拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
私が前回参照にしたyahoo!掲示板はどちらかというと石原莞爾に対して否定的スタンスだし、物のついでに見た2chのいろんな掲示板などでも否定的評価ですな。まあ満州事変が後々まで残した悪い影響から見るとこれらの評価も仕方ないところ。
で、当の莞爾はどう思っていたか。
なんと事変の後に辞職願を出していたようだ。
元になった史料が明示されてないのが非常に残念。
考えように寄れば、辞職が認められなかったのは陸軍が莞爾を必要としていたということで、一般的に言われる「満州事変を起こしたのは莞爾一人の暴走」じゃなくて、実は陸軍の本体も望んでいたことの裏返しなのかも知れませんな。
おまけ
上記の引用文献に寄れば、立命館大学を辞職し、郷里の山形県鶴岡市に帰った莞爾は,一時期高山樗牛の生家を借りて住んでいたとのことですが、この高山樗牛なんと莞爾と同じ国柱会信者だったという(○。○)但し入会時期が違うようなので、面識はなかったと思われます。
石原莞爾を調べてみると、こういう偶然の出会いとか縁というのが多いんですな。満州事変の豪腕ばかりがクローズアップされますが、ある意味運命に翻弄された人物かも知れません。
で、当の莞爾はどう思っていたか。
なんと事変の後に辞職願を出していたようだ。
事変解決後、莞爾は事変を引き起こした責任や数々の越権、下克上など軍律的な問題について深く反省して、辞職願を出したが認められず、翌七年初月の異動で大佐となり、内地に帰還することとなった「参考書誌研究」19号 http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_3051084_po_19-13.pdf?contentNo=1
元になった史料が明示されてないのが非常に残念。
考えように寄れば、辞職が認められなかったのは陸軍が莞爾を必要としていたということで、一般的に言われる「満州事変を起こしたのは莞爾一人の暴走」じゃなくて、実は陸軍の本体も望んでいたことの裏返しなのかも知れませんな。
おまけ
上記の引用文献に寄れば、立命館大学を辞職し、郷里の山形県鶴岡市に帰った莞爾は,一時期高山樗牛の生家を借りて住んでいたとのことですが、この高山樗牛なんと莞爾と同じ国柱会信者だったという(○。○)但し入会時期が違うようなので、面識はなかったと思われます。
石原莞爾を調べてみると、こういう偶然の出会いとか縁というのが多いんですな。満州事変の豪腕ばかりがクローズアップされますが、ある意味運命に翻弄された人物かも知れません。
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