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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
昨日放送の『英雄たちの選択』(NHKBSプレミアム)は鍋島閑叟(直正)がネタだったんだが、閑叟は佐賀藩が明治維新後「薩長土肥」と言われる勇躍のきっかけを作った人物でもある一方、その4藩出身者の中では佐賀藩士が傍流になってしまう原因を作った人物でもあるんだな、とか。
今田新太郎関連で昭和初期の陸軍軍人を調べていると、急進派軍人には旧佐賀藩出身者が多いんだな。真崎甚三郎然り、5.15の三上卓とか。
昭和初期の急進派軍人と言えば旧奥羽越関係者(石原莞爾とか)が多いと言われるが、「維新で新政府側だったのにその後はいまいち」だった旧佐賀藩関係者というのも気になる。そういえば、やはり佐賀藩と似たような立場になってしまった旧土佐藩関係者はその後自由民権運動に足突っ込んだ人が多かったですな。中江兆民(今田の親友だった中江丑吉の父)も旧土佐藩関係者。



では本日の本題。
…アクセス解析を調べている最中に、うっかり見つけてしまった…ヾ(^^;)

今田新太郎の陸士・陸大の同期生で親友だったらしい高嶋辰彦。
が!どうも調べた限りではその思想は今田とはちょっとずれていた様に思われる。
(※拙ブログでの彼に関する記事はこちら参照 5)
高嶋の著書の一部は国立国会図書館の近代デジタルライブラリーなどでも読める

なにしろ戦前の本なので、読むのが結構めんどくさそうな物。ということで、一度もちゃんと目を通してなかったのだが…
現代日本人には…いや現代人じゃなくても、理解不能な彼の思想を分かりやすく???した物を見つけてしまったのである…うっかりヾ(^^;)

以下、かなりすごい代物をご紹介するので、時間のない方はスルーで
覚悟のある方は下の「つづきはこちら」をクリックプリーズ
石原完爾はとっても真人間だったのかもなー、とか何か妙な錯覚を抱かせるような内容です(をい)

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今回のネタの五郎丸保という人物を名前だけでも知ってたらかなりの日本近現代史通。
今をときめくラグビーのあの人の親族かどうかは不明です が かなりの珍名字なのでその可能性はなきにしもあらずかも知れない。
なお昔々「源五郎丸洋」というのがおりましてな(^^;)というと年齢と出身地がばれるヾ(--;)


拙ブログで「五郎丸保」という人物について、少しだけ触れたことがある。 写真はこちら
恐らく満州青年協会の関係者で山口重次に近く、浅原健三とは不仲だったと言う事までは分かるが、それ以外のことはさっぱり…

拙ブログへのアクセス履歴を見ていると、たまにこの人物関係でたどり着く人がいるようだ。
ちょっと気になったので検索してみた。
・戦中に大日本興亜協会なる団体の役員になっているらしい。参考こちら
戦後は亜細亜大学の理事になっている。昭和29年(1954年)~昭和31年(1956年)の間のこと。その後は再選されなかったようす。
国立国会図書館に所蔵されている石原莞爾の関係史料は元々はこの五郎丸の持ち物だったらしい。所蔵経緯については説明がなかったので不明(なんだが、山口重次史料同様古本屋から救済のパターンだろうか)

「大日本興亜協会」は名前から見て翼賛的な性格を持っていたところではないかと推測されますが、これがネットで検索しても余り良く分からなかった…。戦後亜細亜大学の理事を短期間ですが務められたのはこの大日本興亜協会の縁による物と思われます(※亜細亜大学は「興亜専門学校」という学校の後裔という)

と言う事で、やっぱり石原莞爾と浅原と今田を酷い目に会わせるきっかけを作ったという以外の事蹟はあんまりよくわからんかったです(爆)
ただ戦中はそれなりの団体の役員になり、戦後もちょっとではありますが亜細亜大学の理事もやってたくらいなんで、満州国協和会を失意のまま去り、戦後書いた回想録は出版元によって跡形もなく改竄されたという山口重次に比べたら幸せな人だったんじゃないでしょうか、たぶん。
※ということでこの人同様情報求む。コメントお待ちしてまーす。

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別件で検索していたらこんなの見つけたでござる。
大阪毎日新聞 1939.7.8(昭和14)
秩父宮、高松宮両殿下台臨 忠霊顕彰会発会式 殉国の勇士に捧ぐ赤誠 本社協賛
(中略)
なお引続き午後零時半から発会式記念講演会を同所に開催、中村明人少将、参謀本部高島辰彦大佐、広安門の勇士陸大教官桜井徳太郎中佐、白襷隊の勇士横鎮竹下勝治中佐、井口外務省情報部第一課長、攻勢省軍事援護部隊新居善太郎氏が熱弁を振いAKでは午前十時から三十分間発会式の状況を式場から全国に中継放送した (後略)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10176724&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 ※下線はばんないによる補足
陸士・陸大で同期なのに高嶋の方が階級上なんだなと言う余計なつっこみは置いといてヾ(^^;) まず「忠霊顕彰会」ってなんぞやと言うことからして全く分からないので検索してみた。
明治新政府の誕生以降、帝国在郷軍人会が主体となり忠魂碑が各地に建立された。その後、1939年(昭和14年)1月、内務省は各市町村に1基の忠霊塔の建立の許可を出し[1]、同年7月7日に大日本帝国陸軍は「大日本忠霊顕彰会」を設立し日本以外の地域での陸軍による戦争の跡地および日本国内の各市町村毎に1基ずつ忠霊塔の建立を奨めた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%A0%E9%9C%8A%E5%A1%94
※下線はばんないによる補足
世界大百科事典内の大日本忠霊顕彰会の言及 【忠魂碑】より …碑文題号の揮毫(きごう)者は帝国在郷軍人会会長の一戸兵衛や鈴木荘六の例が多く,除幕式は慰霊祭を兼ねて3月10日の陸軍記念日に挙行された。日中戦争がはじまると,1939年7月に大日本忠霊顕彰会が発足し,その指導によって戦死者の遺骨を納めた忠霊塔を各市町村に1基ずつ建設するようになった。忠魂碑は,戦死者の追悼にとどまらず,これを通じて国家への忠誠心を養成するという軍部や国家指導者の意図によって建設されたという面をもち,戦時中は戦死を美化し銃後協力を国民に強制するための象徴として機能した。…
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%BF%A0%E9%9C%8A%E9%A1%95%E5%BD%B0%E4%BC%9A-1359322
※下線はばんないによる補足
戦死者の慰霊塔を造るための組織だったようですが、陸軍肝いりで作られたことから分かるように単なる慰霊施設建設団体というわけでもなかったようです。なので、当然戦後はGHQのターゲットにされて、忠霊塔も殆ど破壊されてしまったようで。

しかしここで不思議ちゃん高嶋辰彦+宴会部長ヾ(^^;)桜井徳太郎のいつものコンビ登場なのである。ただこの忠霊塔の建設に関してはどうも桜井が音頭取りで、高嶋の方が引きずられったぽいのである。
北京本社特電 『廿八日発』 
北京に滞在中の忠霊顕彰会の桜井中佐及び高島大佐は北京郷軍人分科会を中心に四万在留邦人に呼びかけているが(後略)
『大阪毎日新聞』1939年7月29日記事 (http://shikon.nichibun.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/2182/1/IN04903.pdf p.83より孫引き引用)
忠霊塔の本格的な建設は(中略)支那事変を機とした昭和期にその建設が一般化する。特に昭和期の忠霊塔建設は、陸軍の桜井徳太郎が牽引役となり、組織的には大日本忠霊顕彰会(昭和14年7月発足)によって推進されたが(後略)
http://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun6/pdf/147012.pdf
※下線はばんないによる補足
1938年5月に制定された「陸軍墓地規則」で (中略) 陸・海軍墓地に以後個人墓は作られないことになり
(中略)
しかし、そうした合葬墓塔だけに満たされない思いを持つ遺族は少なくなかった。
(中略)
内務省は1939年4月に招魂社を元に各府県に原則一社の護国神社の設置を認めた。
(中略)
この動きに対して仏教界からは戦没者慰霊追悼を靖国神社-護国神社に独占されると危惧する声が挙がった。(中略)遺族からは府県1社の護国神社よりもっと身近な市町村に名誉墓域を求める声が出ていた。
こうした声を受け止め、忠霊塔を作ると言う運動を組織していったのが陸軍中佐桜井徳太郎であった。陸軍はこの運動を強く支持し、仏教界も宗派を越えて協力した。
(後略)
http://shikon.nichibun.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/2182/1/IN04903.pdf p.61 ※下線はばんないによる補足
特に後に引用した論文は詳しい内情が書かれているのですが
・日中戦争で戦死者が激増し、戦死者個人に墓を準備できなくなった
・神道vs仏教の宗教対立
など複雑な背景があったようです。 しかし、何で桜井はこういう運動に熱を上げたんだろうな?(゜_。)?(。_゜)? 桜井自身の当時の考えはこういう事のようです
忠霊塔は先ず戦場に建てたい、立派な忠霊塔があればそこにある日本人は誰だって忠霊を置き去りに引き揚げることはないだろう
『大阪毎日新聞』1939年7月2日記事 (http://shikon.nichibun.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/2182/1/IN04903.pdf p.109~110より孫引き引用)
しかし、これなら当初の軍方針だった護国神社建設でも構わないように思われるのだが。うーむ。 ちなみに桜井は例の三無事件に巻き込まれた後に思うところあったのか出家しています

ところで、桜井は忠霊碑を作るというのに余程興味があったのか、後に赴任したビルマでもこんな事をやっています
ビルマ国軍の最後の最高顧問だった桜井徳太郎少将などは,1945年3月5日のアウン・サンとの「国防会議」で,「武神ヲ祭ル(バンドラ)」(注:原文のまま)という提案をしていた
http://lib1.kyokyo-u.ac.jp/kiyou/kiyoupdf/no110/bkue11003.pdf ※下線はばんないによる補足


おまけ
検索中にあるブログで見つけたのだが、これはこのブログ著者の読み方でこうなったのか、それとも『中江丑吉と中国』でこう書いてあったのか。
「満州事変」の中心人物であり、対中国最強硬派の一人でもあった今田新太郎は丑吉と古くからの知り合いであった。「事変」後も二人は文通を続け、丑吉は様々なレトリックを用いて直接間接に日本軍の行いを批判し、日本に勝ち目がないことを書き続けた。それでも今田は華北情勢についての顧問になることを丑吉に要請する。
※下線はばんないによる補足
今田が「対中国最強硬派」って、トラウトマン工作に尽力したのが今田なんだけどなあ。あと中江丑吉関連本を読んだ限りでは今田が中江丑吉に軍顧問になるよう要請したことは一度もないはずなんだが。
うーむ実は『中江丑吉と中国』は未読だったりする(^^;)読んでみるかな…。

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うーむこのカテゴリのネタ随分久しぶりだな…
実は大きなネタも入手したのだが大人の事情でまだUP出来ない(謎)



実は検索中に偶然みつけたのだが
拙ブログでも紹介した満州青年同盟(後の満州協和会の母体)の実質的なボス?らしい山口重次が持っていたいろいろな史料を、今は何と国文学研究資料館が持っているようだ。
資料入手の経緯なども説明されている。
山口重次文書は、2009年度に古書店より購入したものである。また、整理番号No.391 以降の書簡等および名刺帳は2010年度に同じ古書店から購入した。
http://www.nijl.ac.jp/info/mokuroku/095-06.pdf p.95
ということで、古本屋に売られていたところを救出された模様。また
山口は戦後に公刊した著書(『満州建国の歴史-満州国協和会史-』栄光出版社,1973 年・『満洲建国-満洲事変正史-』行政通信社,1975 年)において、本人の手許に残されていた満洲時代の文書のいくつかを紹介していた。しかし、死後長らくその存在は不明となり、30年を経て古書店を経由して当館所蔵となった
(中略)
著書で使われていた多くの写真は一点も含まれていない
http://www.nijl.ac.jp/info/mokuroku/095-06.pdf p.95
と言う文から推測するに、山口の死後に遺族が古本屋に売却したのでは無かろうか。
史料の一覧表も付いていたのだが、ざっと見る限りでは今田関係の物は一つもなかった_| ̄|○ 予想はしてたけどな!ヾ(^^;) あと意外なところでは石原莞爾からの手紙を結構持っているんじゃないかと思っていたのだが、何と1通もなかった…。
他、名刺帳(http://www.nijl.ac.jp/info/mokuroku/095-07.pdf p.115)には現代史の大家として知られる秦郁彦や「うめぼし博士」樋口清之の名前も。秦の名刺があるのは分からなくもないが、樋口清之が山口に会っていたというのはかなり意外。秦氏は現在もご健在ですが、かなり癖のある性格の山口とどういう会話をしたのかは気になります。

しかし国文学研究資料館というのは、名前で分かるようにそもそも
国内外に所蔵されている日本文学及び関連資料の専門的な調査研究と、撮影・原本による収集を行い、得られた所在・書誌を整理・保存し、様々な方法で国内外の利用者に供することで、日本文学及び関連分野の研究基盤を整備し、展示・講演会等を通じて社会への還元を行っています。
http://www.nijl.ac.jp/pages/outline/
という施設なのに、文学性のかけらもないヾ(^^;)山口の資料が何でここに買われたんだろうか。国立公文書館…は「満州国」関係は厳密にいうと日本政府関係の資料じゃないと言うことで外れたんだろうか。でも本来なら国立国会図書館で管理した方が良い資料のように思うんだが。予算の関係?
ちなみに国文学研究史料館は松代藩真田家の史料も持ってるようだ。



拙ブログ関連ネタ    

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岡村寧次については部下だった船木繁という人が岡村の残した日記を再編した伝記『支那派遺軍総司令官 岡村寧次大将』があります。ところが、こちらの方には終戦直後からの岡村の動きについてはほとんど触れられていません_(。_゜)/ というのも、この本が出る前に、実は岡村自身がこういう本を上梓していたからでした…

この本は主に
・終戦直後から復員まで書き続けられた日記(昭和20年8月~昭和24年)
・昭和初期から昭和20年の終戦までの回想
から成り立っています。実は意外にマメだったらしい岡村、ずっと日記を書いていたのだが、終戦時に「日記の類は全部連合軍にボッシュートされる」と言う噂を聞き、概要のメモだけ残して昭和16年から20年8月の分は焼却してしまったらしい…結局VIP扱いの岡村の荷物はほとんど没収されなかったらしく、晩年になって「こんな事なら焼くんじゃなかった」とこの本の中でも頻りにぼやいています。

さて、この本。実は上下巻になる予定でした。編纂に協力した稲葉正夫(防衛庁戦史編纂室)も前書きで明言しています。
…が、結局下巻は上巻発行後40年以上を経た現在もいまだに刊行されず_(。_゜)/
これについて、発行元の原書房にも問い合わせてみたのですが、当時の社員は既に当然皆様退職されており、その時の事情が分かる物も全く残っておらず、何で下巻が出なかったのか社員にも不明だそうです_| ̄|○ この本は「明治百年史叢書」という現在も発行が続いているシリーズの99巻目なんですが、栄えある100巻目が欠番になってるのは、本来この本の下巻になる予定だったのではと推測されます。
※この出せなかった下巻を補完するのが、前掲の『支那派遺軍総司令官 岡村寧次大将』とおもわれます。稲葉氏の前書きに依れば、下巻は岡村の日記(未焼却分)の予定だったようです。

さて、岡村寧次は石原莞爾失脚に巻き込まれて中国に左遷されていた今田の上司になっていたことがあり、また今田が”兄”同然に慕っていた中江丑吉と親しく交際していたそうなので(『中江丑吉の肖像』他中江の関連本に頻出)、今田の話も出てくるかな~?と期待しつつ入手してみました。

期待は全く外れてしまったのですが⊂(。Д。⊂⌒`つ
しかし、興味深い話が載っていました。
実は間接的に今田に関わりがある話です。

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