拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
私は以前この記事で、今田新太郎が満州事変後にノイローゼになったという片倉衷の話を紹介した。
が、『中江丑吉の肖像』の著者の阪谷芳直はこれに猛然と反論している。長いが全文打ってみる。
「愛する中国と事変の引き金を引いた自分との間に板挟みになり悩んでいる新太郎」
…って感じがいかにもするじゃないですか。
でも確かに史料見てみたら、とてもノイローゼじゃないですよね、新太郎。
それにしても、どうして片倉衷はそんな話をしたんだろうか。
もしかして自分たちより早々と内地に帰国した今田がうらやましかったのか。
しかもwikipedia「片倉衷」みてたら莞爾同様左遷人事っぽい飛ばされかただしな(関東軍参謀→久留米12師団参謀)
ちなみに上記のエピソードの初出は『片倉衷談話速記録』です。
関係のないおまけ
が、『中江丑吉の肖像』の著者の阪谷芳直はこれに猛然と反論している。長いが全文打ってみる。
[追記]うーむ、個人的にはノイローゼになった新太郎君(ヲイ)のほうが好きなんだけどな だって
本稿校正中に発売された『将軍の遺書-遠藤三郎日記』(宮武剛著・毎日新聞社)には、柳条溝事件に絡んで当時の関東軍参謀片倉衷大尉(今田の一期下、後の少将)が語ったという次のエピソードが載っている。
「今田大尉がノイローゼになったんだ、仕方なく内地に転任させた。あの人は18日夜、(北大営を急襲し、張学良の命令でほとんど無抵抗の)支那兵を切った。抵抗しない人間を切ると印象に残るもんだ。幻想に襲われて夜眠れない。今田が、そうだと言うんじゃないが、軍人が勲章ほしさに好んで殺傷するようじゃ修養が足りないんだ。」
(下線の場所は毎日夕刊連載時にはなく、出版に際し新たに挿入された個所-阪谷)
今田新太郎の9・18から昭和7年3月15日東京帰任までの動静は、「今田町日誌」の淡々たる記述が示すとおり、ノイローゼになっている暇など無い八面六臂の活躍ぶりで、母堂も「新さんへちょっと消息、自分の喜びを申送りし」と書き留めている位である。9.18から六ヶ月後の参本帰任が幻想に悩まされる人間の内地送還などとは考え得ないし、また勲章ほしさに好んで殺傷する軍人の例を今田新太郎に求めるなら、これほどの見当違いもないであろう。流石の片倉将軍も、言った後でバツが悪くなって「今田がそうだと言うんじゃないが」と取り繕わざるを得なかったことがこれを証明している。
満州事変にその発端から関わった軍人達がことごとくこの世を去り片倉将軍はほとんど唯一の生き残りであろう。このような生き証人の不用意・軽率な発言によって、歴史の真実が歪められたり、故人となった人々が致命的な誤解を受けたりすると、その誤りを正すのは容易ではない。敢えて追記を以てこの点を指摘することとした。
「今田新太郎-五十年前の一枚のハガキから-」『中江丑吉の肖像』p.297~298
「愛する中国と事変の引き金を引いた自分との間に板挟みになり悩んでいる新太郎」
…って感じがいかにもするじゃないですか。
でも確かに史料見てみたら、とてもノイローゼじゃないですよね、新太郎。
9/26(10/1着) 長春から「無事活動」の手紙を送る
10/13 チチハルから同駅付近で仕事している旨の手紙を送る
10/15 片岡・奥戸が一昨日帰郷した旨の手紙を送る(ばんない注 片岡、奥戸は柳条湖事件で今田と共に行動した雄峰会の活動家である)
10/17 北満州から奉天に帰った旨連絡
10/22 町、新太郎に「自分の喜びを申し送」る手紙を送る
(昭和7年)
2/10 3月に帰任する旨の手紙を送る
2/22 町、中江丑吉から新太郎に来た手紙を転送
3/15 12時前に帰宅
「今田新太郎-五十年前の一枚のハガキから-」『中江丑吉の肖像』p.290~291所収の「今田町日誌(仮)」を要点抜粋
それにしても、どうして片倉衷はそんな話をしたんだろうか。
もしかして自分たちより早々と内地に帰国した今田がうらやましかったのか。
しかもwikipedia「片倉衷」みてたら莞爾同様左遷人事っぽい飛ばされかただしな(関東軍参謀→久留米12師団参謀)
ちなみに上記のエピソードの初出は『片倉衷談話速記録』です。
関係のないおまけ
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やはり、今田新太郎と石原莞爾と言えば「満州事変」を落とすわけにはいかないだろう。
現在の学会では「満州事変」は「関東軍-それも板垣征四郎+石原莞爾他ごく一部の参謀-による独断専行の事件」とするのが主流のようで、それが一般的な認識でもあるように感じる。
しかし、石原莞爾を調べてみて(但しネット+一般書限定(汗))どうも腑に落ちない。事実、今村均(事変当時は参謀本部課長)は自著『一軍人六十年の哀歓』(後『今村均回顧録』と改題)において、陸軍上層部でも「満州・蒙古問題の解決には行動を起こしてもやむを得ないという認識はあった」としっかり明言されているのである。
そして石原莞爾の日記(『石原莞爾選集9 書簡・日記・年表』所収)には事変直前に陸軍上層部が上記の方針を大きく変えてしまったことに対して莞爾が立腹していることが簡略ながらこれも明言されているのである。
そこでキーポイントになりそうなのが今田新太郎の行動。
これは、先日やっとこさ借りられた『中江丑吉の肖像』(阪谷芳直著)に所収されていた「今田新太郎-五十年前の一枚のハガキから」を読んで気が付いたのだ。と言うかこの論文、すごく満州事変にとって重要なことを書いてあるのに、今まで読んだ本でこれを取り上げたり参照している物を今のところ1本も見たこと無いぞ!ヽ(`Д´)ノ
今田新太郎が満州事変の発端となった「柳条湖事件」で実行犯の主力として働いたのは、後の数々の証言+先述の石原莞爾の日記からでもはっきりしている。
ところで、満州事変の準備自体はかなり早くから始められたとする説が有力のようにみうけられる。人事に限ってみてみても、主力メンバーの赴任時期は
板垣征四郎 昭和4年(1929年)5月14日
石原莞爾 昭和3年(1928年)10月10日
花谷正 昭和5年(1930年)※コトバンク参照
となっている。
が、今田新太郎は違う。上記のように事件の核心部を担っているのにもかかわらず、満州に移り謀議に加わったのは新太郎の母・町の日誌などから見て事件勃発のわずか6ヶ月前と推測されるというのが阪谷氏の説である。以下、阪谷氏の論文に引用された「今田町日誌(仮題)」を使って昭和6年の新太郎の動向を見てみよう(尚記述は簡略にしています)
しかも今田新太郎の満州からの離脱も早かった。石原、花谷は翌7年8月の人事異動で内地へ(しかも石原は「陸軍兵器本廠附」役職無し)残った板垣も不遇なポストに置かれたのに対し、今田は同じ7年の3月には既に内地に帰っており、しかも役職は以前通りの「参謀本部付(支那局部員)」なのである。
阪谷氏は
では、今田をこの事件に巻き込んだのはいったい誰だったのだろうか?
実は私も気になってちょっと調べてみたのだが、この事件以前に今田新太郎と石原莞爾の間には接点が全く見あたらないのである。他のメンバー(板垣とか花谷とか…)が引き込んだ可能性もあるかも知れないけど、そこまで調べる気力はありません(ヲイ)
※ちなみに阪谷氏もこの辺を調べたが関係が分からなかったことを上掲論文(p.280)に書かれている。
ということは、陸軍中央部(それも石原莞爾を激怒させるほど方針転換した)のなかに、まだ密かに板垣・石原達に気脈を通じる者がいて、それが今田に関係していて、彼を満州に送り込んだということになるのだろうけど…軍ヲタじゃない私にはもう見当が付きません、はい。
なお蛇足ながら、この満州事変をきっかけに石原莞爾といろいろ関わりを持つ人物に遠藤三郎(最終的には中将)がいます。彼はそもそもは「満州事変留め男2号’s」としてやってくるのですが、石原にさんざんにやり込められて、帰国後に今村均参謀本部作戦課長(当時)に「なんだミイラ取りがミイラになったのか」と呆れられてしまいます。その彼が帰国後に参謀本部の某氏に「どうだ、今回のことはビックリしただろう!」といわれて、「そうか満州事変には参謀本部の一部が関わっていたのか」と思った(『日中十五年戦争と私』)そうですが…。
おまけ
現在の学会では「満州事変」は「関東軍-それも板垣征四郎+石原莞爾他ごく一部の参謀-による独断専行の事件」とするのが主流のようで、それが一般的な認識でもあるように感じる。
しかし、石原莞爾を調べてみて(但しネット+一般書限定(汗))どうも腑に落ちない。事実、今村均(事変当時は参謀本部課長)は自著『一軍人六十年の哀歓』(後『今村均回顧録』と改題)において、陸軍上層部でも「満州・蒙古問題の解決には行動を起こしてもやむを得ないという認識はあった」としっかり明言されているのである。
そして石原莞爾の日記(『石原莞爾選集9 書簡・日記・年表』所収)には事変直前に陸軍上層部が上記の方針を大きく変えてしまったことに対して莞爾が立腹していることが簡略ながらこれも明言されているのである。
そこでキーポイントになりそうなのが今田新太郎の行動。
これは、先日やっとこさ借りられた『中江丑吉の肖像』(阪谷芳直著)に所収されていた「今田新太郎-五十年前の一枚のハガキから」を読んで気が付いたのだ。と言うかこの論文、すごく満州事変にとって重要なことを書いてあるのに、今まで読んだ本でこれを取り上げたり参照している物を今のところ1本も見たこと無いぞ!ヽ(`Д´)ノ
今田新太郎が満州事変の発端となった「柳条湖事件」で実行犯の主力として働いたのは、後の数々の証言+先述の石原莞爾の日記からでもはっきりしている。
証言その一 見津(みつ)実上等兵(東京都在住)
九月十八日の夕方、川島中隊長の官舎へ呼ばれ、行ってみると、中隊長夫妻、河本中尉、それに見知らぬ大尉が応接間にいて「今田大尉だ」と紹介された。今田が「そのトランクを開けてみよ」と言った。小型の布製トランクの中に中国製らしい爆薬が約二十個入っていた。川島から「これから中隊は演習へ行くが、お前は今田大尉と同行せよ。誰とも話すな」と厳命され、ワインで乾杯したのでタダゴトではないと予感した。
河本中尉が何人かをつれて先発、薄暗くなって今田と私は北大営とレールの中間点に伏せの形で潜伏していた。三十分後にバーンと爆発音が三回聞こえ、火柱が西南方に見えた。すぐ中隊主力が到着し、北大営に攻撃を開始した。戦闘が始まって少しのち兵営内へ入ると、今田と川島が「もう大丈夫だよ」と話しあっていた。そのようすから日本側の謀略だな、と見当をつけた。その後、特務機関の二階に約一カ月軟禁されたのち、中隊へ帰った。
(秦郁彦著「昭和史の謎を追う 上」(文春文庫、1999年)p70-74)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-5/ad1931b.htm
※太字はばんない補足
ところで、満州事変の準備自体はかなり早くから始められたとする説が有力のようにみうけられる。人事に限ってみてみても、主力メンバーの赴任時期は
板垣征四郎 昭和4年(1929年)5月14日
石原莞爾 昭和3年(1928年)10月10日
花谷正 昭和5年(1930年)※コトバンク参照
となっている。
が、今田新太郎は違う。上記のように事件の核心部を担っているのにもかかわらず、満州に移り謀議に加わったのは新太郎の母・町の日誌などから見て事件勃発のわずか6ヶ月前と推測されるというのが阪谷氏の説である。以下、阪谷氏の論文に引用された「今田町日誌(仮題)」を使って昭和6年の新太郎の動向を見てみよう(尚記述は簡略にしています)
1/15 揚子江方面に旅行なおこの文中に出てくる「片岡」を、阪谷氏は「柳条溝事件工作に携わった雄峰会の浪人連中」と推定しているが、図星であろう。花谷正証言に「片岡といった雄峰会の連中も北大営(張学良の本拠地 ばんない注)への襲撃に加わった」という話が出てくるのである。
2/9 旅行先の洛陽丸船中より手紙を送る
2/13 沙市から手紙を送る
2/15 長沙から漢口への旅行の途中で手紙を送る、2月下旬に帰張予定
3/6 町、今井武夫大尉(※今田新太郎の同期生)から新太郎が臨時帰郷することを知らされる
3/11 北平(現北京)から20日頃帰郷することを連絡
3/15 町、参謀本部から新太郎が14日に北平を立ち15日に天津より船に乗り20日帰郷する旨連絡を受ける
3/19 正午「翌朝7時着」という電報を送る
3/21 午前8時帰宅
3/23 小田原へ行く
3/26 小田原より帰宅
3/27 訓令を受ける
3/28 町、新太郎の要請で女中を捜す、「片岡」という人物が来訪する
3/29 女中と片岡を引き合わせる 昼、河本(ばんない注 阪本氏の推測では河本大作、あの張作霖爆殺事件の首謀者である)と昼食を共にする
3/30 町、明日出発の新太郎と女中を同行させるために女中に心付けをする、が夜になって女中の両親が断ってくる
3/31 9:45、出発。町、女中の姉の家に回って、相談が調い女中が同行したことを送りに行った者から聞いて安心する
4/10 4/6に奉天着、「感慨決心」の手紙を送る
4/18 ハガキ2枚送る(ばんない注 実際は別々の日に投函したのが一緒に届いたのだろう、石原莞爾の手紙を見ていたときに気が付いたのだが、この頃の軍人の郵便はこういう事が多々ある)
4/20 奉天の状況をいろいろ報告
4/24 町、奉天に印刷物を送る
4/27 「片岡」が出立前に立ち寄る旨連絡
5/3 東北辺防軍司令長官顧問に異動(※阪本氏によると「東北辺防軍司令長官」=張学良のことだそうである)
5/8 「片岡」が電報で10日に訪問の旨連絡する
5/10 参謀本部より新太郎が4/10付けで異動したので4月分の給料20日分を返納するよう連絡してくる
5/22 12日に出発した「片岡」が18日に到着した旨連絡
6/9 無事の手紙を送る
6/24 吉林よりハガキを送る
7/7 「片岡」が新太郎の北平行きと近況を知らせる
7/8 北平より無事の手紙を送る
7/20 町、中江丑吉に送る塩煎餅を買いに行く
8/20 「今月の送金が出来ない」旨の手紙を送る
9/12 北平から手紙を送る
9/14 北平よりハガキを送る
9/18 夜10時半、支那兵が満鉄線を爆破、日支衝突
9/21 電報で「冬用の軍装を送れ」と言う旨知らせる
9/22 町、奉天へ上記の軍装一式を送付
しかも今田新太郎の満州からの離脱も早かった。石原、花谷は翌7年8月の人事異動で内地へ(しかも石原は「陸軍兵器本廠附」役職無し)残った板垣も不遇なポストに置かれたのに対し、今田は同じ7年の3月には既に内地に帰っており、しかも役職は以前通りの「参謀本部付(支那局部員)」なのである。
阪谷氏は
満蒙問題解決のための「謀略」-最終的には柳条溝(注 この論文が書かれた時期は「柳条湖」より「柳条溝」の方が呼び名として通っていた)の鉄路爆破をイトグチとすることになった-に関連する重要任務が、参謀本部から今田新太郎に与えられたと考えざるを得ない。と結論されているが、私も全くの同意である。
『中江丑吉の肖像』「今田新太郎-五十年前の一枚のハガキから-」p.280
では、今田をこの事件に巻き込んだのはいったい誰だったのだろうか?
実は私も気になってちょっと調べてみたのだが、この事件以前に今田新太郎と石原莞爾の間には接点が全く見あたらないのである。他のメンバー(板垣とか花谷とか…)が引き込んだ可能性もあるかも知れないけど、そこまで調べる気力はありません(ヲイ)
※ちなみに阪谷氏もこの辺を調べたが関係が分からなかったことを上掲論文(p.280)に書かれている。
ということは、陸軍中央部(それも石原莞爾を激怒させるほど方針転換した)のなかに、まだ密かに板垣・石原達に気脈を通じる者がいて、それが今田に関係していて、彼を満州に送り込んだということになるのだろうけど…軍ヲタじゃない私にはもう見当が付きません、はい。
なお蛇足ながら、この満州事変をきっかけに石原莞爾といろいろ関わりを持つ人物に遠藤三郎(最終的には中将)がいます。彼はそもそもは「満州事変留め男2号’s」としてやってくるのですが、石原にさんざんにやり込められて、帰国後に今村均参謀本部作戦課長(当時)に「なんだミイラ取りがミイラになったのか」と呆れられてしまいます。その彼が帰国後に参謀本部の某氏に「どうだ、今回のことはビックリしただろう!」といわれて、「そうか満州事変には参謀本部の一部が関わっていたのか」と思った(『日中十五年戦争と私』)そうですが…。
おまけ
かなり気になり出したので独立させてやってみることにした
後悔はちょっとしているヾ(--;) 島津と莞爾と今田の3足のわらじはきつすぎる…でもどれも捨てられない(^^;)
今田新太郎が気になり出したというのは
・満州事変の実行犯 しかも前日に中止が決定したのをひっくり返したという…(花谷正証言による、と言うかこれしかない) もしかしたら一応中止を了解していた莞爾より問題があるのでは
・でも子供の頃からの中国フェチ。満州事変の1年後には日中融和を説く論文をそれも「偕行社記事」という軍人専門誌に載せてるという…(「今田新太郎-50年前の一枚のハガキから」『中江丑吉の肖像』)
・石原莞爾の一番の子分とか弟子とか言われてる そのため東條英機ににらまれ軍歴の最後が悲惨なことに…
・が、戦前屈指のリベラリストである中江丑吉とは幼少時からの親友
…とまあ、何か矛盾の固まりみたいな人なのですよ。
でもほとんどネットでも情報ないし、評伝も出てない…こういう人にすごく惹かれる(ヲイ)
まず取りあえず年譜作成
ただ上記のように情報少ない人なので、随時更新修正していく予定です。
年譜は続きに
後悔はちょっとしているヾ(--;) 島津と莞爾と今田の3足のわらじはきつすぎる…でもどれも捨てられない(^^;)
今田新太郎が気になり出したというのは
・満州事変の実行犯 しかも前日に中止が決定したのをひっくり返したという…(花谷正証言による、と言うかこれしかない) もしかしたら一応中止を了解していた莞爾より問題があるのでは
・でも子供の頃からの中国フェチ。満州事変の1年後には日中融和を説く論文をそれも「偕行社記事」という軍人専門誌に載せてるという…(「今田新太郎-50年前の一枚のハガキから」『中江丑吉の肖像』)
・石原莞爾の一番の子分とか弟子とか言われてる そのため東條英機ににらまれ軍歴の最後が悲惨なことに…
・が、戦前屈指のリベラリストである中江丑吉とは幼少時からの親友
…とまあ、何か矛盾の固まりみたいな人なのですよ。
でもほとんどネットでも情報ないし、評伝も出てない…こういう人にすごく惹かれる(ヲイ)
まず取りあえず年譜作成
ただ上記のように情報少ない人なので、随時更新修正していく予定です。
年譜は続きに
…想像もしてなかったのだが、遂にこのネタで10件目…
前回引用させて頂いた掲示板から興味深い話をもうひとつ。
あ、そういえば犬養道子氏はこんな事を書いていたとか。実はこっちのネタの方を先に見つけていたのだ。
犬養政権はある意味莞爾が起こした満州事変の後始末内閣だったからなあ。莞爾のせいで祖父が殺されたと道子氏が思っていても間違いはなかろう。でも、軍部暴走を始めるきっかけ「統帥権干犯」という“錦の御旗”を作ったのはこの犬養毅と「ルーピー」鳩山由紀夫の祖父・鳩山一郎であって(しかし鳩山家ってろくな政治家いないなヾ(--;))
※私は今まで調べた印象では満州事変は莞爾単独の思いつきじゃなくて、陸軍の間接的な支持があったから可能だったと考えています。
ではおまけネタ
前回引用させて頂いた掲示板から興味深い話をもうひとつ。
下記の系譜にあるように、芳澤謙吉は第29代総理大臣・犬養 毅(77歳、岡山県岡山市出身)の娘婿です。実は、私は犬養首相の三男・健(たける、衆議院議員、法務大臣などを歴任)の長男・康彦氏(現在86歳、元共同通信社社長)にお会いしたことがあります。しかも、「苦い思い出」として……。
ご承知のように、犬養首相は昭和7年(1932年)5月15日に首相官邸で、海軍の青年将校・三上 卓(中尉、27歳)らに襲われ、ピストルで銃殺されたわけですが、その時に放った「話せばわかる」という言葉は、余りに有名です。襲撃当日、官邸には犬養首相とお手伝いさんと一緒に居た孫の康彦氏(4歳児)しか居なかったと言います。幼少ながらも暗殺の雰囲気を知っている康彦氏は、毎年青山墓地で開かれている慰霊祭に、「木堂会」の会長として祭主を務めてきました。
「木堂」とは、達筆だった犬養首相の号で、私は12年ほど前でしょうか、この会に関係していた石研の女性会員のお誘いで、慰霊祭に初めて参加させて頂きました。会長の犬養康彦氏との面談目的は、同じく石研の会員で、かつて三上 卓の大東塾の塾生であった方(今は故人)の「伝言」を伝えるためでした。その「伝言」の内容は、射殺犯・三上 卓は昭和46年(1971年)に伊豆で客死するまで(享年66歳)、「犬養首相の命日5月15日には毎年祭壇に雪洞(ボンボリ)を灯して、一日中瞑目を絶やさなかった」というものです。即ち、被害者の犬養 毅首相にその罪を詫び続け、ねんごろに供養していたというものです。
塾頭である三上 卓は、塾生の「5・15事件」を自慢する発言を強く戒め、この命日は特に峻厳に注意し、近寄りがたい姿だったと言います。
その旨を、私が康彦氏に伝えたところ、康彦氏の顔はみるみる険しい顔になって、「それがどうしたんですか?!」と強い口調で私に突っかかってきました。その言葉に、私は瞬時に「殺人の和解は第三者が考えるほど甘くはない。殺人に時効なし。仲介は難しいものだ」と感じ、喉から苦い唾液が湧き出るのを感じました。安易に引き受けた浅はかさと同時に、しかし一方、加害者側の遺志を伝えるのも意味ある役目では、と煩悶しつつ、返す言葉を失っていました。
当日の慰霊祭は、小雨が降る中での会合で、私にとっては何とも後味の悪い「冷たい」一日となりました。帰宅後も、後味の悪さが残り、赤穂浪士と吉良家末裔の手打ち式も300年近くかかっているなーと、改めて社会事件、殺人事件の憎悪の重さ、深さを感じたものです。康彦氏にとっては、「総理大臣の暗殺者は極刑」が当然であったでしょうし、「助命嘆願」の世論の盛り上がりで、軍法会議で死刑求刑も禁固15年の判決、5年後の釈放は「余りにも許しがたい暴挙」と感じていたでしょう。
姉の犬養道子氏(92歳、評論家)は、「父を殺した元凶は陸軍の石原莞爾だ」と公言していたので康彦氏も同じ思いだったのか、私が「石研」を名乗った時から嫌悪感が走っていたのかも知れません。話が順調に進めば「それは誤解ですよ」とお伝えしたかったのですが、それは初っ端から頓挫してしまいました
http://free2.nazca.co.jp/mk15/taku123/
あ、そういえば犬養道子氏はこんな事を書いていたとか。実はこっちのネタの方を先に見つけていたのだ。
祖父犬養木堂暗殺の重要要素をなした満洲問題は、 その発生から満州国建立までの筋書一切を、極端に単純化して言うなら、たったひとりの、 右翼的神がかりの天才とも称すべき人間に負うていた。 「満洲問題解決のために犬養のよこす使者はぶッた斬ってやる!」と叫んだ(『花々と星々と』晴れた暗い日の章)あの、 石原莞爾(昭和十三年当時少将、北満作戦部長)その人である。 読者の忍耐をもうしばらく乞うことにして、太平洋戦争への確実な第一歩であったあの石原構想 つまり満洲大問題について触れてみよう。 忘れてはならないのは、石原莞爾が国学者の家に生まれ、東北出身者であったと言うことである。 「神ながらの道」「すめらみことによる四海平和と五族同等」の「王道」を謳う国学に幼くして胸おどらせ、 長じては草の根すら食用にするほどに荒れはてて貧しい日本の農村の悲惨に胸ふるわせた。 財閥は肥え政治家は資本家と結託する・・・・・・「すめらみことの王道を実現し、 広き天地に農民を救い」・・・・・・と石原青年は大夢をえがいた。 その大夢の地を彼は、日露戦争の結果ロシアから鉄道と炭鉱の権益をもらいうけ従業の日本人も守護の兵をも 多く送りこむことになった、あの満洲に見出したのである。 単純極まりなく、彼は「そこに王道政治をつくれば」満洲地元の民、つまり満人も支那人も「共によろこぶ」と考えた。 迷惑なのはそう勝手に信じこまれ見込まれた地元側であった。 大夢を抱く神がかり的青年は、身を軍籍に置くや、夢抱く人にしてはめずらしい、 理論的な明晰な軍法家であることを示し出した。 彼の兵の用い方や作戦法はそれこそ天才的だった。日本の不幸はそこに始まったと言ってもよい。何か文章が莞爾に対して侮蔑的だと感じていたのだが、そういうことだったのね。
彼が在満日本軍つまり音に聞こえたあの関東軍の中心人物となったころ、 支那の方では、満洲鉄道や炭鉱やその他、条約に明記される権限以上に――はるか以上に ――投資はするわ人間は送りこむわの日本に、 ようやく強い反撥を示し出していた。 「なんてったってお客じゃないか、土地はこっちのもので、土地までやった覚えはない」と言う気持である、 「図々しいじゃないか」
しかし、石原の頭の中には、貧苦にあえぐ東北農村を救い、「立ちおくれた支那民衆」にも「光明を与える」 理想国家の青写真がもう出来上っていた。 その青写真が現実のものとなる上に邪魔するヤツは、日本の総理犬養であろうと、支那の総統蒋介石であろうと、 満洲の王者のごとくふるまう小僧らしい若僧張学良であろうと、容赦はしない。 天才的軍略家の彼は綿密に計画をたてた。昭和六年秋九月のことである。 彼の計画と手際がどれほどみごとであったかは、のちに国際連盟から調査を依頼されて満洲事変をしらべに行った 英国のリットン卿の次の言葉によって証される ・・・・・・「九月十九日の朝、奉天市民がいつものように平穏に起き出てみたら」 「支配者がなんと、一夜で変っていた」!
http://www.c20.jp/p/ikanji.html
犬養政権はある意味莞爾が起こした満州事変の後始末内閣だったからなあ。莞爾のせいで祖父が殺されたと道子氏が思っていても間違いはなかろう。でも、軍部暴走を始めるきっかけ「統帥権干犯」という“錦の御旗”を作ったのはこの犬養毅と「ルーピー」鳩山由紀夫の祖父・鳩山一郎であって(しかし鳩山家ってろくな政治家いないなヾ(--;))
※私は今まで調べた印象では満州事変は莞爾単独の思いつきじゃなくて、陸軍の間接的な支持があったから可能だったと考えています。
ではおまけネタ