読んですぐ分かるとおり、義久の母の三十三回忌に於いて詠まれた物です。なお、前書きでは広済和尚の追善漢詩があるはずなんですが、「薩藩旧記雑録」には収録されていません。雪窓妙安大姉三十三回、ことし八月十五日にあひあたり侍りしハ、年季も是を限なれハ一入かなしさ身にしミとをり、時しもあれ、秋やハ人のわかるへきと、いひ置しいひしへをも思ひやられて、いとゝ露けき秋也、追善に広済和尚詩をつくり、手向給ひし其韻字を取て、試に一首をつらね侍るものなり、
義久
月にちるはゝその秋ハ程もなく雪に向かハん窓の山風
「貴久公御夫人
天文十三年八月十五日御逝去
天正四年ニテ三十三回忌ニ当ル也」
(「薩藩旧記雑録」後編1-859)
義久の母・法名雪窓妙安大姉は、北薩の国人・入来院重聡の娘。島津貴久の後妻となり、義久、義弘、歳久を生みますが、若くして亡くなったようです。なお、一般的に三十三回忌を区切りとするため、とりわけ惜別の情を以てこの一首を詠んだようです。
…まあこんな和歌を詠んでいるから、マザコンなんて言われたりするわけですがヾ(^^;)
参考
義久とーちゃん・貴久への追悼歌 こちら こちらも
といっても例によって上の句しかない_(。_゜)/
ここでお馬鹿な疑問なのだが「荘内平治記」
一去程に、義久公十月廿五日鹿児島を立て給ひ、日州ニ向わせ玉ふ、日已に半途にして暮けれハ、霧島ニ旌旗を止め、終夜義久公敵軍退散の祈誓を申させ玉ひつゝ、一炊の夢の内ニ権現の御告有、
討敵は龍田の川の紅葉かな
と新ニ霊夢を蒙らせ玉い、逆徒の退散疑ナシと悦の法施を奉り、喜悦の眉を開、十一月朔日ニ都於郡を打通り佐土原ニ着せ給ふ、野ニも山ニモ軍兵充満して、夥しともいふ計なし、斯て太守公財辺ニ兵を進め、大友の陳を責へしと詮儀已に定りけれとも、折節大雨降続て空く日を送り給ふ、
(「薩藩旧記雑録」後編1-1054)
義久御自ら徹夜でお祈りしたわけではないよね?「申させ玉ひつゝ」っていうのは他人に命令してやらせているって事だよね?終夜義久公敵軍退散の祈誓を申させ玉ひつゝ
まさか自分でお祈りしてるとなると これ のイメージが頭について離れない訳なのだが。
義久の祖父・島津忠良の13回忌に際して詠まれた物です。「御文庫三番箱一巻中」
梅岳常潤かくれ給し事、きのふけふかとたとり侍しに、はや拾三廻に押移り、名残すくなく成行は、さま\/諫め給ひし道〃の事共思ひ出て、袖をうるほすはかりにこそ、悲しさのあまりに、梅岳の二字をつらね、霊前に手向侍者也、「\手向奉る者也ト御譜ニハ改メアリ」
義久
梅の花うへし岳へをこと問は
十に三とせの跡そ程無き
「御譜ニ天正八年ト朱カキ」
拾一月十日
「十三廻ハ天正八年ニ当れり、此ニ載置也」
(「薩藩旧記雑録」後編1-1183)
ちなみに、忠良は義久を溺愛していました。
日新
善も悪あくも善なりなせはなす
こゝおよ心はちよおそれよ
一不動愛染之衆生、愛顧之形容を能〃可有見執之事、
一聊尓之子細糺詰られは、各護身之符つゐには良薬たるへき事、
一閣〃候者、当日は憐慰之様にもいへとも、翌日ハ身を亡す禍根之程たるへき事、
一為国家には見をおします、あやまちをあらため、腹立なきにいかり忿度をこらへ、聖人のこと葉を恐れ、被任心底候者、則天道神慮も仏法も他所ニ有へからさるもの也、
一内には鰥寡孤独之あはれを密行し、上としてハ只臨別儀なきものか、仮初にも人をそこなひ、やふらしの持戒を逼塞候而、外には五常を匡、辻〃には禁籠張着をも下被構候、是まことの可為慈悲候、
右五ヶ條、諫言に似たりといへとも、眞平老耄之至と可有宥免候、
永禄四年十月吉日
義久
参
「義久公御譜中ニあり、糾合す」
(「薩藩旧記雑録」後編1-190)
「真幸の吉田天神」とはここのことだろうか。「真幸吉田天神社奉納」
陰天 宝前
詠十首和歌
修理大夫義久
立春
初春のけふは千里のほかまてもみななひくへきあさかすミかな
華
やとの春をよそになしつゝみよしのゝ花にいくかの日をおくりけむ
郭公
半天の月はいるともさとなれてかへさわすれよやまほとゝきす
萩
来る秋をしらまほしさにとひよれは萩のした葉そそよとこたふる
月
かけすめる月には夜半のなかきをもおほえすなかめあかしつるかな
雪
草も木もふりしく雪の明ほのはけふりやさとのしるへなるらむ
待恋
高砂の尾上ならねとこぬ人をまつこそ 「本ノマゝ」ひさしかりけれ
逢恋
つれなきをおもひ\/てすっこしもあふ「本ノマゝ」こそうらミわするれ
山松
足引のやまとなるより色かへぬ松のかしこきたねやまくらむ
神祇
まもるてふ八十氏人のすゑの世もわれ侍れるは神そしるらん
天正十年五月廿五日
(「薩藩旧記雑録」後編1-1275)
この時期にここで和歌を奉納した背景ですが、前後の史料を見てもちょっと分かりませんでした。