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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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今まで調べてきて、一つ確実に言えること。
今田の友人は強烈な人が多い。ヾ(^^;)
今田が強烈だからそういう人しか友人になれないのか、強烈な友人に囲まれるから今田も強烈になっていったのか…
何となく前者のような気がするなあ…ヾ(--;)

…と言うどうでもいい論争はこれくらいにして_(。_゜)/
高嶋辰彦に続く強烈な同窓生・桜井徳太郎の紹介です。
-実はいずれ書くかと思うのですが、晩年の今田を見舞いに行った数少ない同窓生が高嶋と桜井らしいのですよ
幼年学校から陸大までオール首席卒業だった怪物・高嶋に評伝(コラムでしたが)があるのはともかく、桜井みたいなマイナーなのに


検索したらあった(○。○)
『軍人たちの昭和史』(森松俊夫著 図書出版社)に取り上げられていました 
タイトルは「無双の戦上手 桜井徳太郎」

ではまいる。



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「桜井の徳さん」こと陸軍少将桜井徳太郎は、陸士同期生中、先頭グループで陸軍大学校に入学した優秀な頭脳を持っていた。だが、決して秀才タイプではなかった。
「猛獣」とあだ名された彼は、満州事変、支那事変、大東亜戦争と第一線で武功を重ねた、昭和陸軍きっての猛将・豪傑であった。彼は天真爛漫、九州男児の典型だった。短躯、筋骨質で、機械体操の名人でもあった。かつて戸山学校の戦術教官をしていたとき、体操は専門の教官に引けを取らず、非常に勇敢で、営内靴のまま梁木(高さ4m)の上から飛び降りたり、常識離れの冒険をするので、「不死身」とさえ評されていたものである。
p.246
しょっぱなからこれである。あだ名が「猛獣」である。ちなみに今田のあだ名が「黒豹」だったのは散々既出。高嶋は…なんだっけなヾ(--;)にしても、4mの高さから平然と飛び降りたりとかしてたら猛獣と言われるのももっとも。てゆーか、おかしいだろ身体のつくり。
ところで、「戸山学校の戦術教官」という経歴を見て気になった。いくら陸軍内とはいえ、こんな猛獣で学校の先生がつとまったのだろうか?ちなみに今田は学校関連に籍を置いたことは一度もない。
このコラムから桜井の経歴を復元してみる。
明治30年6月 福岡市春吉生まれ(父は小学校の校長)
大正7年 陸軍士官学校卒業(30期)
大正14年12月 陸軍大学校卒業
昭和2年 陸軍戸山学校教官 2.26事件に連坐した野中大尉が教え子の一人
昭和4~5年 中国北京陸軍大学校招聘教官
昭和6年9月 第10師団参謀
昭和6年12月 混成第8旅団参謀 ※混成第8旅団は10師団で編成されている
昭和7年4月 第10師団参謀に復帰
昭和9年1月 福岡歩兵第24連隊大隊長
昭和10年4月 陸軍歩兵学校教官
昭和11年4月 中国第29軍軍事顧問
昭和12年9月 第1軍情報参謀
昭和13年4月 陸軍大学校兵学教官
昭和15年10月 第34師団参謀長
昭和16年3月 憲兵学校兼軍医学校教官
昭和17年7月 歩兵第65連隊長(第13師団配下)
昭和18年8月 陸軍少将昇進、第55師団歩兵団長
昭和20年2月 ビルマ国軍軍事顧問
昭和20年5月 第212師団師団長

猛獣の割には意外にも教育畑出身だった。猛獣の癖に猛獣使いだったというか、猛獣故に生徒へのにらみがきくと思われたのかヾ(--;)
父が教育関係に従事していたというのも原因しているのでしょうか。

ちなみに昭和6年に第10師団の参謀になっていますが、この時第10師団は満州事変のために出動しています。満州で今田と遭遇することはあったのかな?

性格については
「明朗闊達、竹を割ったような、福岡特有の豪傑肌の人、不羈奔放に見えるが、実は、己の欲するところに従って、しかも軌は越えない、天性の徳を備えていたように思われる。
背は高くなかったが、骨太で肩幅が広く、筋肉が引き締まって、打ち固めたような端正な体格であった。
極めて大胆で、決断力に富み、瞬時の好機を逃さず、思い切った行動に出て、難問題を一挙に打開する特有の能力があった」(井本熊男氏の評)
p.247
を、実は出来る男なのか?…と思いきや
「若いときから珍談、綺談の多い人だった。にぎやかなことが好きで、ユーモラスだった。頭の頂上が平板な形になっているので、宴会になると、頭の上にとっくりを立てて、"佐渡おけさ"を歌いながら踊るのが得意だった。
裸になり、鼻や口やへその穴、それに指や両脇に、火の付いて煙草をはさんだり、くわえたりして踊る稚気満々の人でもあった。」(友人・山下鉄人氏の人物評)
p.247
…宴会部長だったのか_| ̄|○

しかしそんな宴会部長にも人生最初の見せ場が訪れる。

昭和11年2月26日。あの2.26事件が発生、桜井は校長の命令で東京の様子を見に行く…が、陸軍省に行ってビックリ 桜井に現況をまともに説明できる者が誰もいなかった。では、と桜井
「では、事件の当該者に直接話聞きに行った方が良さそうですな ちょっくら行ってきます」
「こらまて」
と周囲が止めようとしている間に、桜井は将校達が立てこもる首相官邸に到着。猛獣桜井も遂に終わりか?…しかし意外にも桜井は将校達に「教官殿が来たぞ~」と大歓迎されてしまう。先述の経歴でわかるようにかつて戸山学校の教官をしていたので、その時の教え子が多かったのですな。誰の言うことも聞かない若手将校も桜井とは話をした。そして無事生還して将校達の様子を報告したのに対し、戒厳司令官になっていた香椎浩平は大変感激したらしい。翌日
「今日からこれつけて仕事するように」
「?」
そこにあったのは将校憧れの金モール…じゃない参謀頸飾。桜井はいきなり戒厳参謀になってしまったのである。これに桜井感激しないはずがない
「よおーし、仕事頑張っちゃうぞ-」
桜井再び、将校が占拠している首相官邸にやってきた。そして将校達に戒厳司令部の命を伝えた。
「下士官以下は原隊に還しなさい
そして貴様等は自らの主張の正しさをアピールするために自害しなされ
この内容に当然将校達_| ̄|○
「こんなの受けられねーよ」
でも桜井をぼこることなく無傷で帰した。
そのうち、命令をちっとも聞かない将校達にしびれをきらした戒厳司令部は、遂に将校の上司である原田熊吉連隊長(当時)に戦車隊で突入することを命じた。それを見た桜井ビックリ
「いかん将校達の最期の見せ場が無くなってしまう決起部隊とは言え、連中は一応陸軍の仲間、討伐ではなく救ってやらねばならぬ」ヾ(^^;)
持ち前のでかい声で戦車隊を止めた。※戦車のキャタピラー音がかき消される位のでかい声です。
その後、桜井は将校達が立てこもっている場所を一つずつ回って,上記の命令を説明していった。所によっては将校の部下達に包囲されて殺されかけたこともあったが、説得したり、他の将校に助けられたりして、自らは一度も武器を使わず行動していった。
-その結果、反乱軍の大規模な軍事活動は避けられ、下士官以下は原隊に復帰できた物の、将校達の中で桜井の教唆どおり自害した者は野中四郎大尉と安藤輝三大尉(※失敗し救命される)だけだった。残りの将校達は当初は自害覚悟で!…といっていた物の、最後の方になると「やっぱり法廷闘争」と変わっていってしまったのである。彼らが満足に法廷闘争させてもらえず処刑されたのは皆様ご存じの通りである。
「…」
事件終結後、桜井は歩兵学校へと帰っていった。

宴会部長ヾ(^^;)の次の舞台は、昭和12年7月-そう、あの蘆構橋事件である。
7月7日夜10時40分頃、宛平県で夜間演習中の日本軍(支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊)が突然発砲を受けた。そこは中国国民党・第37師の部隊の陣地の近くであり、彼らの仕業に違いないとされたのである。紛争解決屋として赴任していた桜井の出番がやってきた。桜井は第29軍副軍長兼北京市長の秦徳純と事件の前後措置を協議した。ところがそこで秦から出たのは意外な一言
「自分の部下は絶対発砲してません」
そこで桜井は秦と協議してこういう事を取り決めた
・問題の37師の部隊は宛平県城には駐屯してるが城外には一兵も配備してない。なので城外にいる者は日本軍がどう料理してもらっても結構
・宛兵県城から日本軍へは射撃しないから、日本軍からも宛平県城には射撃しないこと
桜井は上記の協定が守られているかどうか監視・指導するために早速宛平県城に向かった。まず日本側(第一連隊第三大隊)の大隊長・一木清直少佐に会うと
「丁度良いところに桜井少佐、これから宛平県城を攻撃して、それから交渉しようかと思ってたんです」
「ちょおおおおおおおおおおおおおおおお」
大慌てで一木大隊長を止め、返す足で宛平県城に入城・中国軍が日本軍に発砲しないよう命令した。
「これでなんとか収まりそうだ」
…が、桜井がいるのだからこれで終わるわけがない(ヲイ)翌朝午前5時半頃、桜井はすさまじい銃の乱射音に飛び出した。宛平県城の営長(大隊長)が
「…実は、私の部下一中隊が城外の竜王廟の堤防にいる」
といまさらな打ち明け話をするので桜井仰天
「をい、話が違うだろ」
桜井はベッドのシーツと営長の手を引っ張った
「このシーツを振って白旗代わりにして、両軍の射撃を止めさせよう!」
既に頭に血が上っている中国兵を止めるのは至難の業だったが、営長の協力もあり7月11日の夕方になんとか停戦協定まで漕ぎついた。
…が、7月25日には北京-天津間の電線が中国兵によって切断されたことをきっかけにまた戦闘が再開された。26日、支那駐屯軍司令官は第29軍軍長に最後通牒を出した。これと同時に北京市内の居留民保護のために支那駐屯歩兵第二連隊第二大隊を広安門から入城させることとなった。桜井はこの大隊の出迎えのために広安門にいた。ここを守っているのは日頃から顔見知りの一個中隊と増援の一個中隊。楽勝な仕事…のはずだった-しかし。
午後7時頃、いざ入城となると、中国側から発砲が始まり桜井ビックリ。そこら辺の機関銃を蹴っ飛ばしながら制止しようとするも、結局第二大隊はトラック十二台までしか通過できず。当然怒った桜井は第29軍長に猛抗議し、再び広安門にとって返して「以後は絶対撃ってはならない!」と厳命した。
…が、今度は日本側が既に頭に血が上っていた。夜8時頃には城の内外から日本軍による発砲が始まり、中国側も応戦、そのうちけが人が出始めると「顧問を殺せ」と言う声がわき上がってきた。よってたかってきた中国兵は得意の格闘でやっつけたものの、機関銃を向けられてはどうしようもない。同行した通訳も殺され、更に自分の左足まで打ち抜かれてしまった。
「こうなりゃここから逃げるしかないな」
…って中国兵であふれかえっている高い城壁の上から逃げるっていっても…まさか…そう、その「まさか」城壁上から数m下の中庭に飛び降りたのある。さすがは皆様のご期待に応えてくれるわれらの宴会部長ヾ(^^;)しかし、今度はここで右足をついて捻挫骨折した。が、桜井は思った
「この高さじゃ上から手榴弾にやられるな」
桜井は更に下に向かって飛び降りたのである(○。○)。普通の人間なら手榴弾より飛び降りて激突死するほうがこわい…と思うが、そういうことにちっとも思い当たらないのが桜井であるヾ(--;)しかも2回目の飛び降りでは電線に引っかかり、肩から落下してしまったのである。が、何と感電死しなかった。さすが(をい)。その後襲われることを覚悟した桜井は物置小屋に隠れて棒や煉瓦で格闘する準備をしていたらしい(両足やられていて格闘も何もあったものではないと思うが…)。27日午前3時頃、日本の特務機関が第29軍の参謀・周恩靖と一時的に調整し、桜井は物置から助け出されたのであった。

これだけやったら桜井も満足だろうと思ったら大間違い。
桜井がやりたい放題やれる部署に配属される日が来た。
昭和17年7月、華中第11軍隷下第13師団歩兵第65連隊長となる。この「連隊長」と言うポジション、あの今村均曰く「将兵には直に接しられるし、役職としては割と上位なので自分の言うことは通りやすいし、軍人なれば一度はやりたい役」だそうです。これやりたくないって逃げてたの鈴木貞一ぐらいかとヾ(--;)
…話が脱線した。桜井が配属された連隊は、会津地方出身者で構成され、そこから通称"白虎部隊"と呼ばれている強兵だったらしい。そして、この頃は中国の揚子江北部にある宜昌・当陽地区を分散して警備していた。
この部隊に着任する日、桜井は多分いろいろなプレイを考えていたと思う…いやもしかして考えて無くて単に素を出しただけかも知れないが…
着任の日、中国人を従えてやってきた大佐がいた。みんなは当然、新任の「桜井大佐」を緊張して出迎えた…が、それを見ていたお付きの中国人が大爆笑
「おれおれ、俺が桜井だ(・∀・)もし大佐の服を着ていたのが中国の間諜だったらこの時点でこの連隊全滅だなあ…と言う事で今後は俺の顔をしっかり覚えてくれよ」
一同唖然
そして、桜井着任直後に軍旗祭があったが、その時に桜井は
「ちょっくら各中隊を訪問してくる」
と出かけた…本部に帰ってきたときにはふんどし一本になっていた⊂(。Д。⊂⌒`つ 中隊であびるほどの酒の歓待を受け、そのたびに服を脱いでいったのでこういうアラレもない姿になったらしい…
※なお、その後本部の連隊長室に入って「連隊長戦死!」と叫び大の字になってのびたとのこと( ゚д゚) ポカーン
あ、列挙するのが面倒なのでヾ(--;)ここには挙げませんが、ちゃんと戦闘の方もやってますよ!…やっぱりふんどし一本で泳いだりとかしているようなんで「真面目に」とは言い難いようですが…ヾ(^^;)なお、桜井の作戦の特徴は「敵の指揮中枢を急襲して混乱させ、次いで敵部隊を包囲殲滅する」(p.258)だそうです。このタイプの戦法を成功させるには「事前の情報収集を周到綿密にし、欺騙陽動を行い、我が企図・行動の秘匿に努めていた」(p.258)ということで、単にふんどしプレイが好きなあんちゃんというわけでもないようでヾ(--;)

この次は、この戦闘能力を買われて陸軍少将に昇進した上、第55師団歩兵団長となります。…ここでの役割の評価は微妙なところで、あの花谷正配下でビルマ戦線を悲惨にさせた原因の一人と糾弾する意見もあります(『戦死―インパール牽制作戦 (文春文庫 (151‐3))』)

その後は転戦の末、終戦直前に本土第212師団の師団長となります。数字のでかいことで分かりますが、本土防衛用の急造師団です。桜井が選ばれたのは、今まで述べたような暴走ぶりがかわれたのもそうですが、なによりこの212師団の地元が桜井の地元だったから(^^;)
久留米で急造された師団を率いて宮崎県に着任した桜井は、主に宮崎県北部(延岡辺り)の防衛を担当し、陣地構築と訓練に精出します。
-しかし、昭和20年8月15日、終戦-
桜井の軍歴もここで終結を告げた…と言いたいのですが、この本には書いてないのだが、高嶋辰彦の追悼録(『雪松 高嶋辰彦さんの思い出』)によると、高嶋の所に「何で戦争終わるんだよ!!!」と苦情を言いに行ったという話が…ヾ(^^;)
※ちなみにこの桜井の申し出を高嶋は「もう詔勅は下ったんだよ!あきらめが悪いな!」と言って流したらしい

終戦後の桜井は、残務整理の後、部下200名ほどを率いて飛行場跡を開拓したり、戦没者の慰霊行脚をしたりしたそうです。昭和30年には南方研究所を設立し、東南アジアから日本へ来た留学生の世話人を務める一方、戦没者顕彰のため、護国神社の再建や墓所修復に努めた

あれ?桜井晩年の最大のイベントといえば三無事件じゃないんでしょうか。どうしてこんな肝心なことを省略するかな、森松さんヾ(^^;)

なお、このコラムには書いてありませんが、その後桜井は長命をまっとうし、昭和55年12月28日死去。生前の高嶋の話を聞くために桜井の元を訪れた人物によると、昭和53年頃にはまともにインタビューに答えてもらうのが難しい状態だったらしく、やや老人性のボケが入っていたのかとも思われます。
あと、甥の世話になっていたようなのだが…生涯独身を貫き通したのか、こんなのだから結婚したが逃げられたのかヾ(--;)…まあ、「ハシキン」(橋本欣五郎)という強烈な人も陸軍の先輩にはいますからね!(※3回結婚して3回とも逃げられたらしい?)


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無題
この記事どうやって調べたんですか?!櫻井は私のひいおじいさんです!
佐藤彩香 2014/01/22(Wed)02:12:36 編集
はじめまして
佐藤彩華様、初めまして。
櫻井徳太郎のひ孫でらっしゃいますか。この文の末尾は修正が必要になってきますね(汗)失礼致しました。

さてご質問の件ですが、この文は本文にもありますとおり
『軍人たちの昭和史』(森松俊夫著 図書出版社)
の一節「無双の戦上手 桜井徳太郎」を参照して書かせて頂いております。と言うか、櫻井徳太郎について書かれている伝記は私が調べた限りではこれくらいで、これの他には『敗者の教訓』(図書出版社)に不破博という方がコラムを2件ほど書かれています。不破氏のコラムについては拙ブログのこの記事 http://sheemandzu.blog.shinobi.jp/Entry/784/
で紹介させて頂いております。

また、ひいお祖父様の思い出などありましたらコメントで紹介して下さるといろいろと参考になります。それが今田新太郎がらみならなお嬉しいのですが。よろしくお願い申し上げます。

ばんない 2014/01/24(Fri)00:22:42 編集
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