拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
と言う事で前に予告してましたが、やってしまいました(^^;)
しっかし、ネット上では本当に情報少ない人ですな…「満州事変実行犯」こればっかりしかひっかかんない_| ̄|○
・父方は大和郡山藩の藩士の末裔(津野田知重(後述)が「今田新太郎は福島県郡山の出身」と書いているのは完全な誤解、と言うか先輩の出身地ぐらい調べなさいよ…)
母方は医者の家系(ちなみにあの天誅組にちょっと関わりがあるらしい?)、母親自身も津田梅子と懇意にし,梅子の開設した女子英学塾に通っていたという。新太郎の学問の幅の広さはこの母親に起因すること大だろう。
・姉妹6人のうちの男の子一人。たった一人の跡継ぎなんで大事にされたんだろうな…と思いきや、近所に住んでいた中江兆民の息子・丑吉と常に比較されて「丑さんを見習え!」と言われていたらしい…
・その中江家とは家族ぐるみでつきあいがあり、先述の中江丑吉とは兄弟同様の親交が丑吉が死ぬまで続いた
※以上はこちらのHPを参照しました
・丑吉関連ではかなりのエピソードが伝えられている
例えば「今田新太郎は早くから丑吉に私淑していたが、それに関して丑吉は「今田が自分に心服しついてくるのは、自分がすぐれた理論を言うからとか、高い識見をもっているからというのでは決してないのだ。自分の言行一致のところを、自分の行動を見て、それでついてくるのである」と人に言っていたという」
「丑吉が病気になったとき、今田は看護していた人に「そんなマヅイ食物ばかり差し上げないで、鯛のお茶漬けとか鰺の干物とかもっとオツリキなものを工夫すべし」と手紙を送った。すると丑吉は「オツリキで栄養のないものを食ったら死んでしまう。まずいのは病気にとって当然だ。ジンギスカンなら狩りをする気で戦争したろうが、近代戦にシュメルツは必然だ。自分はシュメルツに耐えて戦争するつもり也、と返事に書いてくれ」と答えたそうな」本題とは脱線しますが”オツリキ”って珍しい言葉で、検索すると「一風変わっていてしゃれている・こと(さま)。」と言う意味らしい。今や死語かも知れない…。
※以上はこちらのブログを参照しました
・中国共産党員だった鈴江言一が憲兵に捕縛されたときには助けをさしのべ、結果鈴江は8ヶ月で釈放された。これも上記の丑吉との縁だろう(鈴江は丑吉の弟子的存在だった)
※以上はこちらのHPを参照しました
・なお、新婚の鈴江夫妻(妻は丑吉の姪)と取った記念写真が、上記で参照したこちらのHPに掲載されている。実はこの写真、ネットで見られる唯一の今田新太郎の写真。それにしても中国共産党員と大日本帝国陸軍参謀の並んだ写真って…。同じくこちらのHPによると新太郎は「陸軍の黒豹」とも言われてたらしいですが、ちょっとこの外観からは想像出来ん
・『靖獻遺言摘註』を出版。
ちなみにこの本の著者が新太郎の父。ちょっと調べたがかなりの稀覯本で、都道府県立図書館でも所蔵はないみたいだ…所蔵者の皆様、地元の図書館に寄贈したら感謝されるかもよ?
・太平洋戦争(大東亜戦争)中に東條英機暗殺(○。○)を計画した津野田知重は新太郎の部下。しかし知重よ、先述の「福島県郡山出身」もあれなんだが、下の記述もどうかと思うぞ↓
・石原莞爾の弟子だったのが東條英機に目を付けられ、太平洋戦争(大東亜戦争)末期には激戦地のニューギニアサルミ島に配属の師団("雪"兵団)ごと送られ、しかも補給を止められ見捨てられる(○。○) ちなみにこの"雪"兵団の主な構成員は東北出身者なのだが、特に莞爾の出身だった山形県庄内地方が多いようだ…もしかして…(((((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル なおこの師団長・田上八郎も東條英機と対立してはぶられた人物のようだ…
※"雪"兵団の悲劇についてはこちらのHPがくわしい
・終戦後はシンガポールに戦犯容疑者として収容されたらしい(どこかのHPで見たが、思い出せない…)この頃に日本で東京裁判が始まり、あの田中隆吉が満州事変の真相を検事に追求されて、シンガポール拘留中の今田をかばってこれだけはあいまいに供述したという
・その後、莞爾の側近から「莞爾を交えた座談会を行って本にしたい」と言う企画を持ち込まれ、これに参加することに同意する が、肝心の莞爾本人が昭和24年8月15日に死去、企画はお流れに(『石原莞爾 生涯とその時代』)…新太郎もそのわずか2週間後に死去…
また続くかも
しっかし、ネット上では本当に情報少ない人ですな…「満州事変実行犯」こればっかりしかひっかかんない_| ̄|○
・父方は大和郡山藩の藩士の末裔(津野田知重(後述)が「今田新太郎は福島県郡山の出身」と書いているのは完全な誤解、と言うか先輩の出身地ぐらい調べなさいよ…)
母方は医者の家系(ちなみにあの天誅組にちょっと関わりがあるらしい?)、母親自身も津田梅子と懇意にし,梅子の開設した女子英学塾に通っていたという。新太郎の学問の幅の広さはこの母親に起因すること大だろう。
・姉妹6人のうちの男の子一人。たった一人の跡継ぎなんで大事にされたんだろうな…と思いきや、近所に住んでいた中江兆民の息子・丑吉と常に比較されて「丑さんを見習え!」と言われていたらしい…
・その中江家とは家族ぐるみでつきあいがあり、先述の中江丑吉とは兄弟同様の親交が丑吉が死ぬまで続いた
※以上はこちらのHPを参照しました
・丑吉関連ではかなりのエピソードが伝えられている
例えば「今田新太郎は早くから丑吉に私淑していたが、それに関して丑吉は「今田が自分に心服しついてくるのは、自分がすぐれた理論を言うからとか、高い識見をもっているからというのでは決してないのだ。自分の言行一致のところを、自分の行動を見て、それでついてくるのである」と人に言っていたという」
「丑吉が病気になったとき、今田は看護していた人に「そんなマヅイ食物ばかり差し上げないで、鯛のお茶漬けとか鰺の干物とかもっとオツリキなものを工夫すべし」と手紙を送った。すると丑吉は「オツリキで栄養のないものを食ったら死んでしまう。まずいのは病気にとって当然だ。ジンギスカンなら狩りをする気で戦争したろうが、近代戦にシュメルツは必然だ。自分はシュメルツに耐えて戦争するつもり也、と返事に書いてくれ」と答えたそうな」本題とは脱線しますが”オツリキ”って珍しい言葉で、検索すると「一風変わっていてしゃれている・こと(さま)。」と言う意味らしい。今や死語かも知れない…。
※以上はこちらのブログを参照しました
・中国共産党員だった鈴江言一が憲兵に捕縛されたときには助けをさしのべ、結果鈴江は8ヶ月で釈放された。これも上記の丑吉との縁だろう(鈴江は丑吉の弟子的存在だった)
※以上はこちらのHPを参照しました
・なお、新婚の鈴江夫妻(妻は丑吉の姪)と取った記念写真が、上記で参照したこちらのHPに掲載されている。実はこの写真、ネットで見られる唯一の今田新太郎の写真。それにしても中国共産党員と大日本帝国陸軍参謀の並んだ写真って…。同じくこちらのHPによると新太郎は「陸軍の黒豹」とも言われてたらしいですが、ちょっとこの外観からは想像出来ん
・『靖獻遺言摘註』を出版。
ちなみにこの本の著者が新太郎の父。ちょっと調べたがかなりの稀覯本で、都道府県立図書館でも所蔵はないみたいだ…所蔵者の皆様、地元の図書館に寄贈したら感謝されるかもよ?
・太平洋戦争(大東亜戦争)中に東條英機暗殺(○。○)を計画した津野田知重は新太郎の部下。しかし知重よ、先述の「福島県郡山出身」もあれなんだが、下の記述もどうかと思うぞ↓
恋しい女に会いたいという女々しい心情とは雲泥の差師とも仰いでいた今田新太郎が上海にいるのである。…お前達は腐女子の餌食になりたいのかヾ(--;)
・石原莞爾の弟子だったのが東條英機に目を付けられ、太平洋戦争(大東亜戦争)末期には激戦地のニューギニアサルミ島に配属の師団("雪"兵団)ごと送られ、しかも補給を止められ見捨てられる(○。○) ちなみにこの"雪"兵団の主な構成員は東北出身者なのだが、特に莞爾の出身だった山形県庄内地方が多いようだ…もしかして…(((((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル なおこの師団長・田上八郎も東條英機と対立してはぶられた人物のようだ…
※"雪"兵団の悲劇についてはこちらのHPがくわしい
・終戦後はシンガポールに戦犯容疑者として収容されたらしい(どこかのHPで見たが、思い出せない…)この頃に日本で東京裁判が始まり、あの田中隆吉が満州事変の真相を検事に追求されて、シンガポール拘留中の今田をかばってこれだけはあいまいに供述したという
田中が法廷で証言に窮したのは柳条溝事件であった。…が、後に明らかにされた供述調書見たらしっかり言ってるやん(^^;)
昭和6年9月、柳条溝の満鉄線が爆破されたのを中国側の仕業だとして、関東軍が軍事行動を開始したが、この爆破作業は石原莞爾の命令で、今田新太郎がやったものだ。今田はその時、張学良の軍事顧問だった。田中は直接今田の口から聞いていた。
・・・ウエップ裁判長は、『君が答えなければならぬ』という。
切羽つまった田中は、『日本は中国側がやったといい、中国は日本側がやったといった』と苦しまぎれの証言をした。
田中がこの証言を渋ったのは、当時今田がシンガポールで抑留されていたからだった。・・・・・
http://www.tante2.com/tokyo-saiban-tanaka3.htm#eguchi1
... 日関する調査は、きわめて慎重に行なわなければなりませルネオあたりにいるはずであります。問題の鉄道爆破に答今でも生存していると思います。彼は、どこかボ問現在、その人物は生存していますか。今田新太郎という名前の人物であることが判明していた ...ともかくどうなったか分からないのだが、結局今田新太郎は罪に問われず、昭和21年(1946年)に復員した
http://books.google.co.jp/books?id=Z_45AAAAMAAJ&q=%E4%BB%8A%E7%94%B0%E6%96%B0%E5%A4%AA%E9%83%8E&dq=%E4%BB%8A%E7%94%B0%E6%96%B0%E5%A4%AA%E9%83%8E&hl=ja&sa=X&ei=bE58UY3gK4uokgXw8IDoCA&ved=0CDAQ6AEwADgo
・その後、莞爾の側近から「莞爾を交えた座談会を行って本にしたい」と言う企画を持ち込まれ、これに参加することに同意する が、肝心の莞爾本人が昭和24年8月15日に死去、企画はお流れに(『石原莞爾 生涯とその時代』)…新太郎もそのわずか2週間後に死去…
また続くかも
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