拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
文禄4年3月頃に詠まれた歌 計6首です。
まず最初の二首。
「信輔公」とは近衛信尹のこと。関連記事 この辺
屋敷の主が左遷されていたという背景もありますが、この桜に寄せて歌われた二首は義久の当時の心境をも反映しているかのような内容で、興味深いです。
次の1首
文禄4年当時、院は不在。ただこの2年前に正親町上皇が崩御しており、おそらく正親町上皇の御所がまだ残っていた物と思われます。ちなみにこの時義久を誘った里村紹巴、この4ヶ月後に豊臣秀次失脚に連座して蟄居させられてしまいます…この頃には既に不穏な空気があったのでしょうか、「世はよるとても」という言葉は意味深です。
次の1首
泉涌寺は義久にとって曰く付きのお寺の一つ。参照 拙HP
「御代々の御はか」は天皇陵のことでしょうか。しかしこの当時はまだ天皇陵は泉涌寺に固定されていなかったはずだし…むー、後考を期す。
次の1首
「子細ありて」とだけしか詞書きがないので、作歌の背景は不明
最後の1首
「近衛龍山公」とは近衛前久のこと。「信輔公」こと近衛信尹の父でもあります。禅林寺は「永観堂」の名前の方が有名かも。
詞書きから、この頃義久は上洛中だったことが分かります。「義久公御譜中」
文禄四年三月二日、 近衛殿庭上糸桜一見之時詠焉、信輔公左遷薩摩州、而無主之際也、
(以上「薩藩旧記雑録 後編」2-1471)
「此本在御文書方」
植置きし庭のさくらの色こきは
ねにかへるへき世をや待らん
青柳の糸にさくらの花こそは
今朝のあらしやたねとなるらん
「仝上」
院の御所の花見に、紹巴・昌叱よりさそハれて、夜更てかへるに、昌叱の一首にひかれて詠之、
戸さしせぬ世はよるとても花の本に
かへる家路やわすれはつらむ
「仝上」
三月十三日、泉涌寺に詣して、御代々の御はかをおかミたてまつり、又仏の生しゃり拝見して詠之、
ちる花はさなから雪の深山にて
しほるはかりのわかたもとかな
「仝上」
子細ありて詠之、
みそめつるよしのヽ花の木の本に
たちもはなれぬ我こゝろかな
「仝上」
洛東禅林寺に 近衛龍山公御成にて、御当座の時詠之、
祈るてふ神のまもりに君か代も
よろつ代ふへきすみよしの松
(「薩藩旧記雑録 後編」2-1472)
まず最初の二首。
「信輔公」とは近衛信尹のこと。関連記事 この辺
屋敷の主が左遷されていたという背景もありますが、この桜に寄せて歌われた二首は義久の当時の心境をも反映しているかのような内容で、興味深いです。
次の1首
文禄4年当時、院は不在。ただこの2年前に正親町上皇が崩御しており、おそらく正親町上皇の御所がまだ残っていた物と思われます。ちなみにこの時義久を誘った里村紹巴、この4ヶ月後に豊臣秀次失脚に連座して蟄居させられてしまいます…この頃には既に不穏な空気があったのでしょうか、「世はよるとても」という言葉は意味深です。
次の1首
泉涌寺は義久にとって曰く付きのお寺の一つ。参照 拙HP
「御代々の御はか」は天皇陵のことでしょうか。しかしこの当時はまだ天皇陵は泉涌寺に固定されていなかったはずだし…むー、後考を期す。
次の1首
「子細ありて」とだけしか詞書きがないので、作歌の背景は不明
最後の1首
「近衛龍山公」とは近衛前久のこと。「信輔公」こと近衛信尹の父でもあります。禅林寺は「永観堂」の名前の方が有名かも。
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