拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
今回の和歌は文禄2年閏9月23日に作られた物です。
今回の和歌は義久が多数残した挽歌の中でも最も悲痛な物にはいると思います。
なぜなら、跡継ぎとして末娘の亀寿の夫となっていた島津久保が朝鮮で客死した際に作られた物だからです。
久保はまだ21歳でした。
島津義久の後半生はとても厳しい物だったと思うのですが、久保が生き延びていたらそれはもうちょっと違った物になっていたと思うのです。
今回の和歌は義久が多数残した挽歌の中でも最も悲痛な物にはいると思います。
なぜなら、跡継ぎとして末娘の亀寿の夫となっていた島津久保が朝鮮で客死した際に作られた物だからです。
久保はまだ21歳でした。
『雑抄』
「久保公御譜中正文在海老原吉右衛門トアリ」
一唯恕参ハ弓馬の道をたしなミ、武士のたけき心をもつはらとして、前の殿下秀吉公異国退治の御下知にしたかひ、軍陣いとまなきに、こま・もろこしのさかひ、から嶋と云所にて、文禄二年九月七日之夜、世をはやうせしことを告しらするに、心まとひいへはさら也、其比一首をも手向まほしく侍りつれと、かなしさのあまり、いとヽよせくる老の浪にしつみ、歌のもとすゑもたヽよひ、たゝしからねは、人目の隙を忍ひ、六字の宝号をはしめに置、六首をつらね、廻向しけるものならし、
龍伯
なくむしのこゑは霜をもまちやらてあやなく枯る草の原哉
むらさきの雲にかくれし月影はにしにや晴る行ゑなるらん
あめはたゝ空にしくれぬならひあれや憂折\/の袖にかヽりて
みし夢の名残はかなきね覚哉枕に鐘の声はかりして
たつねてもいらまし物を山寺に説をく法のふかき心を
ふてをミきに弓を左りに翫ふ人の心や名に残らまし
閏九月廿三日
(「薩藩旧記雑録 後編」2-1214)
島津義久の後半生はとても厳しい物だったと思うのですが、久保が生き延びていたらそれはもうちょっと違った物になっていたと思うのです。
PR
文禄3年(1594年)に上洛途中で詠まれた物です。
タイトル見て「?」と思われたあなたは鋭い。
実は1首半?しか記録に残ってないのです_(。_゜)/…おそらく連歌会でもやって、義久の作った分だけ記録した物かと思われます。
『年代記』に出てくる「御家門」は今までも何回も出てきましたが、近衛信尹のこと。坊津に島流しにあった話は拙ブログではこの辺とか。十月に三カ国(=薩摩、大隅、日向諸県郡)に乗り込んできた「京衆」というのは、もうおわかりかと思いますが豊臣政権側の奉行達でしょう。最も主力メンバーは石田三成の家臣だったと思われますが。
肝心のこの和歌(連歌?)を詠んだという「法華嶽薬師」はこのお寺でしょうか。
タイトル見て「?」と思われたあなたは鋭い。
実は1首半?しか記録に残ってないのです_(。_゜)/…おそらく連歌会でもやって、義久の作った分だけ記録した物かと思われます。
『年代記』
甲午 文禄三年三月「或記ニ三月五日トアリ」、義久上洛、御家門坊津ニ下向、同十月京衆下向、三カ国竿打
、
(「薩藩旧記雑録 後編」2-1285)
「義久公譜中」
一文禄三年甲午三月、龍伯為参観赴京師之時、詣法華嶽薬師詠焉
「御文書方有之」
風たちし行ゑをたのむ御仏の
なひくこヽろに身をやまかせん
ちらぬほと花に南の風もかな
(「薩藩旧記雑録 後編」2-1286)
『年代記』に出てくる「御家門」は今までも何回も出てきましたが、近衛信尹のこと。坊津に島流しにあった話は拙ブログではこの辺とか。十月に三カ国(=薩摩、大隅、日向諸県郡)に乗り込んできた「京衆」というのは、もうおわかりかと思いますが豊臣政権側の奉行達でしょう。最も主力メンバーは石田三成の家臣だったと思われますが。
肝心のこの和歌(連歌?)を詠んだという「法華嶽薬師」はこのお寺でしょうか。
かなり間が開きましたがエターしたわけではありません!ヾ(^^;)
大変申し訳ありませんでした。ようやく「一人百首シリーズ」再開です…前回更新から4ヶ月近くあいとるがな_| ̄|○
とはいっても、パソコンで長文打つのが肉体的につらい状態でして、以後もぼちぼちの更新になるかと思いますが宜しくお願い申し上げます<(_ _)>
では
文禄三年の夏頃に読まれたと思われる一首です
この頃義久はたぶん薩摩に帰国していたかと思うのですが、「りやうせん」(=りようぜん(霊山))がどこに当たるか不明。
どうも和歌をそのままに受け取るとこの“霊山”に隠棲して暮らしていた人を義久は見かけた(訪ねた?)と思われるのですが、それを「夏と浮き世をよそに住む人」と表現しているところに、この隠遁者に憧憬の念があったのかなとも思えます。
ちなみにこの文禄3年の夏から石田三成の手によって島津家の領地には大規模な太閤検地の手が入ったのでした。
大変申し訳ありませんでした。ようやく「一人百首シリーズ」再開です…前回更新から4ヶ月近くあいとるがな_| ̄|○
とはいっても、パソコンで長文打つのが肉体的につらい状態でして、以後もぼちぼちの更新になるかと思いますが宜しくお願い申し上げます<(_ _)>
では
文禄三年の夏頃に読まれたと思われる一首です
「義久公御譜中 文禄三年ニ在リ」
「御文書方有」
りやうせんに参て詠之、
山ふかみ道とめ入てかしこくも
なつとうき世をよそにすむ人
(「薩藩旧記雑録 後編」2-1338)
この頃義久はたぶん薩摩に帰国していたかと思うのですが、「りやうせん」(=りようぜん(霊山))がどこに当たるか不明。
どうも和歌をそのままに受け取るとこの“霊山”に隠棲して暮らしていた人を義久は見かけた(訪ねた?)と思われるのですが、それを「夏と浮き世をよそに住む人」と表現しているところに、この隠遁者に憧憬の念があったのかなとも思えます。
ちなみにこの文禄3年の夏から石田三成の手によって島津家の領地には大規模な太閤検地の手が入ったのでした。
本日は新暦換算での島津義久の400回忌です。
旧暦慶長16年1月21日は、新暦換算では1611年3月5日になります。
順番の関係で、挽歌とかそれっぽい歌ではなく、何故かめでたい正月の歌の紹介になってしまいますが(汗)
文禄4年1月20日、近衛前久の東山第での歌会に招かれた際に詠んだ物です
さて、「近衛前久の東山第」とは、実はあの銀閣寺のことです。この当時、前久がいわゆる不法占拠していました(^^;)
この辺の事情についてはこちらのサイト(よろぱら様)で詳しく説明されていますのでご参照下さい。
旧暦慶長16年1月21日は、新暦換算では1611年3月5日になります。
順番の関係で、挽歌とかそれっぽい歌ではなく、何故かめでたい正月の歌の紹介になってしまいますが(汗)
文禄4年1月20日、近衛前久の東山第での歌会に招かれた際に詠んだ物です
「薩藩旧記雑録後編」2-1455の最初の和歌と2-1458の歌は同一の物でしょう。おそらく原文は2-1458で、その後推敲した物を2-1455の形にまとめて残した物と思われます。「義久公御譜中」
文禄四年乙未正月廿日、於 近衛龍山公東山華第、有和歌会、侍瓊筵詠卑歌曰、
(以上「薩藩旧記雑録 後編」2-1454)
「此本在御文書方」
庭松契久
植しより幾代の春にそなれ松の
かけや常葉のみきりなるらん
「仝」
当座鶯
馴来つヽ軒端にちかきうくひすの
こゑにまかする玉すたれかな
「仝」
又 待花
うたヽ寝の枕に雨のをと聞は
またるヽ花のよすかとそ思ふ
(「薩藩旧記雑録 後編」2-1455)
「林甚五兵衛蔵」
於東山御歌会之時
文禄四年正月廿
詠庭松契久和歌
龍伯
植しよりいく代のはるにそなれ松の影やときはのみきり成らむ
(「薩藩旧記雑録 後編」2-1458)
さて、「近衛前久の東山第」とは、実はあの銀閣寺のことです。この当時、前久がいわゆる不法占拠していました(^^;)
この辺の事情についてはこちらのサイト(よろぱら様)で詳しく説明されていますのでご参照下さい。
文禄4年3月頃に詠まれた歌 計6首です。
まず最初の二首。
「信輔公」とは近衛信尹のこと。関連記事 この辺
屋敷の主が左遷されていたという背景もありますが、この桜に寄せて歌われた二首は義久の当時の心境をも反映しているかのような内容で、興味深いです。
次の1首
文禄4年当時、院は不在。ただこの2年前に正親町上皇が崩御しており、おそらく正親町上皇の御所がまだ残っていた物と思われます。ちなみにこの時義久を誘った里村紹巴、この4ヶ月後に豊臣秀次失脚に連座して蟄居させられてしまいます…この頃には既に不穏な空気があったのでしょうか、「世はよるとても」という言葉は意味深です。
次の1首
泉涌寺は義久にとって曰く付きのお寺の一つ。参照 拙HP
「御代々の御はか」は天皇陵のことでしょうか。しかしこの当時はまだ天皇陵は泉涌寺に固定されていなかったはずだし…むー、後考を期す。
次の1首
「子細ありて」とだけしか詞書きがないので、作歌の背景は不明
最後の1首
「近衛龍山公」とは近衛前久のこと。「信輔公」こと近衛信尹の父でもあります。禅林寺は「永観堂」の名前の方が有名かも。
詞書きから、この頃義久は上洛中だったことが分かります。「義久公御譜中」
文禄四年三月二日、 近衛殿庭上糸桜一見之時詠焉、信輔公左遷薩摩州、而無主之際也、
(以上「薩藩旧記雑録 後編」2-1471)
「此本在御文書方」
植置きし庭のさくらの色こきは
ねにかへるへき世をや待らん
青柳の糸にさくらの花こそは
今朝のあらしやたねとなるらん
「仝上」
院の御所の花見に、紹巴・昌叱よりさそハれて、夜更てかへるに、昌叱の一首にひかれて詠之、
戸さしせぬ世はよるとても花の本に
かへる家路やわすれはつらむ
「仝上」
三月十三日、泉涌寺に詣して、御代々の御はかをおかミたてまつり、又仏の生しゃり拝見して詠之、
ちる花はさなから雪の深山にて
しほるはかりのわかたもとかな
「仝上」
子細ありて詠之、
みそめつるよしのヽ花の木の本に
たちもはなれぬ我こゝろかな
「仝上」
洛東禅林寺に 近衛龍山公御成にて、御当座の時詠之、
祈るてふ神のまもりに君か代も
よろつ代ふへきすみよしの松
(「薩藩旧記雑録 後編」2-1472)
まず最初の二首。
「信輔公」とは近衛信尹のこと。関連記事 この辺
屋敷の主が左遷されていたという背景もありますが、この桜に寄せて歌われた二首は義久の当時の心境をも反映しているかのような内容で、興味深いです。
次の1首
文禄4年当時、院は不在。ただこの2年前に正親町上皇が崩御しており、おそらく正親町上皇の御所がまだ残っていた物と思われます。ちなみにこの時義久を誘った里村紹巴、この4ヶ月後に豊臣秀次失脚に連座して蟄居させられてしまいます…この頃には既に不穏な空気があったのでしょうか、「世はよるとても」という言葉は意味深です。
次の1首
泉涌寺は義久にとって曰く付きのお寺の一つ。参照 拙HP
「御代々の御はか」は天皇陵のことでしょうか。しかしこの当時はまだ天皇陵は泉涌寺に固定されていなかったはずだし…むー、後考を期す。
次の1首
「子細ありて」とだけしか詞書きがないので、作歌の背景は不明
最後の1首
「近衛龍山公」とは近衛前久のこと。「信輔公」こと近衛信尹の父でもあります。禅林寺は「永観堂」の名前の方が有名かも。