拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
かなり間が開きましたがエターしたわけではありません!ヾ(^^;)
大変申し訳ありませんでした。ようやく「一人百首シリーズ」再開です…前回更新から4ヶ月近くあいとるがな_| ̄|○
とはいっても、パソコンで長文打つのが肉体的につらい状態でして、以後もぼちぼちの更新になるかと思いますが宜しくお願い申し上げます<(_ _)>
では
文禄三年の夏頃に読まれたと思われる一首です
この頃義久はたぶん薩摩に帰国していたかと思うのですが、「りやうせん」(=りようぜん(霊山))がどこに当たるか不明。
どうも和歌をそのままに受け取るとこの“霊山”に隠棲して暮らしていた人を義久は見かけた(訪ねた?)と思われるのですが、それを「夏と浮き世をよそに住む人」と表現しているところに、この隠遁者に憧憬の念があったのかなとも思えます。
ちなみにこの文禄3年の夏から石田三成の手によって島津家の領地には大規模な太閤検地の手が入ったのでした。
大変申し訳ありませんでした。ようやく「一人百首シリーズ」再開です…前回更新から4ヶ月近くあいとるがな_| ̄|○
とはいっても、パソコンで長文打つのが肉体的につらい状態でして、以後もぼちぼちの更新になるかと思いますが宜しくお願い申し上げます<(_ _)>
では
文禄三年の夏頃に読まれたと思われる一首です
「義久公御譜中 文禄三年ニ在リ」
「御文書方有」
りやうせんに参て詠之、
山ふかみ道とめ入てかしこくも
なつとうき世をよそにすむ人
(「薩藩旧記雑録 後編」2-1338)
この頃義久はたぶん薩摩に帰国していたかと思うのですが、「りやうせん」(=りようぜん(霊山))がどこに当たるか不明。
どうも和歌をそのままに受け取るとこの“霊山”に隠棲して暮らしていた人を義久は見かけた(訪ねた?)と思われるのですが、それを「夏と浮き世をよそに住む人」と表現しているところに、この隠遁者に憧憬の念があったのかなとも思えます。
ちなみにこの文禄3年の夏から石田三成の手によって島津家の領地には大規模な太閤検地の手が入ったのでした。
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