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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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何とこのカテゴリ、遂に100件目になりました…※番外編を入れるともっと多い
ずるずるこんな長くおつきあいすることになるとは
ちなみにかなり前になりますが、前回のお話はこちらです。

表題の本ですが
結局どうしても内容が気になったので四方八方の図書館を手を尽くして探してもらい、ようやく借りることができました。
…いや、実は奈良県の奈良県立図書情報館にあるのは知っていたのだが、禁帯出で借りられないし、行くのが大変なんで…千田館長のケチ~ヾ(^^;)

読んでみた感想。
※下の方にある「つづきはこちら」をクリックお願いします

拍手[2回]



・やはり今田さんの遺族は文を寄せていないようです(´・ω・`)
・でも、けっこう今田さん情報は多かった。部下から見ると「おっかない参謀長閣下」だったようです(^^;)
・田上師団長はみんなに優しい。それが何であんな死に方に…。・゚・(つд∩) ・゚・ 。
・半年しかいない割にみんなに印象残している津野田参謀(爆)
・事前情報として知ってはいたが、ニューギニアに飛ばされてからは地獄絵図。涙無くして…と言うよりは余りの悲惨さに唖然。これでもニューギニア戦線ではマシな方の部隊なんだよね…
・本格的に稲田正純をたこ殴りしたくなってきたヾ(^^;)

下に気になるエピソードなど


18年7月始め転進貨物廠に出張した。この頃師団は警備の任務を新編成の第62師団に委譲し、現地集結の上対ソ作戦の訓練をすべき命令を受けていた。
出張に辺り今田参謀長から「貨物廠で当師団のために特に夏被服を用意しているかどうかを探ってこい」との密命があった。同廠にいる同期生などに密かに調べて貰ったがはっきりしなかった。慧眼な参謀長は早くも南方行きを予期していられたと思われる。
p.90
司令部の昼食は構内の高等官食堂で、師団長以下将校一同会食し、会報も行われた。交代で若い将校が師団長、参謀長の真向かいに座らされ、さりげない諮問を受け冷や汗をかいた。普段は末席で、慰問団が来れば美姫と相対する余得もあった。時に将校に課題が与えられ報告することもあった。ある時経理部の星野中尉がアメリカの経済について話をしたとき、参謀長が「さように金持ちなら金の弾を打ってよこせばよいのになあ」と皆を笑わせた
p.91
珍しい今田の冗談シーン。冗談言うこともあったんだ(ヲイ)
18年正月井関師団長が司令部の将校一同を町の商工会館に招き盛宴を張った。閣下の自弁と聞いた。この時第一軍参謀長花谷正少将が列席した。色浅黒く眼光炯々、長身である。人を人とも思わぬ風貌に見え、よく将校をも殴りつけると恐れられていた。満州事変の立役者で今田参謀長の盟友である。渋い声で黒田節を歌った。
p.91
何と花谷のジャイアンリサイタルまであったとはねえヾ(--;)なお花谷の第一軍参謀長就任はこの戦線を無茶苦茶にした主因だったという人もいます
花谷正はこの後ビルマ戦線に転進、そこで上記でも書かれている「人を人とも思わず、殴りつける」事を実践して大量の自殺者を出すのですが、それが罰せられることはありませんでした(○。○)…そりゃ日本負けるわ…
あと、「今田参謀長の盟友」ってそれはないわー たまたま満州事変で一緒だっただけですよ
なお、この後更に後日ゲストとしてあの石井四郎軍医少将がやってきて講演したことも書かれている(○。○)
今田参謀長は剣道の達人で、着任して間もなく構内に道場を設け、剣道、銃剣術を奨励した。
p.91
柔道の達人だった将校が「勝手が違う(T∀T)」とぼやきつつ剣道稽古してたらしい(苦笑)趣味の押しつけよくないヾ(^^;)もっとも今田のお友達に柔道の怪物・牛島辰熊がいたから、申し出たら柔道もOKだったような気がするのですが。その代わりたまに牛島の恐怖の稽古が(^^;)
参謀部石山栄蔵中尉から、総軍参謀津野田知重少佐(元当師団参謀)の言葉を聞いたのもこの頃であった。即ち「師団の行く先はニューギニアだ。お前達はしゃれ頭だぞ」と。
p.92
・「この頃」:昭和18年11月頃
なお、『雪第三十六師団戦誌』所収史料によると、津野田は後方参謀だったとのこと。何で後方担当なのに前面に押し出てるのじゃ?!ヾ(^^;)
食事に関連しての思い出には、岡本閣下の後任に来られた田上閣下の豊富で洒落な話題、今田参謀長の難しい漢籍の講義、津野田参謀が悠々とお代わりしておられたことなどがあった。
p.94
<ちょいと補足>
・食事:師団のお食事は、将校は将校専用の食堂に集まり、師団長、参謀長を中心としてコの字型に並んだ食卓で行われたという
・岡本閣下:岡本保之中将 病気(盲腸炎)になったために急遽田上八郎に師団長が替わる 終戦時には第10師団長としてルソン島にいた。貧乏くじから逃れられたかどうかは微妙なところ
今田、食事中に難しい話題はどうかと思うぞ もっとも漢籍以外の話題をしろとかいったら、いきなりカントとか出してきそうだ(爆)それにしても津野田は期待を裏切りませんねこの辺は父親の是重譲りなのかも
なおこの文を書いた人は軍医として従軍しており、この前任地での調査結果を基に論文を書こうとしたところ、今田の激励を受けて、最終的には「細菌学雑誌」に掲載されたらしい。
(前略)今田参謀長は都度都度病馬廠を訪ねられ、関心を示して装蹄場に立っていたことが思い出される。(中略)当時、師団各部隊に配置されている軍馬は編成時登用された軍馬であり、老齢に近い馬でその能力(馬力)も逐年下降の状態にあり、しかも日本本土からの補充のない現況にあったので、(中略)今田参謀長の特別な計らいと噂に聞こえていたが、17年秋に中間種ノルマン種牡馬2頭が輸送されてくる一方、各部隊から繁殖能力のある日本種牝馬が50余装それに各部隊保有の支那子馬が続々と収容され、厩舎増築、逍遥運動場、追い込み馬場の設置など、病馬廠は本来の業務の他に軍馬生産、育成所兼補充馬廠的役割を担うことになる。
p.186
ただし、この計画も昭和18年の突然のニューギニア転進命令によって水の泡に…その後馬がどうなったかは不明らしい(´・ω・`)
カサイホテルの歓迎会は、総軍の津野田参謀の招宴で催されたとのことであり、また歓送でもあったよし、その時津野田参謀は、池田軍医に対して「その節は」と固く握手されたという。偉い人は違うな、短い言葉の中にも莫大な意味を込めてとたびたび感嘆していた。
p.207
・カサイホテルの歓迎会:第36師団がニューギニアに向かうのに伴う上海での歓送迎会。
・総軍の津野田参謀:説明の要も無いかも知れないが、あの津野田知重である
なお、この前後に津野田は浅原健三主催の今田歓送パーティーに参加し、いろいろやらかしたのは先述の通り
師団司令部も兵器部、軍医部、経理部、獣医部の各部は参謀長が統括することになり、そのために大幅な人事が行われた(中略)当然軍医部は、高級部員の岡部少佐が統括し、部長職務を統括する今田参謀長に報告命令受領するはずであったが、異常が起きた。参謀長に拒否されたのであり、その任は次級部員の池田軍医大尉が代行し変わることはなかった。
p.207~p.208
珍しい今田のトラブル話。このエピソードを書いた人の推測では「(岡部少佐は)同級生や先輩や後輩に朝鮮の人が多く、たびたび訪ねてきたり、過剰とも思える民間人への治療などを施すのを参謀長は苦々しく思っていたので、そのような仕儀になったと思われる」
また今田参謀長を歓送するため内地から大物著名人達が上海まで来ていることも度々耳にした。
p.208
今のところ知られているのは浅原健三邸で行われた牛島辰熊と津野田知重のパーティーぐらいですかね 他にも誰かと「最期の宴会」したのかしら?
正月を過ぎてホーランジャに向かうべくパラオ島に上陸して待機していた松山部隊に対して、熱い思いで見守っていた師団幕僚達が、大本営の松山部隊サルミ追送の報に手放しで大喜びしたことは申すまでもない。師団長、参謀長が全身で喜びを表していたことは今でも瞼に残る。
p.209
<役に立たない補足>
今田のいる第36師団は主に
・歩222連隊(連隊長葛目直幸)
・歩223連隊(連隊長吉野直靖)
・歩224連隊(連隊長松山宗右衛門)
から成り立っていたが、このニューギニアの移転に於いて歩222連隊を上位の第2軍配下として取られてしまい、この上歩224連隊まで予定通り取られてしまうとかなり戦力ダウンになってしまうので、この予定変更を喜んだのは当然と言えば当然 でもこの後松山連隊はかなり酷使されてしまいますが…
なお、歩222連隊はこの後「北のアッツ南のビアク」と言われる大玉砕を遂げることになる。歩224連隊配属予定地のホーランジャもこの後悲惨な結果になることからみて、この予定変更はマシ…だったのか?
かくして昭和21年6月サルミを去る頃まで軍規を維持して自活を続けたが、当時内地帰還の見通しも立たず、食料も十分とは申せず、漸く人心が荒廃の傾向にあるのを懸念された今田参謀長が何か文芸的の試みでもしてみては如何と吉野連隊長を介して私にお話しがあった。参謀長にお会いして自由にやって見ろとのお言葉があったので各部隊から詠草を集めて整理し師団司令部で印刷配布して帰還近くまで続け、司令部の佐藤一夫氏が苦心して保管して帰国された。
p.213
この歌集の一部は『ニューギニア最後の死闘』(冨永太一著)に採録されている。けっこう今田の作った和歌も多かったような。
なお、このような文献の類は内容は問わず復員の際に没収されることが多かったようです…
通信連絡については、終戦後連合軍より無線封鎖を命ぜられるまで確保してきたが、ある時第2軍軍通信所より雪部隊宛電報の転電依頼あり、聞けば今田参謀長の軍参謀長への発令電報が、地上通信系途絶のため送信できないとのこと、同参謀長は山西省ロ安で面識あり是非伝達できるよう努力する旨約し引き受けたが、幸いにもこれホーランジャ航空通信所との連絡が取れ、雪部隊への伝達方引き受けてくれたので電報を送信し、受信通知を得てホットした次第であった。その後1ヶ月くらい経って既に赴任されたものと思っていたところ、先の通信経路を辿って、命令正に受領したが、赴任の方法無く、目処たたぬため発令の取り消し方要請があり、結局軍参謀長は実現しなかった(後略)
p.222
この今田の昇格人事に関しては、いろいろ思うところがある。いずれ書くかも。
ニューギニアの戦は、敵の飛行機ばかりで日本軍の飛行機は一機も来たらず、敵の爆撃は昼夜の別無かった。敵の爆撃が頭上より離れず、なすがままで、家も木も土も皆飛び散り、大穴を穿ち、爆撃の過ぎ去った後はただ呆然と失神したように眺めて居るのみだった。夜も観測機が空から離れず、すぐ艦砲射撃が来た。それは見えざる遠い海からである。見えざる敵の攻撃はいつ見え、上陸してくるか分からないから恐ろしい。
ジャングルではじめじめした土地や空気で不快きわまりない。キャハン靴も取らずそのままに眠っていると夜中に足腰むづかゆくなってくる。気が付きローソクをともしてみれば、蛭が血を吸って大きくなっている。実に気持ちの悪い物である。川には「ワニ」がいるし、川等にも気をつけねばならない。
マラリアで熱を出しても誰も冷やしてはくれない。自分一人で冷やす。水を含めばたちまち下痢をする。頭が割れるほど痛い。気が狂っていく兵を見るのは惨めな物だった。(中略)蝮はよく捕らえて生で食したが、何よりのご馳走であった。野草も食える物は皆食べ、野草を取るのにも空襲の間を見て取りに行かねばならない。
後方部隊も、戦闘部隊も次々とマラリアに冒されていった。その後の補給輸送も来なくなり、そのうちにジャングルを切り開き、開墾をし始めた。サツマイモを植え、野草を植え、自活をしながら空襲や艦砲射撃を受けた。昼も夜も、観測機が飛んできて戦死する者や病気で死ぬ者で兵達は日々少なくなっていった。
毎日ジャングルの中で、太陽を見ることもなくじめじめと小暗く「モグラ」の如き生活であった。兵の顔も青黒く、肌は青く、これが若者なのかと思った。木の実を食えば中毒を起こし、水を飲めば下痢をし、体力は衰え行くばかりであった。
転進部隊が次々と来たり、そこここに倒れ、食もなく身心耐え尽きて死んでゆく。屍も野ざらしのままで臭気を漂わせ腐れて白骨となり現世とは思えぬ有様であった。
p.269
食糧不足の話は、この後も山のように出てくる 同じような記述が山のように出てくるので引用を省略するくらい山のように出てくる…
(前略)持久を策するため部隊を分散配置する必要に迫られ、軍司令部と作業隊の大部を南岸に近いイドレに移動することになった。(中略)イドレ移動開始をしたのが同年9月中頃であった。
出発時の計画では図上距離が大隊10日行程であると計り、まあ2週間もあればイドレにつくという計画で軍としては10日分の米と若干の塩それに私物を担いで出発させた。武装はむろんである。しかし使用地図はオランダ時代の古い地図で、その実線路をまっすぐ南下すればイドレに行けるようになっているのだが、ムミまでは海岸道が主で楽についた。しかし、ムミを出てからは2日歩いたところで早くも図上の路が無くなり、ほとんど人跡未踏のジャングル地帯に入り込み磁石を便りに南進を試みたが、(中略)地図と現地は全く一致せず、いつ目的地に着くか見通しもつかぬようになってしまった。
その中に食料もなくなって極力食い延ばしをしたのであるが、一日に5,6粒の米を入れた湯を飲み、道ばたの草、トカゲ、蛇等まで食った。しかし、難儀は食物だけではない。塩ばかりで何日も過ごしたため脚気にかかり、ある者はマラリア、ひどい皮膚病、もちろん栄養失調で動けなくなり、(中略)斯くして今や全将兵が自力の及ばぬ生と死の際に直面し、中には他人に迷惑をかけまじと手榴弾をくわえて自決した病兵もいた。(中略)
かくして脚気のために立たなくなった足を引きずりながらマングローブの根の上を這い回りつつ遂にヤカチという大きな川にぶつかった。ここからはこの川を下る以外に前進しようがない。ある者は筏を作り川にこぎ出してワニに襲われて哀れ川に飲まれてしまった人もある。私ももう一切を諦めて崩れ残る民家の人住みに座り込み、幸いに持っていた通信紙に手記を書きつつすべてを運命に任せた。そして藤原兵長と川の流れを見つめていたが、突然兵長が「松尾少佐と呼ぶ声がする」と言う。「なあにそれは気のせいだよ」と言って寂しく笑ったが、しばらくして「また聞こえます」というので川岸まで這い出してゆくと私の耳にも確かに聞こえた。(中略)私たちを休出するためイドレからヤカチ川をカヌーでさかのぼり2日がかりで来てくれたのである。全く夢のようで地獄に仏とはこのことである。数日間は夢のようで実感が出なかった。そして私ども3人がようやくカヌーに乗って岸を離れるのを見て岸から「後の救援を頼みますよー」とさけぶ声に「必ず来るから頑張れよ」と言って後ろ髪を引かれる思いで別れたのである。しかしその後極力カヌーを探し、2,3日後いったときは全員岸辺に斃れていたのである。痛恨きわまりない思いである。かくして出発以来約2ヶ月の苦闘の行進は終わった。
p.286~287
この手記を書いた人は第36師団じゃなくてその上位の第2軍所属の人。先述の「転進部隊」の一人。ちなみにこの転進を命じたのが因縁の稲田正純さんでしてな…たこなぐりしたい気持ちを分かってくれ
夜が明けて以前として兵員を渡河揚陸してるとき、対岸の草むらに異様な服装の日本兵らしい者数名が座り込んでるのを発見し尋ねたら、彼らは海軍の陸戦隊で、「ホーランジャ」より転進した友軍ではないか。奥地から一人二人と来るのが見える。(中略)
まるで幽霊のようだ。片足はだしの者もいた。髪がぼうぼう目はへこんでギラギラしており、身体には切れた衣服以外は何も付けていない。持ってる者は抜き身の軍刀、ある者は拳銃や銃剣で鞘やケースはもってない。階級章のついているものない者、雨合羽の上から雑嚢を無造作に肩にかけて木の枝を杖代わりにかろうじて歩ける者、その姿は何とも言いようのない様だ。正しく敗残兵である。(中略)
喘ぎあえぎ語る彼らの話によると、4月23日アメリカ軍の上陸作戦を受けたホーランジャは、戦闘部隊が皆無に等しく、敵の上陸を阻止できず、駐屯する約一万余名は指揮系統がバラバラで右往左往し、なすすべもなく手当たり次第持てるだけの食料(乾パン、缶詰類)を持って戦場を離脱し、転進を開始したのであり、我々のサルミ地区を目指して三々五々迂回路を求めながら進んできたこと。見通しのよい海岸近くでは敵の目に留まること必定で、空からの攻撃と艦砲射撃を間断なく浴び、また小火艇が海岸線ギリギリまで接近してきて機銃や機関砲の掃射を浴びせてくるので、夜間は別として昼間は海岸を避け、密林内を迂回して湿地や川を渡り、木の根を踏みしめ、昼夜を問わぬ蚊と蛭の襲来と戦いながら、約200km近い道を30日近く費やしてようやくこの渡河点についたこと。一日平均6~7km、軽装で元気なときでも容易でないジャングル内の強行軍で、極度の疲労から身体の自由まで効かなくなり、身につけてる荷物はみんな放り出して身軽になり、唯々前に歩くことだけを念頭に先を急いだことなどを断片的に語るのであった。
それからは空腹を満たすのに椰子の実を拾ってはコブラを食べ、手当たり次第、草であれ木の実何でも口に入る物は食った。次第に体力が消耗して道の傍で座ってる者、倒れて既に息絶えてる者、これらに目もくれず唯々サルミへと急いだのだそうだ。初めの集団もいつの間にか一人二人と脱落して渡河点近くに来たときには知らない顔が多くなり、途中、白昼道ばたで手榴弾で自決する者や、拳銃で頭を打って既に死亡してる悲惨な状況を目の辺りにし、自分の命も今日か明日かと思いながら歩いてきたとのことであった。悲惨な話はそれだけでなかった。道端の叢には、臀部や内股など明らかに誰かが刃物でえぐり取った跡のある死体が雨合羽や椰子の葉などで覆われてあるのを見てからは、自分たちもいつ仲間に襲われるか知れないという恐怖感と疑心暗鬼で恐々として眠ることも出来ず、軍刀や銃剣、拳銃を抜き身で肌身離さずに護身の唯一の手段としたが、ここまで来ればそれももう必要ないと放り出して皆一様に眠りについたようだ。
(中略)
作戦山を出発した頃は雨期なのか毎日のような雨降りであった。ジャングル内はホーランジャ転進部隊が転進した跡で、足跡が見えないが小枝が切り開かれた空間がありそれと直ぐ判った。
退路の周辺にも敵の斥候が出没しているらしく至近距離での激しい自動小銃音や手榴弾の爆発音が聞こえてくる。行軍の列は途絶えがちで無言である。ずぶ濡れだ。先を行く者、後に続く者皆見覚えのある顔ではない。各部隊各兵科入り乱れての転進行なのだ。勿論ホーランジャ部隊の生き残りも多数混じってることは想像できる。傍らの水の濁った泥道に仰向けに倒れている兵がいた。精根尽き果てて座るよりも先に進もうとするから、ぬかるみに足を取られ倒れたのだろう。雨に濡れた眼鏡の下からかっと見開いた眼差しから、今の今まで歩いていたように思われた。救いの手を伸べたいがその気力を持ち合わせる我々でもないのだ。南無阿弥陀仏と掌を合わせて先を急ぐのだ。途中野営を続けながら光が丘を目指したのだが路傍に座ってる者、屹立者、横になってる者、激しい砲爆撃の戦場から離れた安心感からか、その数は次第に多くなってきた。勿論ホーランジャからの転進撤退兵が大部分のようだ。約300kmに渡る彼らの辿ったこの街道はいまだに遺骨収集されることも無く草むす屍となっており、永久にこの道は探し当てることも出来ないであろう。(中略)
私はこの道を白骨街道と呼称している。(後略)
p.386~389
先に引き続きホーランジャ転進のエピソードより。
その後は現地自活で生きながらえ、21年2月頃中隊主力と別れて、ホーランジャの復旧作業員として元気な者が中隊より5名分遣され、明け暮れ米蘭軍の使役で重労働の生活。監視はインドネシア兵とパプア兵で、少しも怠けて入られぬ有様。使役もいろいろで草むしりから、開墾して畑作りまで、道路作業に病院建設、陣地改築、米・蘭軍の将校・下士官の当番、食堂勤務など、勝手に腰を下ろして作業したり、悪いところが見つかればインドネシア兵のびた金と称して下士官の監視兵が来て、小銃の底尾板で殴る蹴るの半殺しにあった者も数少なくない。運が悪かった者はどこまでも重労働ばかり。部隊から上がってくる食事は澱粉団子10粒くらいに馬糧になる豆の煮たもの20粒くらいが1食、たまにパンに雑炊少々、米軍の使役となると志願していく。重労働だけど昼食は米軍から出してくれて腹一杯食えるからだ。少しでたらめしても、敵だったからと、そういじめもしない。むしろ力のない我々を見て笑っているくらい。それに比べてインドネシアの監視者は特に意地が悪く、方々でイジメを耳にした。
p.447
戦病死者はすべて埋葬に付した(火葬するにも薪が無く、またあっても、敵の偵察が厳しいため、煙を上げることが出来なかった)。
p.461
中隊に帰る途中木馬道と中隊の宿舎の中間に兵補(高砂族)の宿舎がありその墓がすぐ横にある。通路になっている上、闇の中を歩くのでつい墓の中を通る。死没者が増え墓地も広がっている。気をつけて歩いても靴の下でポキポキ骨の折れる音がする。「南無阿弥陀仏」と念じ許して貰う。密林では道を外して踏み迷うと必ず命取りとなる。やむを得ずとは申しながら気の毒なことをしたものである。
p.471
昭和20年12月6日、移動労務団(俘虜)としてサルミ出航、(中略)10日も経つとお互いになれて手真似で会話をする。パンや煙草を与える人も出て来て仲良くなってきた。日本内地の状況をと親切に画報を見せてくれる人もあり、日本内地各都市の空爆の被害の大きさに驚くと共にドイツやイタリアでの戦犯の処刑状況、戦争責任者に対する一般民衆の怒りや私刑の模様などその惨状に目を覆ったものである。(中略)オランダ人、インドネシア人、原住民のパプア人などとの接する機会も多くなってきた。「日本は焼け野原となって何もない。好い娘を世話するから結婚して残れ」とか、「インドネシアの独立のため銃を取り、オランダ軍を追い出すため働いて欲しい」など彼らと親しくなるに連れよく言われた物であるが、一度日本軍の捕虜となって酷使された経験のあるオランダ軍将校、下士官は、なかなか本心を見せず、我々の扱いも荒かったように思えた。
p.479
この頃、戦争犯罪者が次々とホーランジャに送られ、裁判の結果処刑されていた。オランダ軍の若い兵士が処刑された日本軍下士官の肩章を持ち帰り、殺すのを初めて見たと興奮していたこともあった。
p.480
「この頃」:昭和21年春頃か
明日名古屋港に入港するという前夜に、階級章を取れと言う指示があった。それまで軍の規律を維持する目的のためか、階級制度は生きていた。階級章を取れば大佐も二等兵も同じ人と言うことであろうか。意外なことが起こった。戦地に於いて、上官にいじめられた兵隊が徒党を組んで一部の将校に対して仕返しが始まり乱暴が行われた。その将校はそれほど悪人であったとは私には思えないが、残念な事であった。
P.523
「明日名古屋港に」:第36師団は昭和21年6月にサルミに残された本隊は名古屋港へ、ホーランジャの連合軍に労務派遣された者は和歌山県田辺港に復員した
この手の話も散見される。
ある日インドネシアの下士官が私の階級章を見ると息巻いて、大声で「曹長!」と怒鳴り「曹長、私にビンタ沢山、私曹長にビンタ、サービス」とわめきながら、私の頬にビンタの嵐を浴びせる。下手に反抗して日本に帰還できなくなったら大変だと思って我慢をする。彼が曽て捕虜になったとき、曹長にうんとビンタを食った恨みが曹長の階級章を見たとたん爆発したのだろう。
p.554

かなり長くなった+重くなったので、残りのニューギニアでの今田話は別項にて。
しかしこれも重いけど…。


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