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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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文禄4年(1595年)6月に作られた物です
「義久公御譜中」
「此本在御文書方」
文禄四年六月吉日、為祈念詠之、
そのかミのえにしあらすはひめ子松
すゑ葉に家の風ハふかめや
(「薩藩旧記雑録 後編」2-1538)
何を祈念したのか詞書きなどが無く不明ですが、この頃に太閤検地があって家中が動揺したことから考えると、それに関連した願いだったのではないかと思われます。

ちなみにこの後に掲載された文書(「薩藩旧記雑録 後編」2-1539)では、安宅秀安(署名は「三兵(字「三郎兵衛」の略と思われる)」は「義久のために検地をやっているのに協力的ではない」と島津家の家老達(伊集院忠棟、町田久倍、吉田清孝など)に対して送った手紙の中でぼろくそに義久を非難しています。


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文禄4年(1595年)8月10日に作られた和歌2首です
またまた何回目か分からない挽歌です
追悼された人物は島津彰久、義久の婿の一人です…

ネタバレになりますが、この2年前の文禄2年(1593年)9月8日には三女・亀寿の夫であった島津久保も朝鮮出兵中に陣没しており、義久は義理の息子を2人も朝鮮出兵で奪われたことになります…
「在彰久譜中」
文禄四年七月五日、彰久罹重病卒朝鮮国巨済陣中、俗云唐島、享年二十有九、法号天宗慈雲大禅定門、安田二郎兵衛義次、濱川糸右衛門殉死、同年八月九日、 義久公賜追悼文、文曰
(以上「薩藩旧記雑録 後編」2-1575)
天宗慈雲ハ孝儀をおもんし、れいならさるをもいとわす、朝鮮から嶋といふ所へ渡海せしめ、在陣ほとひさしきに、むしやうのかせにさそハれしハ、もろこしの弐拾四人の心さしにも、おとりやハすへきとこそおほえて侍れ、
かへるへきミちをもしらて葛のはに
なにしら露の玉と消らん
とことはに有はてぬへき身ならねハ
ほとけも今ハ名のミなりけり
文禄四年八月十日
(「薩藩旧記雑録 後編」2-1576)
「もろこしの弐拾四人」というのが意味が分かりません。なんで24人なんだろう…。

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2月9日は義久の誕生日です 旧暦換算だけどな
おめでとうございます!
今、義久が生きていたら478歳になります!…何か無理ありすぎる導入である…

気を取り直して


文禄五年(慶長元年)春頃に詠まれた物と推測される和歌3首+連歌1首(?)です。
前々回前回の更新分と関連があります。

「義久公御譜中」
「此本在御文書方」
近衛殿薩州鹿児嶋の御旅宿にての御会に、
梅交松芳
松か枝にかハせる梅のにほひこそ
千里の春のかさしなりけり
「同」
当座藤埋松
色かへぬ松のみとりもかくろひて
空に浪たつ藤の花かな
「同」
又御庭のさくらに歌あり、
春とてもつもりなからに消やらぬ
雪はちりしく花の庭哉
「同」
とミのくまわたましの連歌に、
松かけのすまひ涼しき岩井かな 龍伯

近衛信輔公薩摩へさせんたりといへとも、京儀とゝのをり、御帰洛之折節、大隅冨隈にて和歌の御会有、御懐紙末に記するものなり、
「正文有之」
詠松陰新凉倭歌
「此題之和歌、左に載せ置故略」
(『薩藩旧記雑録 後編』3-82)

この続きにおそらく前回UP分の和歌と同じ物が書かれた物と思われます。

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文禄5年(慶長元年)7月頃の歌会で詠まれた物です。
前回分と関係があります。
なお、義久以外の列席者の物もかなりの量ありますが、掲載します。

「在本田助之丞蔵文書中」
於庄内都城 近衛殿様御興行之和歌
詠松蔭新凉倭歌 信輔
立帰る名残こそあれ松かけはすゝしき秋のやとりとおもへハ
詠松蔭新凉倭歌 竜伯
あつき日の影も忘て馴なるゝ松のしつえに秋風そふく

秋日同詠松蔭新凉和歌 大蔵少輔長治
とひよるもかわらぬ友と松陰にかたろふ秋の袖のすゝしさ
秋日同詠松蔭新凉倭歌 左衛門尉長家
秋風をたもとにふれてあかなきハなミ木の松の下すゝミかな
詠松蔭新凉和歌 沙弥慰畋
              見舞
ときわなる松とやハ見ん秋きてのかけハありしにかわるすゝしさ
秋日同詠松蔭新凉和歌 沙弥玄与
枝しけき松の下露落添て衣手すゝし秋の初風
詠松蔭新凉和歌 沙弥紹剣
きゝて猶すゝしき宿の松陰に吹もたゆむな秋の初風
詠松蔭新凉和歌 沙弥幸侃
わするなよとひよる松の下すゝミ千とせの秋ハよしやふるとも
詠松蔭新凉和歌 沙弥珠長
すゝしさをまねきし御代の名にしおハヽ玉松かえの庭の秋かせ
詠松蔭新凉和歌 沙弥為舟
すミよしや西に秋風松吹ハ涼しさよするおきつ白波
詠松蔭新凉和歌 沙弥宗運
植そへし真砂の庭の松かけに千とせの秋もこもるすゝしさ
詠松蔭新凉倭歌 沙弥宗哲
世を遠くみそのゝ松の枝も葉もならさてすゝし秋の夕風
詠松蔭新凉和歌 沙弥元巣
あふくてふ君か千とせの松かけのすゝしさならす宿の秋風
詠松蔭新凉倭歌 沙弥宗察
松の葉のかわらぬかけの梢より吹きてすゝし秋の初かせ
詠松蔭新凉倭歌 沙弥与進
すゝしさそきのふにもにぬ松の色ハ秋を見せたる木かけならねと
秋日同詠松蔭新凉和歌 大炊助久正
いさ清きみきりの松の声立てすゝしき秋やさそひきぬらん
秋日同詠松蔭新凉倭歌 左衛門尉増宗
松陰のすゝしさもやゝ音かへて荻の上葉にかよふ秋かせ
秋日同詠松蔭新凉倭歌 雅楽助経宣
立寄てけにとことハの松陰も秋の夕ハなをそすゝしき
秋日同詠松蔭新凉和歌 左衛門督道武
風の音涼しさそへて色かへぬ松の木かけも秋をこそしれ
秋日同詠松蔭新凉倭歌 兵衛尉宗親
                        ゆふへ
秋来ぬと音にしらする松風をふるゝ夕卩の袖そすゝしき
秋日同詠松蔭新凉倭歌 右衛門尉豊信
秋来ぬと音吹かへてすゝしさハ今一しほの松のかけかな
(『薩藩旧記雑録 後編』3-83)
既に何回もご登場されている方もいらっしゃいますが、
「沙弥慰畋」は川上久隅、「沙弥玄与」は阿蘇惟賢、「沙弥紹剣」は樺山忠助、「沙弥為舟」は新納忠元、「沙弥元巣」は伊集院久信、「大炊助久正」は喜入久正、「左衛門尉増宗」は平田増宗、「雅楽助経宣」は村田経宣、「兵衛尉宗親」は平田宗親(平田増宗の弟)、「右衛門尉豊信」は八木豊信と思われます。「沙弥宗察」「沙弥与進」は人物特定できませんが義久の歌会関連では常連のメンバーで頻出しているのでちょっと記憶にある方も多いかと。「大蔵少輔長治」「左衛門尉長家」「沙弥珠長」「沙弥宗運」「沙弥宗哲」…は誰か分かりません_(。_゜)/しかし、長治、長家は信輔(近衛信尹)、義久の次に歌を詠んでいるところから見て信輔の近臣ではないかと思われます。

この歌会の一番の注目人物は何と言っても8番目に歌を詠んだ「沙弥幸侃」こと伊集院忠棟でしょう。列席者の大半が義久に近い人物ばかりであることからみて、この頃はまだ義久の信頼を置かれていた近臣として列席していたとも考えられます。が、この歌会の開催場所が文禄4年の太閤検地の後に伊集院忠棟領となった都城であるところからみて、”接待場所の当主”として参加した物とも見られます。
どちらにしろ、この和歌はもしかしたら現在に残る唯一の忠棟作の和歌かも知れませんね。

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本日は
島津義久公400回忌 但し旧暦カウントなんで実際はズレが(;¬_¬)
です。

諸般の事情で鹿児島の墓前に行けないのが、本当に残念です…

本当に残念なんだからな!ヾ(^^;)



…何か説得力が無くなってきたところでお歌の紹介
順番の都合上、1月21日前後に詠まれた物にならなかったのがちょっと残念ですが
「義久公御譜中」
近衛殿西国になかされ給へとも、京儀とゝのをり、御帰洛の折ふし、大隅冨隈にて和歌の会あり、懐紙は別紙にあり、
「此本在御文書方」
当座薄露
ゆく袖をむすひもとめよいとすゝき
すゑ葉の露は玉とちるとも
「同」
寄鏡神祇
神かきのうちゆたかにもうつしをく
こゝや代々のかゝみなるらん
「同」
慶長元年七月六日、 近衛信輔公御帰京の首途なり、其路次にて、かめにさす花に御口号あり、其座にて、
花\/をわけにし野辺の帰るさや
たをりもて来てかめにさすらん
近衛信輔公解纜於日州志布志、而帰京也、
(『薩藩旧記雑録 後編』3-84)
「近衛殿」=「近衛信輔」とは近衛信尹のこと。文禄3年から3年間薩摩国坊津に流罪となっていました。…最も「流刑」といっても近衛家と島津家は伝統ある腐れ縁昔から縁の深い関係でしたので、信輔も手厚いもてなしを受けて悠々自適の生活だったようです。

おそらくこの信輔が帰京する際の冨隈の宴会で起きたのが拙本宅HPで紹介したこの事件かと思われます。


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