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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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やはり、今田新太郎と石原莞爾と言えば「満州事変」を落とすわけにはいかないだろう。

現在の学会では「満州事変」は「関東軍-それも板垣征四郎+石原莞爾他ごく一部の参謀-による独断専行の事件」とするのが主流のようで、それが一般的な認識でもあるように感じる。
しかし、石原莞爾を調べてみて(但しネット+一般書限定(汗))どうも腑に落ちない。事実、今村均(事変当時は参謀本部課長)は自著『一軍人六十年の哀歓』(後『今村均回顧録』と改題)において、陸軍上層部でも「満州・蒙古問題の解決には行動を起こしてもやむを得ないという認識はあった」としっかり明言されているのである。
そして石原莞爾の日記(『石原莞爾選集9 書簡・日記・年表』所収)には事変直前に陸軍上層部が上記の方針を大きく変えてしまったことに対して莞爾が立腹していることが簡略ながらこれも明言されているのである。

そこでキーポイントになりそうなのが今田新太郎の行動。
これは、先日やっとこさ借りられた『中江丑吉の肖像』(阪谷芳直著)に所収されていた「今田新太郎-五十年前の一枚のハガキから」を読んで気が付いたのだ。と言うかこの論文、すごく満州事変にとって重要なことを書いてあるのに、今まで読んだ本でこれを取り上げたり参照している物を今のところ1本も見たこと無いぞ!ヽ(`Д´)ノ

今田新太郎が満州事変の発端となった「柳条湖事件」で実行犯の主力として働いたのは、後の数々の証言+先述の石原莞爾の日記からでもはっきりしている。
 証言その一 見津(みつ)実上等兵(東京都在住)
 九月十八日の夕方、川島中隊長の官舎へ呼ばれ、行ってみると、中隊長夫妻、河本中尉、それに見知らぬ大尉が応接間にいて「今田大尉だ」と紹介された。今田が「そのトランクを開けてみよ」と言った。小型の布製トランクの中に中国製らしい爆薬が約二十個入っていた。川島から「これから中隊は演習へ行くが、お前は今田大尉と同行せよ。誰とも話すな」と厳命され、ワインで乾杯したのでタダゴトではないと予感した。
 河本中尉が何人かをつれて先発、薄暗くなって今田と私は北大営とレールの中間点に伏せの形で潜伏していた。三十分後にバーンと爆発音が三回聞こえ、火柱が西南方に見えた。すぐ中隊主力が到着し、北大営に攻撃を開始した。戦闘が始まって少しのち兵営内へ入ると、今田と川島が「もう大丈夫だよ」と話しあっていた。そのようすから日本側の謀略だな、と見当をつけた。その後、特務機関の二階に約一カ月軟禁されたのち、中隊へ帰った。
(秦郁彦著「昭和史の謎を追う 上」(文春文庫、1999年)p70-74)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-5/ad1931b.htm
※太字はばんない補足

ところで、満州事変の準備自体はかなり早くから始められたとする説が有力のようにみうけられる。人事に限ってみてみても、主力メンバーの赴任時期は
板垣征四郎 昭和4年(1929年)5月14日
石原莞爾 昭和3年(1928年)10月10日
花谷正 昭和5年(1930年)※コトバンク参照
となっている。
が、今田新太郎は違う。上記のように事件の核心部を担っているのにもかかわらず、満州に移り謀議に加わったのは新太郎の母・町の日誌などから見て事件勃発のわずか6ヶ月前と推測されるというのが阪谷氏の説である。以下、阪谷氏の論文に引用された「今田町日誌(仮題)」を使って昭和6年の新太郎の動向を見てみよう(尚記述は簡略にしています)
1/15 揚子江方面に旅行
2/9 旅行先の洛陽丸船中より手紙を送る
2/13 沙市から手紙を送る
2/15 長沙から漢口への旅行の途中で手紙を送る、2月下旬に帰張予定
3/6 町、今井武夫大尉(※今田新太郎の同期生)から新太郎が臨時帰郷することを知らされる
3/11 北平(現北京)から20日頃帰郷することを連絡
3/15 町、参謀本部から新太郎が14日に北平を立ち15日に天津より船に乗り20日帰郷する旨連絡を受ける
3/19 正午「翌朝7時着」という電報を送る
3/21 午前8時帰宅
3/23 小田原へ行く
3/26 小田原より帰宅
3/27 訓令を受ける
3/28 町、新太郎の要請で女中を捜す、「片岡」という人物が来訪する
3/29 女中と片岡を引き合わせる 昼、河本(ばんない注 阪本氏の推測では河本大作、あの張作霖爆殺事件の首謀者である)と昼食を共にする
3/30 町、明日出発の新太郎と女中を同行させるために女中に心付けをする、が夜になって女中の両親が断ってくる
3/31 9:45、出発。町、女中の姉の家に回って、相談が調い女中が同行したことを送りに行った者から聞いて安心する
4/10 4/6に奉天着、「感慨決心」の手紙を送る
4/18 ハガキ2枚送る(ばんない注 実際は別々の日に投函したのが一緒に届いたのだろう、石原莞爾の手紙を見ていたときに気が付いたのだが、この頃の軍人の郵便はこういう事が多々ある)
4/20 奉天の状況をいろいろ報告
4/24 町、奉天に印刷物を送る
4/27 「片岡」が出立前に立ち寄る旨連絡
5/3 東北辺防軍司令長官顧問に異動(※阪本氏によると「東北辺防軍司令長官」=張学良のことだそうである)
5/8 「片岡」が電報で10日に訪問の旨連絡する
5/10 参謀本部より新太郎が4/10付けで異動したので4月分の給料20日分を返納するよう連絡してくる
5/22 12日に出発した「片岡」が18日に到着した旨連絡
6/9 無事の手紙を送る
6/24 吉林よりハガキを送る
7/7 「片岡」が新太郎の北平行きと近況を知らせる
7/8 北平より無事の手紙を送る
7/20 町、中江丑吉に送る塩煎餅を買いに行く
8/20 「今月の送金が出来ない」旨の手紙を送る
9/12 北平から手紙を送る
9/14 北平よりハガキを送る
9/18 夜10時半、支那兵が満鉄線を爆破、日支衝突
9/21 電報で「冬用の軍装を送れ」と言う旨知らせる
9/22 町、奉天へ上記の軍装一式を送付
なおこの文中に出てくる「片岡」を、阪谷氏は「柳条溝事件工作に携わった雄峰会の浪人連中」と推定しているが、図星であろう。花谷正証言に「片岡といった雄峰会の連中も北大営(張学良の本拠地 ばんない注)への襲撃に加わった」という話が出てくるのである。

しかも今田新太郎の満州からの離脱も早かった。石原、花谷は翌7年8月の人事異動で内地へ(しかも石原は「陸軍兵器本廠附」役職無し)残った板垣も不遇なポストに置かれたのに対し、今田は同じ7年の3月には既に内地に帰っており、しかも役職は以前通りの「参謀本部付(支那局部員)」なのである。
阪谷氏は
満蒙問題解決のための「謀略」-最終的には柳条溝(注 この論文が書かれた時期は「柳条湖」より「柳条溝」の方が呼び名として通っていた)の鉄路爆破をイトグチとすることになった-に関連する重要任務が、参謀本部から今田新太郎に与えられたと考えざるを得ない。
『中江丑吉の肖像』「今田新太郎-五十年前の一枚のハガキから-」p.280
と結論されているが、私も全くの同意である。

では、今田をこの事件に巻き込んだのはいったい誰だったのだろうか?
実は私も気になってちょっと調べてみたのだが、この事件以前に今田新太郎と石原莞爾の間には接点が全く見あたらないのである。他のメンバー(板垣とか花谷とか…)が引き込んだ可能性もあるかも知れないけど、そこまで調べる気力はありません(ヲイ)
※ちなみに阪谷氏もこの辺を調べたが関係が分からなかったことを上掲論文(p.280)に書かれている。
ということは、陸軍中央部(それも石原莞爾を激怒させるほど方針転換した)のなかに、まだ密かに板垣・石原達に気脈を通じる者がいて、それが今田に関係していて、彼を満州に送り込んだということになるのだろうけど…軍ヲタじゃない私にはもう見当が付きません、はい。

なお蛇足ながら、この満州事変をきっかけに石原莞爾といろいろ関わりを持つ人物に遠藤三郎(最終的には中将)がいます。彼はそもそもは「満州事変留め男2号’s」としてやってくるのですが、石原にさんざんにやり込められて、帰国後に今村均参謀本部作戦課長(当時)に「なんだミイラ取りがミイラになったのか」と呆れられてしまいます。その彼が帰国後に参謀本部の某氏に「どうだ、今回のことはビックリしただろう!」といわれて、「そうか満州事変には参謀本部の一部が関わっていたのか」と思った(『日中十五年戦争と私』)そうですが…。

おまけ

拍手[2回]


上記の阪谷氏の推測によると、
「今田は陸軍の中枢の誰かの命で、満州事変の遂行のためだけに、関東軍-それも関東軍の正式メンバーではなく「張学良の顧問の輔佐」という微妙な立場になって-やってきた」
ということになります

が、その割にはその後の行動が結構積極的なんだよなあ…あくまで後の証言が全く正しければ、ですが。
九月十六日午後奉天特務機関の二階に関係者全員を集めて対策を協議した。
 丁度本庄新軍司令官の初度巡視があり、この日板垣、石原も奉天に滞在していた。
 集つた着は板垣、石原、私、今田の他、実行部隊から川島、小野両大尉、小島、名倉両少佐等で奉天憲兵隊の三谷少佐は欠席した。
 決行するかどうかをめぐつて議論は沸騰し私は「建川がどんな命令を持つて来るか分らぬ。もし天皇の命令でも持つて来たら我々は逆臣になる。それでも決行する勇気があるか。ともかく建川に会つた上でどうするか決めようではないか」と主張したが、今田は「今度の計画はもうあちこちに洩れている。建川に会つたりして気勢を削がれぬ前に是非とも決行しよう」と息まいて激論果しなくとうとうジャンケンをやつて、一応私の意見に従うことになつた。
 ところが翌日になつて今田が私の所へやつて来て、 「どうしても建川が来る前にやろう」と云う。私は「東京と歯車を合わせてやつた方が得策だ」と説いたが何としても今田が云うことを聞かぬのでとうとう私も同意して「建川の方は僕が身を以つて説得しよう」と約束して十八日夜決行を決めた。
「別冊 知性」 昭和三〇年十二月号
http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-5/ad1931b.htm
私は当初、
「花谷正ってかなり問題人物だから、自分と今田のことを逆にして話してるんじゃないの」
と思っていたのだが、石原莞爾の日記を見ると
9月15日 午後9時より機関にて会議、之に先立ち、建川(美次 当時参謀本部作戦部長)来る飛電あり。午前三時迄議論の結果、中止に一決。
9月16日 今田、中野氏より18日に決定。遼陽巡視。夜、今田中野来り打ち合せ。本夜緒戦。
『石原莞爾選集9 書簡・日記・年表』より ※なお、原文は漢字カタカナ交じり文
_| ̄|○
をいをい、莞爾の日記でも「中止に決まってたのを今田と中野(良次大尉 当時関東軍参謀)でひっくり返した」と言う風に読める…
これが、今田新太郎の思想信条(中江丑吉と心胆相照らすほどの中国通)とどうも矛盾していて、阪谷氏もその辺がかなり気になっている様子が上掲論文(p.296)からもうかがえます。

本音はどうだったの~新太郎~



他に参考にしたブログ「石原莞爾は満州事変の"主犯"だったのか?」    
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