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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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…想像もしてなかったのだが、遂にこのネタで10件目…

前回引用させて頂いた掲示板から興味深い話をもうひとつ。
下記の系譜にあるように、芳澤謙吉は第29代総理大臣・犬養 毅(77歳、岡山県岡山市出身)の娘婿です。実は、私は犬養首相の三男・健(たける、衆議院議員、法務大臣などを歴任)の長男・康彦氏(現在86歳、元共同通信社社長)にお会いしたことがあります。しかも、「苦い思い出」として……。

ご承知のように、犬養首相は昭和7年(1932年)5月15日に首相官邸で、海軍の青年将校・三上 卓(中尉、27歳)らに襲われ、ピストルで銃殺されたわけですが、その時に放った「話せばわかる」という言葉は、余りに有名です。襲撃当日、官邸には犬養首相とお手伝いさんと一緒に居た孫の康彦氏(4歳児)しか居なかったと言います。幼少ながらも暗殺の雰囲気を知っている康彦氏は、毎年青山墓地で開かれている慰霊祭に、「木堂会」の会長として祭主を務めてきました。

「木堂」とは、達筆だった犬養首相の号で、私は12年ほど前でしょうか、この会に関係していた石研の女性会員のお誘いで、慰霊祭に初めて参加させて頂きました。会長の犬養康彦氏との面談目的は、同じく石研の会員で、かつて三上 卓の大東塾の塾生であった方(今は故人)の「伝言」を伝えるためでした。その「伝言」の内容は、射殺犯・三上 卓は昭和46年(1971年)に伊豆で客死するまで(享年66歳)、「犬養首相の命日5月15日には毎年祭壇に雪洞(ボンボリ)を灯して、一日中瞑目を絶やさなかった」というものです。即ち、被害者の犬養 毅首相にその罪を詫び続け、ねんごろに供養していたというものです。

塾頭である三上 卓は、塾生の「5・15事件」を自慢する発言を強く戒め、この命日は特に峻厳に注意し、近寄りがたい姿だったと言います。

その旨を、私が康彦氏に伝えたところ、康彦氏の顔はみるみる険しい顔になって、「それがどうしたんですか?!」と強い口調で私に突っかかってきました。その言葉に、私は瞬時に「殺人の和解は第三者が考えるほど甘くはない。殺人に時効なし。仲介は難しいものだ」と感じ、喉から苦い唾液が湧き出るのを感じました。安易に引き受けた浅はかさと同時に、しかし一方、加害者側の遺志を伝えるのも意味ある役目では、と煩悶しつつ、返す言葉を失っていました。


当日の慰霊祭は、小雨が降る中での会合で、私にとっては何とも後味の悪い「冷たい」一日となりました。帰宅後も、後味の悪さが残り、赤穂浪士と吉良家末裔の手打ち式も300年近くかかっているなーと、改めて社会事件、殺人事件の憎悪の重さ、深さを感じたものです。康彦氏にとっては、「総理大臣の暗殺者は極刑」が当然であったでしょうし、「助命嘆願」の世論の盛り上がりで、軍法会議で死刑求刑も禁固15年の判決、5年後の釈放は「余りにも許しがたい暴挙」と感じていたでしょう。

姉の犬養道子氏(92歳、評論家)は、「父を殺した元凶は陸軍の石原莞爾だ」と公言していたので康彦氏も同じ思いだったのか、私が「石研」を名乗った時から嫌悪感が走っていたのかも知れません。話が順調に進めば「それは誤解ですよ」とお伝えしたかったのですが、それは初っ端から頓挫してしまいました
http://free2.nazca.co.jp/mk15/taku123/

あ、そういえば犬養道子氏はこんな事を書いていたとか。実はこっちのネタの方を先に見つけていたのだ。
祖父犬養木堂暗殺の重要要素をなした満洲問題は、 その発生から満州国建立までの筋書一切を、極端に単純化して言うなら、たったひとりの、 右翼的神がかりの天才とも称すべき人間に負うていた。 「満洲問題解決のために犬養のよこす使者はぶッた斬ってやる!」と叫んだ(『花々と星々と』晴れた暗い日の章)あの、 石原莞爾(昭和十三年当時少将、北満作戦部長)その人である。 読者の忍耐をもうしばらく乞うことにして、太平洋戦争への確実な第一歩であったあの石原構想 つまり満洲大問題について触れてみよう。 忘れてはならないのは、石原莞爾が国学者の家に生まれ、東北出身者であったと言うことである。 「神ながらの道」「すめらみことによる四海平和と五族同等」の「王道」を謳う国学に幼くして胸おどらせ、 長じては草の根すら食用にするほどに荒れはてて貧しい日本の農村の悲惨に胸ふるわせた。 財閥は肥え政治家は資本家と結託する・・・・・・「すめらみことの王道を実現し、 広き天地に農民を救い」・・・・・・と石原青年は大夢をえがいた。 その大夢の地を彼は、日露戦争の結果ロシアから鉄道と炭鉱の権益をもらいうけ従業の日本人も守護の兵をも 多く送りこむことになった、あの満洲に見出したのである。 単純極まりなく、彼は「そこに王道政治をつくれば」満洲地元の民、つまり満人も支那人も「共によろこぶ」と考えた。 迷惑なのはそう勝手に信じこまれ見込まれた地元側であった。 大夢を抱く神がかり的青年は、身を軍籍に置くや、夢抱く人にしてはめずらしい、 理論的な明晰な軍法家であることを示し出した。 彼の兵の用い方や作戦法はそれこそ天才的だった。日本の不幸はそこに始まったと言ってもよい。
彼が在満日本軍つまり音に聞こえたあの関東軍の中心人物となったころ、 支那の方では、満洲鉄道や炭鉱やその他、条約に明記される権限以上に――はるか以上に ――投資はするわ人間は送りこむわの日本に、 ようやく強い反撥を示し出していた。 「なんてったってお客じゃないか、土地はこっちのもので、土地までやった覚えはない」と言う気持である、 「図々しいじゃないか」
しかし、石原の頭の中には、貧苦にあえぐ東北農村を救い、「立ちおくれた支那民衆」にも「光明を与える」 理想国家の青写真がもう出来上っていた。 その青写真が現実のものとなる上に邪魔するヤツは、日本の総理犬養であろうと、支那の総統蒋介石であろうと、 満洲の王者のごとくふるまう小僧らしい若僧張学良であろうと、容赦はしない。 天才的軍略家の彼は綿密に計画をたてた。昭和六年秋九月のことである。 彼の計画と手際がどれほどみごとであったかは、のちに国際連盟から調査を依頼されて満洲事変をしらべに行った 英国のリットン卿の次の言葉によって証される ・・・・・・「九月十九日の朝、奉天市民がいつものように平穏に起き出てみたら」 「支配者がなんと、一夜で変っていた」!
http://www.c20.jp/p/ikanji.html
何か文章が莞爾に対して侮蔑的だと感じていたのだが、そういうことだったのね。
犬養政権はある意味莞爾が起こした満州事変の後始末内閣だったからなあ。莞爾のせいで祖父が殺されたと道子氏が思っていても間違いはなかろう。でも、軍部暴走を始めるきっかけ「統帥権干犯」という“錦の御旗”を作ったのはこの犬養毅と「ルーピー」鳩山由紀夫の祖父・鳩山一郎であって(しかし鳩山家ってろくな政治家いないなヾ(--;))
※私は今まで調べた印象では満州事変は莞爾単独の思いつきじゃなくて、陸軍の間接的な支持があったから可能だったと考えています。

ではおまけネタ


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仙台陸軍地方幼年学校3年のときというから、今でいう中3のときの石原のクラスの図画の教官というのが、写生に力を入れる人で、 毎週2枚という課題を生徒たちの課した。題材は自由。で、石原少年が「十月一日」に描いた作品の傍らのコメントがこれ。 用紙いっぱいに描かれた石原の「我ガ宝」を見て教官は怒った。この「問題」を職員会議にかけて処分を要求した。 このとき、厳しい処分が行われていたら、その後の日本の歴史はよほど違ったものになっていたはずだが、 「大胆でよろしい」が職員会議の出した結論だった。図画の教官はこれを不服として辞職したという。 石原莞爾自筆のおちんちんにはオークションがきっと高値を付けるはずだが、戦争で焼けちゃったんだろうか。 消息を知りたい。
http://www.c20.jp/p/ikanji.html
このエピソード自体は私も腐るほどネタにしたが、こういう発想はなかったヾ(--;)
そういえばこの時の莞爾は退学になる可能性もあったわけで、ここでも運命の歯車に救われた(?)わけですな。
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