拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
数日前、冷やかし半分で「今田新太郎」をGoogleで検索してみたら
拙サイトが上位5番目にヒット…(○。○)
…今田さんが不憫すぎる…誰かプロの作家とか歴史学者で彼をちゃんとやってくれませんかね マジで
以上雑談終了。
でも今日のネタはかなり雑談。
プロの歴史学者から見たらどうでも良いことに引っかかるばんないでございます(^^;)
今回のネタもそういう話。
今田新太郎自体は東京生まれ東京育ちですが、両親は奈良県出身です。
ちなみに師匠の石原莞爾はかなりの山形弁なまりだったそうです(わざと矯正しなかったとも)。
拙サイトが上位5番目にヒット…(○。○)
…今田さんが不憫すぎる…誰かプロの作家とか歴史学者で彼をちゃんとやってくれませんかね マジで
以上雑談終了。
でも今日のネタはかなり雑談。
プロの歴史学者から見たらどうでも良いことに引っかかるばんないでございます(^^;)
今回のネタもそういう話。
今田新太郎自体は東京生まれ東京育ちですが、両親は奈良県出身です。
奈良県出身。祖父は郡山藩の武芸指南で黒川奉行を勤め、廃藩後は国樔郷の連合小学校長を務めた今田正儀(同墓)。父は漢学者の今田主税・母は町(共に同墓)の1男6女の長男。
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/imada_shi.html
※こちらのHPでは「奈良県出身」とあるが、「今田新太郎-50年前の一枚のハガキから」(『中江丑吉の肖像』)によると東京生まれとのこと
妻の今田町(同墓)は奈良県鷲家口で医を業としていた久保耕庵の末女。父の今田正儀の塾生であり、その縁で後に主税と結婚する。つまり両親が関西出身の新太郎は関西弁をしゃべっていたのか?という謎。
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/imada_chi.html
ちなみに師匠の石原莞爾はかなりの山形弁なまりだったそうです(わざと矯正しなかったとも)。
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前回の話は1,2
こんな話とっとと終わってしまいたいヾ(--;)
伊地知に変わって武田邦太郎がリーダーとなった「わとう会」のメンバーは、結局石原莞爾のいた西山農場(山形県鶴岡市)に転がり込みます。
…ところがこれが問題の種となります。
先述のように「わとう会」のメンバーは”大御魂”なる物を信仰していました。旧来の西山農場の仲間は
「こんなの本当の日蓮様の信仰と違う!」
と不満を持つようになります。当然ですわな。
-ところが武田は、それまで西山農場にいたメンバーと違う才能を持っていました。鐘紡の農場で指導をしていたくらいの農業のプロだったのです。実は、それまで西山農場で興した事業はうまくいっておらず、莞爾のポケットマネーで持っている状態でした。
武田は経営状態が悪くなって混乱していた西山農場をまとめ上げ、再出発させようと貢献しました。
武田邦太郎は早くから石原莞爾と知り合いだったのではありますが、その後伊地知則彦と知り合い日蓮信仰にどっぷりと浸かった入ったことで、再び石原莞爾と再会、晩年の莞爾を支える人物となったのです
蛇足ながら、この「西山農場」のその後を追記します。
満州国の開拓は、東条英機らにより失敗したのは何回も書いているとおりです。そして、この西山農場も結局は失敗に終わったのです。
莞爾が1949年8月15日になくなると、精神的+経済的支柱を失った西山農場から多くの人が去っていきました。更に、西山農場は農場開発のプロ・武田を持ってしてもどうにもならない土地だったようです。西山農場の管理をしていた莞爾の弟・石原六郎が亡くなると土地は四散し(多分相続税の関係?)、現在は住宅地となっています。
参考 http://free2.nazca.co.jp/mk15/taku123/bbs.cgi?mode=res&thno=202
更に、参考論文には書いてなかったですが、「わとう会」が他の日蓮信者も弾いてしまうような強烈な信仰に至った経緯を私なりに分析。
この信仰は、最初伊地知則彦という特殊な人物一人だけの物でした。ところが、日本の敗戦で状況は一変します。伊地知の家には助けを求めてだいたい20人もの人間が転がり込んでいたのです。満州国崩壊時の悲惨な状況というのは何度もTVドラマ化されてご存じの方も多いでしょうが、極限の緊張状態、更に狭い空間での集団生活ということで、人格的に一番強烈な(しかもシェルターの家主だった)伊地知の信仰がみんなに伝播して行きやすかったと言うことでしょう。
おまけ
こんな話とっとと終わってしまいたいヾ(--;)
伊地知に変わって武田邦太郎がリーダーとなった「わとう会」のメンバーは、結局石原莞爾のいた西山農場(山形県鶴岡市)に転がり込みます。
…ところがこれが問題の種となります。
先述のように「わとう会」のメンバーは”大御魂”なる物を信仰していました。旧来の西山農場の仲間は
「こんなの本当の日蓮様の信仰と違う!」
と不満を持つようになります。当然ですわな。
-ところが武田は、それまで西山農場にいたメンバーと違う才能を持っていました。鐘紡の農場で指導をしていたくらいの農業のプロだったのです。実は、それまで西山農場で興した事業はうまくいっておらず、莞爾のポケットマネーで持っている状態でした。
武田は経営状態が悪くなって混乱していた西山農場をまとめ上げ、再出発させようと貢献しました。
武田邦太郎は早くから石原莞爾と知り合いだったのではありますが、その後伊地知則彦と知り合い日蓮信仰に
蛇足ながら、この「西山農場」のその後を追記します。
満州国の開拓は、東条英機らにより失敗したのは何回も書いているとおりです。そして、この西山農場も結局は失敗に終わったのです。
莞爾が1949年8月15日になくなると、精神的+経済的支柱を失った西山農場から多くの人が去っていきました。更に、西山農場は農場開発のプロ・武田を持ってしてもどうにもならない土地だったようです。西山農場の管理をしていた莞爾の弟・石原六郎が亡くなると土地は四散し(多分相続税の関係?)、現在は住宅地となっています。
参考 http://free2.nazca.co.jp/mk15/taku123/bbs.cgi?mode=res&thno=202
更に、参考論文には書いてなかったですが、「わとう会」が他の日蓮信者も弾いてしまうような強烈な信仰に至った経緯を私なりに分析。
この信仰は、最初伊地知則彦という特殊な人物一人だけの物でした。ところが、日本の敗戦で状況は一変します。伊地知の家には助けを求めてだいたい20人もの人間が転がり込んでいたのです。満州国崩壊時の悲惨な状況というのは何度もTVドラマ化されてご存じの方も多いでしょうが、極限の緊張状態、更に狭い空間での集団生活ということで、人格的に一番強烈な(しかもシェルターの家主だった)伊地知の信仰がみんなに伝播して行きやすかったと言うことでしょう。
おまけ
前回はこちら
…実はもうこの話中断したいよとか思っていることは内緒だぞヾ(--;)
武田邦太郎というのが晩年の石原莞爾にとって重要人物だったのは前回お話ししたのですが、そのなれそめというのは莞爾が惚れ込んだ農業学者の弟子の一人が武田で、この時はそれ以上でもそれ以下の関係でもありませんでした。
武田が莞爾にとって重要人物となるのには、もう一人の人物の登場を願うことになります。それが「伊地知則彦」というのですが、この人は石原莞爾が吹っ飛ぶぐらい強烈な人物でした…
論文を読んでクラクラしつつ要旨を箇条書き
・1914年2月19日鹿児島県生まれ
・実家の宗旨は日蓮宗。だけど葬式仏教レベルのノンポリだったようだ。
・1937年に満州に渡り、国民学校の教師となる
・が、満州国の余りの退廃っぷりに「内地で聞いていた話と違う!」…と落胆を覚えるようになる…
・1938年3月、新京(現在の長春)で石原莞爾と出会い日蓮の教えと出合う
・その後、1週間に1回以上、莞爾の元に日蓮の教えを習いに日参していた と言うか莞爾本来の仕事はどうしたのだ
・莞爾が忙しいときには「秘書の杉浦さん」から日蓮の教えを習っていたという 秘書よお前もか
・1939年1月1日から日蓮上人に祈願を立て(但し何故か祈願先が新京神社…)6日間ぶっ通しで祈りをする。6日目の朝、鮮血を吐いてたおれる。結核にかかっていたのだ。このため2ヶ月入院、更に帰国して郷里・鹿児島で4ヶ月も静養することになる。
・更に郷里で伊地知は両親がこんな新興宗教に入ってしまっていたというショッキングな出来事を知る。両親を折伏したが失敗、その結果両親と絶縁する。
・その後満州に帰るが、又喀血し1年も入院する羽目に。
・また、満州の日本人の振る舞いに対して憂慮していた(特に内地から来た女性の差別的傾向が強かったようだ)
・1942年3月頃帰国。入信仲間と会合を持つ。
・1942年5月頃、満州に帰り新京から蒙古(モンゴル)へ移り、蒙民中等学校育成学院の教師に。
・1944年中頃、石原莞爾の推薦状を持ち、武田邦太郎に会いに行く。この時に武田を日蓮宗仲間に入れることに成功する と言うか実際はそんな大層なことじゃなくて、「武田さん、日蓮の題目唱えたことないの?では良い機会だから一緒に唱えてみましょうよ」とお誘いしたらしい。こんな簡単なことで入信したことになるのか…。
・伊地知の日蓮信仰は一風変わっていた。毎朝昇る朝日に向かってお祈りするのである。そのうちなんと神様らしい声が聞こえてくるようになったらしい(○。○)これやばいぞ 伊地知はこの声の主を「大御魂様」と呼ぶようになった あれ?日蓮の声じゃないの???
・1945年8月、日本が戦争に敗れ満州国が崩壊すると、伊地知は命からがら逃げてきた信仰仲間を自分の家にかくまった。その中に武田もいた。
・伊地知らは新しい日蓮宗仲間(わとう会という名前だったらしい)を結成。会員は法名で呼び合い、伊地知が時々受ける「大御魂様の声」に従って行動していた これってあの何とか真理教と一緒ではないのかヾ(--;)
・1946年7月、ようやくわとう会のメンバーは引き上げに成功する。
・同年10月12日、やっと帰国した小倉で、伊地知は又喀血、当地の病院に入院する。
・同年10月14日、伊地知に大聖霊が降りてきて「これから立派な”わとう村”を作るため、今後は武田に任せる」「建設地は武田が見つける、日蓮は申さずとも良い、使者(=伊地知のこと)は安静にせよ」とお告げをしたが、これが伊地知の最期の言葉となった。10月18日死去。
…ここまでみなさん、クラクラせずにお読み下さいましたでしょうか?ヾ(--;)
さて。
伊地知の遺言?を聞いたわとう会のメンバーは、新たな開拓地を探しますが、所属していた東亜連盟(石原莞爾が顧問をしていた)がGHQに目を付けられ「超国家主義的暴力団体」と言う事で強制解散させられ、結局莞爾がいた西山農場に転がり込んだのであった…。
取りあえずきっつい話が続いたので、更に続く_(。_゜)/
…実はもうこの話中断したいよとか思っていることは内緒だぞヾ(--;)
武田邦太郎というのが晩年の石原莞爾にとって重要人物だったのは前回お話ししたのですが、そのなれそめというのは莞爾が惚れ込んだ農業学者の弟子の一人が武田で、この時はそれ以上でもそれ以下の関係でもありませんでした。
武田が莞爾にとって重要人物となるのには、もう一人の人物の登場を願うことになります。それが「伊地知則彦」というのですが、この人は石原莞爾が吹っ飛ぶぐらい強烈な人物でした…
論文を読んでクラクラしつつ要旨を箇条書き
・1914年2月19日鹿児島県生まれ
・実家の宗旨は日蓮宗。だけど葬式仏教レベルのノンポリだったようだ。
・1937年に満州に渡り、国民学校の教師となる
・が、満州国の余りの退廃っぷりに「内地で聞いていた話と違う!」…と落胆を覚えるようになる…
・1938年3月、新京(現在の長春)で石原莞爾と出会い日蓮の教えと出合う
・その後、1週間に1回以上、莞爾の元に日蓮の教えを習いに日参していた と言うか莞爾本来の仕事はどうしたのだ
・莞爾が忙しいときには「秘書の杉浦さん」から日蓮の教えを習っていたという 秘書よお前もか
・1939年1月1日から日蓮上人に祈願を立て(但し何故か祈願先が新京神社…)6日間ぶっ通しで祈りをする。6日目の朝、鮮血を吐いてたおれる。結核にかかっていたのだ。このため2ヶ月入院、更に帰国して郷里・鹿児島で4ヶ月も静養することになる。
・更に郷里で伊地知は両親がこんな新興宗教に入ってしまっていたというショッキングな出来事を知る。両親を折伏したが失敗、その結果両親と絶縁する。
・その後満州に帰るが、又喀血し1年も入院する羽目に。
・また、満州の日本人の振る舞いに対して憂慮していた(特に内地から来た女性の差別的傾向が強かったようだ)
・1942年3月頃帰国。入信仲間と会合を持つ。
・1942年5月頃、満州に帰り新京から蒙古(モンゴル)へ移り、蒙民中等学校育成学院の教師に。
・1944年中頃、石原莞爾の推薦状を持ち、武田邦太郎に会いに行く。この時に武田を日蓮宗仲間に入れることに成功する と言うか実際はそんな大層なことじゃなくて、「武田さん、日蓮の題目唱えたことないの?では良い機会だから一緒に唱えてみましょうよ」とお誘いしたらしい。こんな簡単なことで入信したことになるのか…。
・伊地知の日蓮信仰は一風変わっていた。毎朝昇る朝日に向かってお祈りするのである。そのうちなんと神様らしい声が聞こえてくるようになったらしい(○。○)これやばいぞ 伊地知はこの声の主を「大御魂様」と呼ぶようになった あれ?日蓮の声じゃないの???
・1945年8月、日本が戦争に敗れ満州国が崩壊すると、伊地知は命からがら逃げてきた信仰仲間を自分の家にかくまった。その中に武田もいた。
・伊地知らは新しい日蓮宗仲間(わとう会という名前だったらしい)を結成。会員は法名で呼び合い、伊地知が時々受ける「大御魂様の声」に従って行動していた これってあの何とか真理教と一緒ではないのかヾ(--;)
・1946年7月、ようやくわとう会のメンバーは引き上げに成功する。
・同年10月12日、やっと帰国した小倉で、伊地知は又喀血、当地の病院に入院する。
・同年10月14日、伊地知に大聖霊が降りてきて「これから立派な”わとう村”を作るため、今後は武田に任せる」「建設地は武田が見つける、日蓮は申さずとも良い、使者(=伊地知のこと)は安静にせよ」とお告げをしたが、これが伊地知の最期の言葉となった。10月18日死去。
…ここまでみなさん、クラクラせずにお読み下さいましたでしょうか?ヾ(--;)
さて。
伊地知の遺言?を聞いたわとう会のメンバーは、新たな開拓地を探しますが、所属していた東亜連盟(石原莞爾が顧問をしていた)がGHQに目を付けられ「超国家主義的暴力団体」と言う事で強制解散させられ、結局莞爾がいた西山農場に転がり込んだのであった…。
取りあえずきっつい話が続いたので、更に続く_(。_゜)/
前回、前々回で紹介した掲示板からもう一件。
実は参議院議員を1期だけ勤められたのですが、この時もう一人の候補として考えられていたのが、歌手・加藤登紀子氏の夫・藤本敏夫(故人)だったそうです。病気のため外されたとか。http://free2.nazca.co.jp/mk15/taku123/bbs.cgi?mode=res&thno=456
この武田邦太郎、晩年の莞爾に非常に関わった人物です。
その詳細についてはこれらの論文に書かれています。
「伊地知則彦の生涯と宗教思想に関する研究 : 石原莞爾の宗教思想との関連から」
http://libir.soka.ac.jp/dspace/bitstream/10911/3331/1/so36-091.pdf
「石原莞爾とその関係者を中心とした共同体運動の変容」http://libir.soka.ac.jp/dspace/bitstream/10911/3194/1/so34-067.pdf
上記の論文によると、武田邦太郎は1935年に東大西洋史科を卒業後、翌年に鐘淵紡績(鐘紡、後のカネボウ)に入社、農林部長・池本喜美夫の部下として鐘紡の満州での事業に従事します。池本喜美夫はフランス国立サンシール大学で農学博士号を取った人物で、東京農業大学教授時に行った公演が石原莞爾の共感を呼び、その後莞爾の要請で鐘紡農林部長となった人物です。鐘紡が池本の案により満州で行った事業とは「モデル農場を経営し、ゆくゆくは中国農民に向けて寄贈すること」この背後には池本の「満州事変はいずれ日支戦争(日中戦争)になると思われるが、そんな不毛なことをするよりその予算を中国農民の啓蒙に回すべきである」という考えがありました。
1939年10月21日に武田は池本に随行して石原莞爾に初めて会うのですが、この時既に莞爾は京都の第16師団長となっており、軍部の中枢からは追放されていた状態でした。武田は莞爾の要請で病気の池本にかわって著書を上梓したりとかかいがいしく働いています。また、モデル農場の経営も手堅く行っていて有能な人物だったことが伺えます。
が、この時点ではまだ武田邦太郎は日蓮などには関心はなかったようです。これについては別の人物が関わっています…それがタイトルにも出ている「伊地知則彦」なる人物です。実はこの人、石原莞爾が吹っ飛ぶぐらいの強力デンパなお方なのです…。
…
かなり長くなりそうなので項を変えて続く_(。_゜)/
私にとって武田先生に対する印象は、やはり一念が岩をも貫くという堅くピュア(純粋)な信念の持ち主だったということです。まさしく、あと百歳に1カ月という「前人未到」の長命は、石原将軍や信仰されていた日蓮上人のご加護かと思えます。この中に出てくる「武田先生」という人物、フルネームを武田邦太郎と言います。
また私にとって忘れがたい思い出は、何と言っても武田先生が参議院議員時代に、『永久平和の使徒 石原莞爾』(冬青社、1996年刊)という本を出版させて頂いたことです。だだ、その過程でひと悶着あったのです。というのは、当時(平成6年)、共編者のお一人だった菅原一彪氏(故人)と完全原稿に仕上げて、あとは武田先生から二つ返事を頂いて印刷にかける算段で議員会館にお邪魔したのですが、原稿を見るなり、「これでは出版できませんね。出版は中止しましょうか」という思わぬお言葉を頂いたのです。
唖然、呆然と言うか、全く予期していなかった返事に、ただただ驚いて菅原氏と顔をしばし見合わせました。私が「先生、どうしてですか、その理由をお聞かせ下さい」と尋ねると、武田先生は遠慮がちに「実は、この本は陛下にご覧頂くつもりだったのです。軍服姿の写真が沢山入ったこれでは困るのです」と。実は、この本には鶴岡市の資料館から多数お借りした写真のうち200枚を載せた「本邦初の写文集」を売りにするつもりだっただけに、この写真掲載を否定されることは私にとって出版意義が失われるだけでなく、すでに印刷工程が完了しているだけに、会社にも迷惑をかけることになり、私は必死で喰い下がりました。「先生、石原将軍は昭和16年に現役を退いたものの、まさしく将軍と尊称されるように、その生涯は軍人一筋でした。もし膨大に残っている軍人姿の写真を取り除くことは、石原将軍の全身のうち半身を切り刻んで半面の姿しか写し出さないのではないですか?」と。
すると、しばらくの間、時間が止まったように沈黙が続きました。私は部屋の窓から見える隣りの衆議院会館の姿をしばらく見つめていました。数分後、武田先生はおもむろに「それでは、私がこの本のために新たに原稿を書きますから、それを付け加えることで如何ですか?」とポールが跳ね返されてきました。ともかく、写真削除は免れたので、私と菅原氏は即座に賛同し、それは本文の最初に「序章」という形で処理することで妥協が成立しました。
さて出版後、「この出版目的は、陛下にご覧頂くことである」という武田先生の願望にどう応えるか、私は元宮内庁職員だった方を頼りに三笠宮殿下に献本をしましたが、ほどなくしてある日、渡辺 允侍従長の要請により、武田先生の事務所に「この本を陛下、皇太子、三笠宮殿下にご覧頂きたいので宮内庁に献本して頂きたい」との連絡が入りました。すぐに武田先生が自ら宮内庁に出向き計5冊が献納され、遂にこの出版目的は果たせました。
思いのほか早く夢が実現できた背景には、実は、武田先生はソニーの井深 大会長の斡旋で、現明仁天皇が皇太子時代に農業問題を御進講されており、かつ現皇太子徳仁(なるひと)親王と雅子様の御成婚時(平成5年、1993年)には国会議員の代表として宮内庁で祝詞を申し上げています。武田先生の歴代内閣の農業諮問委員の活躍のみならず、数々の誠実な実績があってこその栄誉、宮内庁の評価と思います。
実は参議院議員を1期だけ勤められたのですが、この時もう一人の候補として考えられていたのが、歌手・加藤登紀子氏の夫・藤本敏夫(故人)だったそうです。病気のため外されたとか。http://free2.nazca.co.jp/mk15/taku123/bbs.cgi?mode=res&thno=456
この武田邦太郎、晩年の莞爾に非常に関わった人物です。
その詳細についてはこれらの論文に書かれています。
「伊地知則彦の生涯と宗教思想に関する研究 : 石原莞爾の宗教思想との関連から」
http://libir.soka.ac.jp/dspace/bitstream/10911/3331/1/so36-091.pdf
「石原莞爾とその関係者を中心とした共同体運動の変容」http://libir.soka.ac.jp/dspace/bitstream/10911/3194/1/so34-067.pdf
上記の論文によると、武田邦太郎は1935年に東大西洋史科を卒業後、翌年に鐘淵紡績(鐘紡、後のカネボウ)に入社、農林部長・池本喜美夫の部下として鐘紡の満州での事業に従事します。池本喜美夫はフランス国立サンシール大学で農学博士号を取った人物で、東京農業大学教授時に行った公演が石原莞爾の共感を呼び、その後莞爾の要請で鐘紡農林部長となった人物です。鐘紡が池本の案により満州で行った事業とは「モデル農場を経営し、ゆくゆくは中国農民に向けて寄贈すること」この背後には池本の「満州事変はいずれ日支戦争(日中戦争)になると思われるが、そんな不毛なことをするよりその予算を中国農民の啓蒙に回すべきである」という考えがありました。
1939年10月21日に武田は池本に随行して石原莞爾に初めて会うのですが、この時既に莞爾は京都の第16師団長となっており、軍部の中枢からは追放されていた状態でした。武田は莞爾の要請で病気の池本にかわって著書を上梓したりとかかいがいしく働いています。また、モデル農場の経営も手堅く行っていて有能な人物だったことが伺えます。
が、この時点ではまだ武田邦太郎は日蓮などには関心はなかったようです。これについては別の人物が関わっています…それがタイトルにも出ている「伊地知則彦」なる人物です。実はこの人、石原莞爾が吹っ飛ぶぐらいの強力デンパなお方なのです…。
…
かなり長くなりそうなので項を変えて続く_(。_゜)/
以前「今田新太郎も気になる。2」で、阪本芳直氏も石原莞爾と今田新太郎のつながりがいつから始まったのか調べたが分からなかった、との旨を書いたのだが、
検索していて非常にアヤシイ記述を見つけた。もしかしてこれか?
つまり、莞爾がベルリンに留学させられてた大正12年(1923年)には既に今田新太郎と莞爾の間に接点があったということになる。
…
どうやって知りあったのよヾ(^^;)
なお、今田新太郎は東京出身ですが、陸軍幼年学校は仙台幼年学校に通ってました。ので莞爾の後輩という事になります。
<追記>
上記の文章の確認のため、『石原莞爾選集2 ベルリンから妻へ』取り寄せてみました。
なお、この他に今田が出てこないか読んでみたのですが、どうも出てないっぽい。しかも、この後ご存じの関東大震災があり、莞爾は親戚や友人いろいろのことを案じているのですが、その中に今田のいの字も出てこないので、この頃はまあそれくらいの間柄だった、ってことでしょうね。
検索していて非常にアヤシイ記述を見つけた。もしかしてこれか?
锑子君ノ懇切ナル御骨折一一対シ押火様、今田新太郎君及ビ五月十三日綈子君ノ御これ、『石原莞爾選集2 ベルリンから妻へ』の一節。
手紙ロロ「戦争カ平和カ」到着。帯伯林人士ノ遊覧所也。
http://books.google.co.jp/books?ei=7AeCUZeuMsaOlQXaq4C4Ag&hl=ja&id=zLvTAAAAMAAJ&dq=bibliogroup%3A%22%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE%E9%81%B8%E9%9B%86%22&q=%E4%BB%8A%E7%94%B0#search_anchor
つまり、莞爾がベルリンに留学させられてた大正12年(1923年)には既に今田新太郎と莞爾の間に接点があったということになる。
…
どうやって知りあったのよヾ(^^;)
なお、今田新太郎は東京出身ですが、陸軍幼年学校は仙台幼年学校に通ってました。ので莞爾の後輩という事になります。
<追記>
上記の文章の確認のため、『石原莞爾選集2 ベルリンから妻へ』取り寄せてみました。
(大正12年)六月二十一日おおむね間違いないようです。
(中略)
押火様、今田新太郎君、及ビ五月十三日テイ子君ノ御手紙□□「戦争カ平和カ」到着
(以下略)
p.118
なお、この他に今田が出てこないか読んでみたのですが、どうも出てないっぽい。しかも、この後ご存じの関東大震災があり、莞爾は親戚や友人いろいろのことを案じているのですが、その中に今田のいの字も出てこないので、この頃はまあそれくらいの間柄だった、ってことでしょうね。