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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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高島(高嶋)辰彦には今田新太郎と違って(涙)ちゃんと追悼録がある。
『雪松 高嶋辰彦さんの思い出』と言うタイトルである。
…が、予想通り、これも自費出版で入手困難な稀覯本である。

ところが、簡略かつお手軽な伝記が『月刊日本』と言う雑誌の記事になっていたらしい。
と言う事で、早速入手してみました。



内容は想像を絶するが、
とりあえず拙ブログをクラクラしつつも読み切った人なら、多分何とか耐えられるレベルかと。

ではまいる。


拍手[6回]


高嶋は、明治30年1月10日、福井県坂井郡三国町に多賀谷儀三郎の四男として生まれた。14歳になった明治44年9月、辰彦は名古屋陸軍地方幼年学校に入校する。その前年、同校受験の際の成績が抜群だったため、三国町出身の桑名連隊区司令官高嶋嘉蔵少佐に見込まれ、養子として入籍、高嶋姓となった。
『月刊日本』2011/7号(以後明記がない場合はすべてこの記事を出典とする) p.92
こういう事は、『寄生木』の主人公で有名なように、戦前の日本では割と日常茶飯事だったようです。
大正3年7月、名古屋地方幼年学校を卒業、成績優等により恩賜品を拝受している。大正5年5月に陸軍中央幼年学校本科を卒業し、同年12月陸軍士官学校に入校(第30期生)する。同校卒業の際にも、成績優等により銀時計を下賜、御前講演の栄に浴している。
p.92
『寄生木』の主人公・篠原は士官学校に進んでから成績が急落したため、その後の進路が怪しくなって非常に悩むわけですが、高嶋にはそういうことは無縁だったようです。
ちなみにこの陸軍中央幼年学校から同窓になったのが今田。
大正14年に陸軍大学校を卒業した高嶋は、陸軍省軍務局付となり、昭和2年3月には陸軍歩兵大尉となった。昭和4年から3年間、軍事研究員としてドイツに駐在し、ベルリン大学、キール大学などで学んだ。ドイツ駐在中には、欧米の主要国を回ってその国情、民族の実態をつぶさに観察した。
p.93
ちなみに陸軍大学校も首席で卒業。なんなんだこの化け物。
その後はドイツに留学と、陸軍の出世街道の王道を歩んでいます。留学中もちゃんと大学(それも2つも!)に入っている。この辺は同じドイツに留学していても帰依している新興宗教団体・国柱会教祖の息子の支援ばっかりしている莞爾とは大違…うわ何を
帰国後、軍務局軍事課予算班長として辣腕をふるう傍ら、皇道思想、興亜思想を学び、昭和12年から参謀本部作戦課に所属し、その才能を開花させることになったのである。
p.93
ドイツから帰国後、どうももてあまされていた様子の莞爾(でも陸軍大学校教官としての人気は絶大だったらしいが)に対し、真面目な優等生・高嶋の様子がうかがえます…なんだが、「皇道思想、興亜思想」…っていつどこでそんなの習おうと思い始めたのだ?デンパ化の妖しげな予感が…

そして、昭和12年には上掲文にあるように参謀本部作戦課に配属され、石原莞爾作戦課長(のち第一部長)の下、同窓生だった今田新太郎、4期下(士官学校34期生)の堀場一雄、そして秩父宮殿下と共にとてつもないビッグプロジェクトに取り組むことになる。そのプロジェクトは…日中不戦工作!
昭和12年8月2日には陸軍中佐・参謀本部作戦課戦争指導班長、11月20日には大本営陸軍参謀第1部戦争指導班班長(多分同じ役職の配置換えでしょうかね)とこのプロジェクトの総責任者となり、頑張るのです
が…
陸軍内で多数派をしめる好戦派、不戦を唱えている割にはやる気のない近衛文麿政府…なにより、「中国をたたけ」と盛り上がってしまった国民の前にはなすすべ無く、この工作は瓦解してしまうのである。-挫折を知らない男・高嶋にとって人生最初の大挫折と言っても間違いないだろう。
「(昭和13年1月16日、「蒋介石を相手とせず」という近衛声明を聞いて)陛下の熱烈なる和平のご念願も空しく、我ら半年の努力も実を結ばずして、事ここに至りたるを知る。実に千秋の恨事なり…翌日更に事実を確かめ、同室の秩父宮殿下を始め、一室満座悲憤の涙にむせぶ」
p.89
とその日のことを日記に書いているという。

この日以後、高嶋は「軍職に対してのみならず、人間としての希望まで失ったような無限の寂しさを覚えて、日夕深刻な心の矛盾に悩(p.89)」み、現実的には、軍の主流と違う意見を唱えていたと言うことで軍の主流からも外されようとしており「現実の仕事と自らの信念との間の板挟みとなり、悪夢のような数ヶ月間を過ごす(p.89)」こととなります。
-そんな彼の心の中に、ふとある考えが去来します
「そうだ!こういうときは朝日の荘厳な姿を拝することで、心の憂さを晴らそうではないか!」
をいそっちに走るかよヾ(^^;)
ともかく一度決めると行動は早い、高嶋は千葉の九十九里浜で朝日の出に合わせて禊行を繰り返す(!)のです…
すると、ある朝、高嶋の心に
日本の戦争はいくさであってたたかいではない。民草を生かす人道に沿った作用行動であって、たたき合い、殺し合いが最後の目的ではない。従って日本人の戦争に従事する者は、我が身を大切にし、上官、部下、戦友と心を合わせて助け合い、行く先々の民を慈しみ、不毛を開拓し、民を暴力から防衛し、民衆の安泰、正しい平和の確立を基礎づけるべき作用である。この目的にさえ沿う場合には、敵を殺すこともなるべく避けて、目的の達成を第一義とし、敵をも隔てぬ同仁の情け、既に逝きし戦友の遺言は、敵味方双方の供養をも行うべきものである
p.89
…と言う考えがぽっと浮かんでくるのです。
浅はかな考えしか持ってない私からすると「いくさ」と「たたかい」って単に言い方の違いだけちゃうんかと言う気もするのですが、ともかく、この後東京に帰った高嶋は古今東西の文献を読みまくり、上記の考えの正しさを確信します。
-一度確信すると、もう迷いはない高嶋、昭和13年3月に国家総力戦を研究するため参謀本部第一部の外郭団体設置が認可されると、高嶋は「総力戦研究室(翌月「国防研究室」と改名)」を立ち上げます。これを認可した上司は、高嶋に「総力戦の理論構築」を求めていたようなんですが…高嶋はそこに上記の構想を取り入れた独自の理論を構築しようとしていました…。昭和13年10月24日には『皇戦』を上梓します。これの副題がすごい「皇道総力戦世界維新理念」ときてます。序文にはこうあります
この世紀を貫く長期に亘るべき国家総力の戦ひは、我が国体の本義に徹し、正しき東亜乃至世界の再建を目指すとき、初めて悠久に亘って必ず勝つのである。本編の目的とする所は、この行動に即する我が総力戦と、之による世界維新に関する理念の検討である
p.90~91
最終章は「近世の世界を風靡したアヘンのような西洋学を日本・東洋から一掃し、真に東洋に帰り、いよいよ深く日本自らを究め、建設されるべき「真正日本学」によって、皇道東洋学、皇道世界学に発展させ、それによって世界文化の維新に貢献しよう(p.91)」という内容で締めくくられているようです。「世界維新」「維新」とか言う用語が出てくる所は、5.15,2.26の青年将校や果ては石原莞爾が東亜聯盟運動でもよく言及した「昭和維新」という言葉に通じるようなところがあるような気もするのですが、高嶋の言う維新はもっと文化的+精神的、しかも世界を相手にすると言うかなりスケールでかすぎ(^^;)
…これに目が止まった東京日日新聞(現毎日新聞)が高嶋に「来年1月から、是非我が社に同じテーマで連載をして下さい!」と依頼し、それを高嶋は了承するのですが…その時に高嶋が付けた条件は、当時の、いや現在のマスコミならもっと耐え難いハードルの高い物でした。
(1)タイトルは「日本百年戦争宣言」とする
(2)添削は一切しない
(3)全文を必ず掲載しろ、(中略)とか「中止」とかしない
(4)高嶋の写真は掲載しない
このうち(4)は現役軍人・高嶋なら仕方ない所と理解できるのですが、(2)(3)はマスコミにはあり得ない条件で、更に初回原稿には「大新聞といえども一貫した理念でそれぞれの記事を書いてるの?各新聞は自分の立場を主張するばっかりで国民を混乱させてるばかりじゃん。敵国の術策には何の検討もしないで、逆にその手先になってるし、とりわけ広告欄は見るに耐えないね」(意訳)と新聞への批判が列ねてあったことから、土壇場で連載中止が検討されるほどになります…が、結局連載されることになりました。
ところで、先程から高嶋が「皇戦」という用語をよく使っていますが、この「日本百年戦争宣言」の冒頭で、「皇戦」についてこのように説明しています。
所謂東亜の再建、アジアの復興は即ち同時に混濁を極むる近世を転換して、我が皇道に即する新しき世界の創造を意味するものなることを覚悟しなければならぬ。蓋し、近世に覇たる西欧の繁栄は、アジアよりの搾取に依って培はれ、その世界制覇は東洋植民地侵略によって成ったが故である。即ち支那事変の解決は、同時に史代的世界転換を結果する物でなければならぬ。これがため、万民悉くそのすべてを天皇に提げ帰一し奉る戦こそ、筆者の力説する皇道総力戦即ち皇戦なのである
p.90
最後の一節が無理矢理のような気もしますが(^^;)まあ、主旨は現代でもよく言われているテーマではありますね。高嶋はこの「日本百年戦争宣言」で"西欧的侵略"の思想的側面に焦点を当てています。
西欧的侵略の進行によって、日本国内に於ける思想、学問、文物制度などの中に、我が皇道と甚だ縁遠い西欧植民知的形態を示す物が出てきている。所謂植民地侵略とは、単なる政治的、経済的部門だけではなく、歴史の歪曲、理念の欺瞞、局学の流布、謀略的文物制度の移入等こそ、最も深刻で、恐るべき侵略であることに気づくべきである。
高嶋によれば、日支の対立の背景にも、西欧による思想的侵略がある。彼は、支那が真の支那を知らず、日本が真の日本を知らず、東洋の文化、生命体的運命を自覚しないことから、日支の対立ももたらされていると説いた。
p.90
そして高嶋はこう結論しています
速やかに近世自由主義の鉄鎖を断つだけではなく、日本を枢軸とする新世界創造の理念を確立すべきだと主張した。帝国主義外交とは異なる、人類の文明転換という崇高な理念を示せと言うのだ。つまり、高嶋の信ずる百年戦争の最終目標とは、近世の文明を転換し、新しい世界を創造することであり、そのために、全世界に対する総力戦争の遂行と、内においては皇道真日本の完成に努力すべきだと主張し、この構想実現のための最大の急務は「総合大武力の整備と、新世界を創造すべき皇道文化体系の建設」だと書いた。
p.90
…ここまで来ると、どうも陸軍上層部が考えている「総力戦」と、高嶋の考えている「総力戦」の内容にはかなりずれがあるように思われるのですが…

高嶋はこの『日本百年戦争宣言』を書く過程で様々な学者の元を訪れ、彼らはその後高嶋のブレーンとなっていきます。このなかの一番大物?なのが"昭和の天才"といわれた仲小路彰でしょう。外見も含めた彼のまた石原莞爾とは違ったヾ(--;)ぶっ飛びぶりはこの本に詳しいようです。
小島威彦はその仲小路の友人の一人で、仲小路の著作を刊行するために「世界創造社」という出版社を設立します。前掲の高嶋の『皇戦』『日本百年戦争宣言』もこの世界創造社から出版されていますので、その辺りをきっかけとして知り合いになったものと思われます。
昭和15年に、仲小路、小島らは「スメラ学塾」というグループを結成するのですが…これが何をしたいのか私の頭ではさっぱり理解できないので、このコラムに書いてある説明をそのまま転載させて頂く
スメラ学塾は、世界の中で、または欧米が支配している世界を引き離して外から眺めるような世界史の演劇を語る世界史塾を作りたいという日本浪漫派の情熱の結晶であったと書いている(『昭和の天才仲小路彰』p.24)
スメラ学塾の講義の中核を担った小島は、日本中心の独創的な世界史を講じた。スメル(シュメール)文明はメソポタミアの最南部、チグリス・ユーフラテス川の下流域に築かれた文明を指すが、小島はこのような地理的概念ではなく、世界文明の接合点としての「スメル文化圏」を想定し、その実質的形態は、太陽神話の形態としての祭政一致の社会形態を形成していたと論じた。そして、すべてのスメル文化圏を統一して再び新たな世界史を作らなければならない、そういう必然性に立ったときに初めて日本の建国がなされたと説いた。
p.91
スメラ学塾は塾頭は末次信正海軍大将、駐イタリア大使白鳥敏夫や駐ドイツ大使大島浩が講師を務めており、さらには海軍大学校教官・富岡定俊大佐の戦争史研究とも連携していたという。
<役に立たない補足>
・末次信正:こういう人 実は蘆構橋事件の後の日中和平工作の時に足を引っ張った張本人の一人らしい(『反逆の獅子』)
・白鳥敏夫:こういう人
・大島浩:元陸軍軍人という前歴を持つ外交官。こういう人。
・富岡定俊:こういう人
…日独伊三国同盟オールスターズですね…

更に、『日本百年戦争宣言』で「皇道に即する総合世界地理を創造せよ」と主張した高嶋は、昭和13年11月に京都帝国大学地理学教室教授・小牧実繁とそのグループと提携するようになります。目的は「政治地理学」つまり皇道に基づく「地政学」の研究でした。この辺については先述の「スメラ学」とは違って(^^;)近年かなり学術研究が進んでいるようです。こちら(pdfファイル)とかこちら(pdfファイル)とか

その前月、自分の構想に自身の念を深めたのでしょうか、高嶋は「広範な人々に、国防学研究の必要を訴え、啓蒙の成果を上げるため」に、「皇戦会」の発足に向けて動き始めます。
が!大きな障害が立ちふさがりました。陸軍次官(当時)の東条英機に反対されたのです。…しかしこんな事でめげない(と言うか分かってない?)高嶋は、翌昭和14年1月11日に神田正種少将、坂西一良少将を発起人として皇戦会趣意書を書き、その月末から賛助者の署名を集め回り始めます。5月には事務所開設、そして財団法人としての許可までもらってしまいます。こうして結成された皇戦会の会長は当時の靖国神社宮司鈴木孝雄大将、顧問は平沼騏一郎首相、荒木貞夫文部大臣、柳川平助興亜院総務長官などそうそうたる陣容となります。
<役に立たない補足>
・神田正種:こういう人 満州事変の時に朝鮮軍司令官・林銑十郎を煽って天皇の命令無しに越境させると言うことをしでかしたのはこの人
・坂西一良:こういう人 因縁の稲田正純さんの実兄
・鈴木孝雄:こういう人
・平沼騏一郎:有名すぎて書くこと無い 平沼赳夫衆議院議員がこの人の養子なのも有名かと
・荒木貞夫:何回も登場した皇道派のトップ
・柳川平助:皇道派の一人
こうして自分の構想を支援する外郭団体も立ち上げ、陸海軍OBのそうそうたる支持も得て、順風満帆に思えたのです
が…
昭和15年12月2日、高嶋は突然台湾軍(第48師団)歩兵第一連隊長に任ぜられます。要は中央からおっぽり出されてしまったのです(○。○)。当時高嶋の部下だった間野俊夫は「一連の部外活動は次第に省部、特に陸軍省方面の目障りと成る面もあったようで」と回想しています。国防研究室は解散、皇戦会の常務理事も海外派遣となると勤められないので渡辺渡大佐(陸軍士官学校で高嶋の同期)に引き継ぐこととなりました。
…しかし、高嶋こんな事でめげなかった。いや内心めげていたのかも知れないけどヾ(--;)、すぐに心を切り替えた
「中央で皇戦実践させてくれないなら、今度は現地で実施あるのみ!」

干されてしまった高嶋の明日はどっちだ?!長くなったので続く_(。_゜)/

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