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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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天正16年に詠まれた、余りにも有名すぎる1首です。
実は前置きとか後書きとかがすごく長いのだが、これがまた重要なので、頑張って入力します_| ̄|○

『長谷場越前自記』
一かくて月日を経る程ニ、 関白様の上意ニハ、永在京之御事也、先ハ法印 竜伯を一人帰国有へき事、堅く被仰出之由、石田治部少輔前より被申理、然ハ御姫君様一人在京ハ誠ニわりなく被思召ける故ニ、御詠歌をつらね給ひて、細川兵部太輔入道様迄やるとて、
 二世とハ契ぬものを親と子の別れん袖の哀をも知れ
と云送セ給へは、返し、
 馴\/し身をバはなたし玉手箱ふたよと懸ぬ中ニハ有り共
との玉いて、流石都之人なれハ、深き情之理りを折節ニて、 関白様へ右之御歌を被捧ける間、御上覧まし\/て、尤武威之御気色も歌ニハ納受給ひて、無程御暇給ひて御同心被成宛、天正十六年戊子十月吉日ニ、大坂之川口を御出船ニて、日州の細島ニ御下着をわします折節、奉待て薩隅日之侍其外之僧衆以下ニ至る迄御供致て、喜悦申計也、夫より次第ニ鹿児島近くをわします、国中の諸大名の簾中衆ニ至るまて御迎ニ被参、御姫君様へ御祝言を被申上、然而鹿児島御光着ましませバ、近国遠国同心ニ御慶を被申入人〃の出入者、門前ニ市を成すことくなり、如此成立者、国家太平之御代ニ令守護玉ふ処也、
(「薩藩旧記雑録」後編2-540)

ちなみに「薩藩旧記雑録」によく引用されている『長谷場越前自記』の著者・長谷場宗純さんだが、実は意外なことに「本藩人物誌」には記載がない(○。○) こういう本が鹿児島大学に残っているので、慶長時代には生きていて、つまりこの事件があったときの同時代人であることは確実と思われる。あとこの人は子孫の一人かも知れない?…まあ私の力では全く手も足も出なかったので、誰か情報お待ちしてます(ヲイ)

肝心の本題だが、有名な話すぎるが改めて筋を言うと
「島津義久が娘・亀寿と共に上洛させられたが、豊臣秀吉は義久一人に帰国を命じた。娘一人を京都に残すのがつらかった義久はその心情を歌にして細川幽斎に送った。幽斎がその歌を秀吉に見せると、あ~らビックリ、秀吉がその歌に感動して亀寿も一緒に帰国できることになったのでした」
…という、こんなのありかよ!というできすぎたお話である。でもホントに事実なんだから仕方ない。秀吉ガード甘すぎるな。人質簡単に解放するとはね。もっとも、この後調子のってやり過ぎたと思ったのか何度も「亀寿よこせよ~」と命令してますが。
私的には「日州の細島ニ御下着をわします~国家太平之御代ニ令守護玉ふ処也、」という後半も興味深い。義久と亀寿が一緒に帰ってきたのを国中の侍や坊主、果ては有力武将の妻達(長谷場は大仰に「諸大名の簾中」と書いてますが)まで迎えにでて、最後には「御姫君様へ御祝言を被申上、(中略)、門前ニ市を成すことくなり」(亀寿様に御祝いを申し上げる人々で鹿児島城の門前は市場がある程の大混雑となった)とか、ともかく亀寿が帰国できたことが大変な大事件だったことは伺えます。つまり、亀寿というのがこの時点で既に非常に重要な人物であったのは確かなんでしょうね。

拍手[2回]


このやりとりに関して、こういうネタを見付けたのですが
この本では、細川幽斎の返歌について「“玉手箱”は島津亀寿の“亀”にかけている」とのよし。
つまり…
秀吉は「俺はこういう和歌の裏に込められた意味合いとかもちゃーんと理解できるいい男なんだぜい」というところを見せようとして…やっちゃった!ヾ(^^;)ということなんでしょうな…。
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長谷場越前
ばんないさん、お久しぶり
長谷場越前、『薩藩旧伝集』巻二に少し略歴載ってます。
もとの出典は『本藩中興臣行業録』のようです。

「長谷場越前守宗純入道、初兵部少輔」
没年は元和十年(1624)十月七日。享年78
逆算すると、生年は1547年(天文6)ですね。
島津家久と同い年です。
息子は長谷場十郎兵衛実純。

もう一人、越前宗純の祖父孝純の弟匡純の子、長谷場筑後守純辰は義久の右筆だったようす。その子が長谷場織部介で、退き口の生き残りですね。

なお、明治の長谷場純孝ですが、越前宗純の系統が串木野長谷場氏です。純孝も串木野出身なので、おそらく子孫でしょうね。
桐野 2012/07/07(Sat)19:56:10 編集
長谷場宗純
桐野様コメントありがとうございます。

「薩藩旧伝集」もってないので、全く分かりませんでした。情報感謝します。
しかし「本藩人物誌」も完全に戦国時代~江戸時代初期の人物を網羅しているわけではないようですね。

>没年
かなり長生きした人ですね。島津家の栄枯盛衰を見てきた人だと。
ところで「長谷場越前自記」は完全な形で残っているのでしょうか。「薩藩旧記雑録」に抜粋されている分が現存しているすべてなんでしょうか。もし完全版が残っているなら、読んでみたいですが…。

親族を見ていると、本人も含めて物書きで奉仕している印象があります。八木氏と同じような一族だったような。

ばんない 2012/07/07(Sat)22:54:28 編集
長谷場文書
ばんないさん

もうひとつ忘れておりました。
『旧記雑録拾遺 家わけ五』に「長谷場文書」が収録されています。
そこには越前守宗純のかなり詳しい系譜も載ってます。
「長谷場越前自記」ですが、私も旧記雑録後編などで断片的な収録しか見たことがありません。
ただ、上記文書の末尾に「長谷場氏略譜」というのがあり、そのなかに「長谷場越前日誌を著す、翰遊集ろ称ふるもの即是なり」とあります。
東大史料編纂所のデータベースを「翰遊集」で検索すると、「旧典類聚」のなかの一冊(上・下)としてヒットします。これが自記でしょうかね?
桐野 2012/07/08(Sun)14:46:52 編集
翰遊集
今晩は。お忙しい中重ね重ねのコメント、ありがとうございます。

>翰遊集
Googleで検索すると、鹿児島大学付属図書館に所蔵している本のことがヒットしました。内容については天文24~文禄4年の合戦集とありますので、可能性はありそうです。
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/collection/handle/123456789/44284
>「旧典類聚」
検索してみたら、一部(高城川の合戦)をUPしている方がいたのですが、この崩し字はちょっと読むのに難儀しそうです
http://www42.tok2.com/home/toyotane/mimikawanokassen.html

>家分け5
そういえば長谷場文書載っていたような記憶はありましたが、完全にスルーしてました(汗)手元にあるcopyを確認してましたが、長谷場文書の部分はスポッと落ちてました(苦笑)また機会があるときに取り寄せてみます。

いろいろ情報ありがとうございました。
ばんない 2012/07/08(Sun)23:51:47 編集
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