大尉も法華信者だったことを考え併せると、「生か死か」の極限状況で目に見えぬ「法護」があったとしか言いようがありません。
http://free2.nazca.co.jp/mk15/taku123/
それにしても軍内での国柱会の浸透ぶりには驚きます。

なお、莞爾はこの前にあった永田鉄山殺害事件で、犯人の相沢三郎に指名されて何度も拘束中の相沢に会いにいっています。どこに書いてあったか忘れましたが、相沢の弁護をする気にまでなっていたらしいとか。
ところが、その当の相沢の莞爾評は
石原大佐も単なる幕僚ではなかった。 いや典型的な立派な幕僚でしたが、彼は戦勝のための作戦行動には、まず幕僚の心を掴むことが先決であることを意識しなかった。 この点永田が新軍閥を作った才智には及ばなかった。 一人よがりの英雄気取りではだめです。
http://www.c20.jp/p/ikanji.html
うーーーむ、結構手厳しい。
たしかに梁山泊体質の莞爾が結局軍閥を作れなかったというのは謎の一つです。莞爾は目上の者に対して厳しく、時に罵倒する悪癖があって、それが原因の一つであることは間違いないでしょうが。

さて、上記の文章が出てくる本とは
書名は山本又著 『二・二六事件 蹶起将校 最後の手記』(文藝春秋社、定価1500円+税)です。

山本 又(また)とは、昭和11年(1936年)の2・26事件で決起した青年将校(少尉)の一人で、20代~30代が多かった中、彼は最年長の42歳。実際には東京・府中の中学体育教師だったので民間人でしたが、「首謀者」の磯部浅一(あさいち、31歳)・元陸軍主計官と同志的関係を結び、当日に決起したわけです。

事件収束(逮捕)直前の2月29日、彼は一人山王ホテルを抜け出し、暗殺した重臣らを供養するため日蓮宗の総本山・身延山に逃避し、3月4日に自首して裁判を受けるわけですが、その途次、安藤輝三・大尉から「2・26日本革命史を書き残してくれ」と頼まれ、獄中で手記を綴るのでした。手記は収監直後の3月から、昭和15年(1940年)の「紀元2600年」の特赦によって禁固10年から5年で釈放されるまで約5年ほど続きました。

それが5年ほど前に遺族の物置から発見され、今年、原文と共に現代語訳された形で77年ぶりに日の目を見たというわけです。2・26事件の関係記録はほとんど出し尽くしているので、これが新資料発掘の「最後」と言うわけです。

しかし上記のエピソードを見ると、莞爾が真崎甚三郎と非常に仲が悪かった(と言うより小馬鹿にしていた(?)のは非常に納得がいきます。結果的に保身に走って子分を見捨てたのが許せなかったんでしょうな。

おまけ

拍手[1回]

私が前回参照にしたyahoo!掲示板はどちらかというと石原莞爾に対して否定的スタンスだし、物のついでに見た2chのいろんな掲示板などでも否定的評価ですな。まあ満州事変が後々まで残した悪い影響から見るとこれらの評価も仕方ないところ。

で、当の莞爾はどう思っていたか。
なんと事変の後に辞職願を出していたようだ。
事変解決後、莞爾は事変を引き起こした責任や数々の越権、下克上など軍律的な問題について深く反省して、辞職願を出したが認められず、翌七年初月の異動で大佐となり、内地に帰還することとなった
「参考書誌研究」19号 http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_3051084_po_19-13.pdf?contentNo=1
元になった史料が明示されてないのが非常に残念。
考えように寄れば、辞職が認められなかったのは陸軍が莞爾を必要としていたということで、一般的に言われる「満州事変を起こしたのは莞爾一人の暴走」じゃなくて、実は陸軍の本体も望んでいたことの裏返しなのかも知れませんな。

おまけ
上記の引用文献に寄れば、立命館大学を辞職し、郷里の山形県鶴岡市に帰った莞爾は,一時期高山樗牛の生家を借りて住んでいたとのことですが、この高山樗牛なんと莞爾と同じ国柱会信者だったという(○。○)但し入会時期が違うようなので、面識はなかったと思われます。

石原莞爾を調べてみると、こういう偶然の出会いとか縁というのが多いんですな。満州事変の豪腕ばかりがクローズアップされますが、ある意味運命に翻弄された人物かも知れません。

拍手[0回]

石原莞爾は昭和16年(1941年)、予備役編入(彼の場合は事実上のクビ)にされて、その後、当時の立命館総長だった中川小十郎の要請により、表題の立命館大学国防学研究所の所長となります。
…が、憲兵のいろいろな妨害がすごくて、1年ほどで退職に追い込まれたのも有名な話。そこまでの嫌がらせって東条英機って…

さて本題。
周りにいろんな人が寄ってきた梁山泊体質の莞爾でしたが、流石に中川小十郎は超大物です。何しろ最後の元老・西園寺公望の側近だったのですから。どんな御縁があったのでしょ。
これに触れているサイトはなかったのですが、もう消えてしまったyahooの掲示板にこう言うのがありました。コピペしといてよかったー
立命館大学との関係 2009/ 9/ 1 11:06 [ No.95 / 484 ]
予備役編入後の石原は、ごく短期間ながら、立命館大学にて国防学研究所の所長をつとめることになります。
立命館大学との結び付きは、舞鶴要塞司令官であった時期、日満高等工科学校設立の協力要請を受けたことに始まり、昭和15年(1940)には『世界最終戦争論』を立命館出版部から刊行しています。
あるいは、第16師団長という寄り道(?)が無ければ、もっと早い段階で立命館大学の講師に転身していたのではないか、とも考えられます。

おまけに、ここの教授に迎えられたもう一人の予備役組に「酒井鎬次」と言う人がいます。この人もネットで検索するとさっぱり情報がなかったのですが、やはりyahoo掲示板にありました。
酒井鎬次とチャハル作戦 2009/ 8/25 0:22 [ No.94 / 484 ]
東条英機の軍歴において、チャハル作戦は重要な意味を持ったと思われますが、東条とはまた別の意味でチャハル作戦が転機となった人物もいます。
日本初の機械化部隊とされる独立混成第一旅団を指揮した酒井鎬次です。

チャハル作戦において、酒井の部隊は東条兵団に編入されていたのですが、東条・酒井の意見対立などから、十分な戦果を挙げられず、これがシコリとなったのか、東条の陸相時代に予備役編入と相成りました。

なお、酒井鎬次は戦史研究にも造詣が深く、失脚後は立命館大学にて、石原莞爾とともに国防学講座の講師をつとめたこともありました。
うーむ、東条嫌い仲間だったのか…

おまけ
立命館にとって、やはりこの国防学研究所って黒歴史なんだろうか(^^;)
だって公式HP検索してもほとんど情報ないし…

拍手[1回]

カレンダー
09 2025/10 11
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
最新記事
(02/24)
(02/02)
(01/27)
(01/26)
(01/25)
最新コメント
[08/22 พวงหรีด]
[08/20 wine]
[08/19 ขาย ไวน์]
[08/15 The flag shop uae]
[08/11 uniform store]
最新トラックバック
ブログ内検索
プロフィール
HN:
ばんない
性別:
非公開
自己紹介:
初めての方はこちらの説明をお読み下さい。リンク・引用の注意もあります。

プロフ詳細はこの辺とかこの辺とか
カウンター
バーコード
アクセス解析
P R
Template by Crow's nest 忍者ブログ [PR]