拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
田中隆吉の本で、もう一冊気になるのがあったので借りてみました。
『裁かれる歴史』と言うタイトルです
が
地元の図書館には初版本しか所蔵してなかった。「初版本」と言えば普通レア度が高い貴重品…と思われがちですが、何しろこの本が出たのは戦後まもなくの昭和23年。
紙がぼろぼろ。
よくこの本崩壊せずに残った物である(※ただし表装はし直されていました)
ページをめくる度になんか紙がぽろぽろ粉になるような気が…
内容自体は前の『敗戦をつく』と同様で東条+武藤批判で埋め尽くされていますが、内容は意外にかぶっていません。
そして今田ネタは残念ながら無かったのですが_(。_゜)/、意外な人物の話が…
表題に書いた「茂川秀和」と言う人物の話です。彼は今田とは陸軍士官学校同期(30期)、「今田新太郎君を偲う」(高嶋辰彦、『追悼録』(陸士三〇期生同窓会)所収)によれば、今田とは親友で、当初は今田の追悼文も彼が書く予定だったらしい位の中だったようです。ただし、茂川が病気で倒れてしまったため、高嶋に白羽の矢が立ったとのこと。
茂川に関する記事は今田より更に少ないような気がするので、この記録は貴重な物…が、何しろモンスター田中隆吉の書くことですからねえ…
ではまいる。
『裁かれる歴史』と言うタイトルです
が
地元の図書館には初版本しか所蔵してなかった。「初版本」と言えば普通レア度が高い貴重品…と思われがちですが、何しろこの本が出たのは戦後まもなくの昭和23年。
紙がぼろぼろ。
よくこの本崩壊せずに残った物である(※ただし表装はし直されていました)
ページをめくる度になんか紙がぽろぽろ粉になるような気が…
内容自体は前の『敗戦をつく』と同様で東条+武藤批判で埋め尽くされていますが、内容は意外にかぶっていません。
そして今田ネタは残念ながら無かったのですが_(。_゜)/、意外な人物の話が…
表題に書いた「茂川秀和」と言う人物の話です。彼は今田とは陸軍士官学校同期(30期)、「今田新太郎君を偲う」(高嶋辰彦、『追悼録』(陸士三〇期生同窓会)所収)によれば、今田とは親友で、当初は今田の追悼文も彼が書く予定だったらしい位の中だったようです。ただし、茂川が病気で倒れてしまったため、高嶋に白羽の矢が立ったとのこと。
茂川に関する記事は今田より更に少ないような気がするので、この記録は貴重な物…が、何しろモンスター田中隆吉の書くことですからねえ…
ではまいる。
私はこの日徳王の招待を受け綏遠事変の戦没者の慰霊祭に参列のため、蒙古の徳化に在った。時偶々関東軍から電報があって連絡のため、天津に至れとの命令を受けたので、8月拂暁飛行機で天津に向かって出発し、正午駐屯軍司令部に着した。その夜天津の芙蓉館の一室で茂川秀和少佐にあった。<あてにならない補足>
茂川少佐はもと私と一緒に参謀本部に勤務したことがあり、当時、冀察政権の軍事顧問であった。氏は語る。
「かの発砲をしたのは共産系の学生ですよ。丁度あの晩、蘆構橋を隔て、日本軍の一個大隊と中国側の一団が各々夜間演習して居たので、これを知った共産系の学生が双方に向かって発砲し日華両軍の衝突を引き起こさせたのです」
と。私は茂川氏が平素、北平の共産系の学生と親交があることを知って居るので
「やらせた元凶は君だろう」
と詰った。氏は頬を赤らめて之を肯定した。
当時共産軍は蒋介石氏のために陝西延安の一角に追い詰められ、気息正に淹々たる物があった。その運命の打開は日華の衝突によって蒋氏の矛先を日本に向かわしめるより他に手段がない。私は事を好む茂川氏の謀略が成功したのも無理はないと思った。
私は天津滞留2週間、具さに日華双方の実情を調察し「日華の全面的衝突は必死である。然し衝突後六ヶ月以内にこれを平和に解決しなければ日本の将来に対し不足の災いが起る懼がある」との意見を具申して新京に帰った。
茂川氏は終戦直後、酒井隆中将と共に華北の共産軍に投じたが、久しからずして捕らえられ二人ともに刑場の露と消えた。
p.27~28
※なお原文は旧仮名遣い旧字体ですが、新仮名遣い新字体に適宜改めております
・徳王:モンゴル独立を目指していたモンゴル族長の一人。結局頼みとしていた日本軍に振り回されて自滅してしまった不幸な人。
・綏遠事件:こういう事件 じつは田中隆吉はこの謀略に関わっているのだが、この本の中では「(自分は止めたのだが)徳王が忠告を聞かず」(p.32)「私は未だかつて世間で言われるような命からがら逃げたと言う事はない」(p.34)と弁明に終始している。
・冀察政権:「政権」とは言うが、名称は「委員会」。われらの宴会部長も廬構橋事件時ここの顧問だった
・酒井隆:こういう人
この文章を一読して、私はものすごい違和感を感じました。
だって、確かに酒井隆はこの後処刑されましたが、茂川は生きて帰って来ているもん。あとついでになるが、二人とも中国共産党に投降したんじゃなくて、国民党に逮捕されたのだ。つまり、田中隆吉は誤った情報に基づいてこれを書いたと言う事。
また、田中隆吉は今田についても彼が不利になるような証言をGHQにしたのにも関わらず、後になってまるで自分は今田をかばったかのように証言を翻しているので、既に大勢の人が指摘はしていますが、その内容には非常に注意が必要と私は考えます。
この文章では田中隆吉は茂川がいかに謀略好きかと言うことを書いておりますが、それ、自分のことやんヾ(^^;) むしろ田中隆吉がいかに謀略好きなのを知っていたのが茂川だったんじゃないですかね?
廬構橋事件については、かなり研究が進んでいるようですが、そのきっかけになった「銃声」については誰が仕掛けたのか定説は今のところないようです。今井武夫(当時北京駐在武官 今田、茂川と陸士30期同期)の「中国共産党の陰謀という説も捨てきれない」という証言もありますが。。
以上、いろいろな話を合わせると、この文章に関しては、田中隆吉が噂に基づいて話を創作したように考えます。そこには自分の願望が反映されていることは言うまでもありません(爆)
他、今田、茂川さんに直接関係ないが、気になるところをピックアップ
然るに当時陸軍の中堅層には新たなる勢力が台頭して居た。それは故永田鉄山中将の衣鉢を継ぐ統制派の一団である。この一団は高度の国防国家の建設を目標とし、之を実現する手段として日本を国家社会主義のイデオロギーに基づいて抜本的なる改革を行わんとして居た。前にも同じような文章を紹介したが、どうも石原莞爾をかばっているように見える田中隆吉。
彼らは、昭和12年度より向こう五ヶ年間に渡る軍備充実計画を立案した。そして之を12年春の議会に提出した。時の内閣は広田内閣であった。広田内閣はこの軍備充実計画には反対であった。故にこの統制派の一団は機を見て広田内閣を打倒し、その後にファッショの心酔者である林銑十郎大将を首班とする内閣を樹立し、この軍備充実計画の達成を図らんとした。この計画の首謀者は石原莞爾氏であり、石原氏の参謀は浅原健三氏であった。林氏も又大いに食指を動かして居た。
浅原氏の周囲は社会大衆党のファッショ分子が取り巻き、石原氏の周囲は統制派の政治軍人一団が取り巻いていた。石原氏は満州事変の立役者であるが統制派には属しない。氏は作戦にかけては天才であるが、政治やその他のことは極めて迂遠な頭脳の持主である。然し当時氏は参謀本部の作戦課長としてこの軍備充実計画の直接の責任者であった。その実現は氏の生命である。策謀に長けた統制派の政治軍人は氏を担いだ。氏は計画の実現を望む余り担がれてお山の大将となり、最も熱心に林内閣の実現に努力した。
p.37~38
あと浅原健三について、ここでは社会大衆党のバックがあったかのように書かれていますが、『反逆の獅子』ではむしろ党派に寄らない活動だったことが伺えますし、その当時浅原と親しかった片倉衷も「特に子分のような者はいなかった」と証言しています(『片倉衷氏談話速記録』)。同様の記述はやはり浅原と親しかった山本勝之助も(『日本を亡ぼしたもの』)。
次はあの津野田とか牛島に関係ある話。まるまる1章引用。部分引用したいけど、どこも外せない_| ̄|○入力しんどいけど頑張る(T∀T)
東條暗殺未遂事件<あてにならない補足>
昭和19年1月の寒い雪の日であった。私の隠れ家-富士山麓の山中湖畔-に元外務次官の大橋忠一氏と、かつての全日本選手権の持主である柔道家牛島辰熊氏が訪れてきた。当時私は苟くも東條政府の臭味のある人々には何人であろうとも一切気違いの真似をして、絶対に会わず、会っても真実を語らぬ事としていたが、大橋氏は長年の間の親友である。牛島氏は一時は私が石原莞爾中将を葬った張本人であるとして、私の生命を覘った事のある人ではあるけれども、太平洋戦争には、絶対反対の立場に立った人であるから私は仮面を脱いで、快く両氏を私の寓居に請じて食事を共にしつつ、戦争の前途に対する見通しを語り会った。
私は極めて露骨に言った。
「此戦争は必敗である。而も爆撃によって手も足も出なくなって、無条件降伏するのが最後の落ちだ。一億最後の一人まで戦うなんかと景気の良いことを放言したって実際問題としては到底不可能だ。我が輩の戦場の経験から見ても、あの婦女子を交えない軍隊ですら完全に玉砕した例を聞かぬ。アッツの玉砕でも怪しいものだ。見よ、必ず僕の予言が当たるから。故に負けると決まった戦争なら一日も早く止めた方がよい。我輩は絶対にこの戦争には協力しない。のみならず微力ながら一日も早く和平を実現するように努力する」
と。大橋氏は流石に外交家である。
「戦争の見通しについては君と同意見だ。然しこの戦争を和平に導くためには、ソ連を仲介とする和平申込以外に打つ手はない。然しその時期はドイツが手を挙げた秋である。而もソ連に対しては和平斡旋の労に対して、満州の大部か少なくも北満を割譲する位の覚悟が必要だ。これに対しては陸軍が承知しまい。海軍はミッドウェー以来内心自信を失っているから問題はあるまいが」
との意見を述べて、憮然たるものがあった。牛島氏はまれにみる熱血漢である。
「和平の癌は東條だ。東條は私心の固まりだ。彼が存在する限り和平は絶対に不可能だ。和平を実現するためには先ず東條を除かねばならぬ」
との過激な意見を吐いた。この他様々な話が出たが、結局牛島氏は
「東條内閣の退陣を一日も速やかに実現する。若し不可能ならば最後の手段を執るべきである」
との意見を吐露し、大橋氏も私も之に賛成した。
五月中旬、私は東京に出て桜内幸雄氏、大川周明氏と竹内賀久治氏などを歴訪して、東條内閣の退陣近きを知った。7月20日東條氏は内閣を投げ出した。私は八月の下旬東京に出て小磯内閣の事実上の中心人物、二ノ宮治重文相に会って見ると、小磯内閣は機を見て和平を行う用意があることを知った。之がためには先ず陸軍部内の東條派の人々を一掃する必要があるというので私も密かに此の工作に協力した。
10月の始め再び東京に出ると、高橋喜蔵氏が訪ねてきた。そして石原莞爾中将が東京の軍法会議に召還せられているから是非救い出してもらい度い。石原氏が召還せられたのは、牛島氏と参謀本部の津野田氏とが東條氏の暗殺を企て、7月東京憲兵隊に捕らわれて未遂に終わったことから、その背後関係の協力者として取り調べを受けて居るのだと云う。高橋氏は私の年来の親友であり又石原信者の一人である。
私は直ちに二ノ宮氏を私邸におとない、小磯内閣としては牛島、津野田、石原氏などを追求すべきではない。若し飽く迄之を追求するならば事小に持って案外に重大な結果を将来し、下手をすると小磯内閣の命取りになるかも知れぬと半ば懇願し、半ば脅かした。一方私が兵務局長在職当時最も信頼していた防衛課長上田昌雄大佐に長文の意見書を送って善処方を要望した。氏からは既に私が軍職を去って一介の素浪人になっているにもかかわらず、必ず善処すべき旨の回答があった。
石原氏は直ちに釈放せられた。牛島、津野田両氏も、小磯内閣の末期に執行猶予の恩典に浴して出獄した。
牛島、津野田両氏の東條暗殺計画とは如何なる内容を持っていたものであろうか。それは津野田氏が対戦車爆弾を牛島氏に提供し牛島氏が之を携帯して、東條の参内途上を、坂下門外の道路の屈曲点に要して、自動車もろともに粉砕せんとするものであった。
牛島氏は初めから東條氏を暗殺せんとしたのではない。氏は始め東條新内閣の存続は日本の将来に絶望的なる運命をもたらすものであるとし、殊に東條氏の性格が偏狭にして、私心多く、此の難局を担当する資格無く、一日も速やかに首相の地位を他に譲るべきであるとの見解の元に、19年の初冬以来、在京皇族及び重臣などを歴訪して熱心に東條内閣の退陣に努力せられんことを懇願した。然るに聊かもその効果が上がらないので遂に暗殺を決意したのであった。
氏は東條氏の暗殺を決意するや、之を同郷の志を同うする参謀本部の津野田少佐に図った。牛島氏は如何なる場合にも失敗に終わらざる為、小型爆弾、ピストル或いは日本刀の如きものを避け対戦車爆弾を使用して東條氏のみならず自らも同時に爆死せんとする悲壮なる計画を立てた。爆弾は津野田少佐の手により調達せられ、牛島氏に渡された。不幸にして牛島氏は決行寸前東京憲兵隊の手に捕らえられて獄に投ぜられた。久しからずして津野田氏も捕らえられた。かくして此の計画は未遂に終った。
この計画は、水も漏らさぬ至当な準備と数回に亘る現地の踏査に依って樹立せられ、暗殺計画としては万全な物であった。然るに牛島氏によって行われた東條内閣退陣の運動が余りにも熱心であり、執拗であったために、ある皇族は、牛島氏に或いは東條氏暗殺の意向があるのではないかとの疑を抱き、密かに之を憲兵に注意した。憲兵は此の注意により、初めは大いなる関心無くして牛島氏を留置した。そして家宅捜索の結果、意外にも爆弾を発見して唖然として驚いた。
東條氏はその逮捕直前ピストル自殺を企てて物の見事に失敗した。氏が若しこの牛島氏の一撃によって玉砕していたならば、今日この頃、市ヶ谷の法廷にあの生き恥をさらさずに済んだかも知れぬ。人の運命ほど判らぬものはない。
p.142~146
※なお本文は一部旧旧字体旧仮名遣いとなっているが、適宜新字体新仮名遣いに改めた
・富士山麓の山中湖畔:実は高嶋辰彦のブレーンだった「昭和の天才」仲小路彰も戦後はここに隠棲していた 隠棲するのに良い場所なんでしょうかここ
・一切気違いの真似をして:もしかして戦後のうつ病ももしかして仮病?ヾ(--;) ちなみに秦郁彦は戦後まもなくに田中隆吉と直にあったことがあるそうだが、その時点でそうとう変だったらしい(『昭和史の軍人たち』)。最もこれも「振り」と言われると否定しきれない物が…
・大橋忠一:戦前外交官 戦後政治家(自民党所属) 満州国で政務を執ったこともあるのでなにげに石原莞爾と関係あったりする。
・牛島氏は一時は私が石原莞爾中将を葬った張本人であるとして~:初耳 これは牛島の追悼録見ないと真偽は実証できないかな
・アッツの玉砕でも怪しい:しかし事実玉砕であった。「日本軍の損害は戦死2,638名、捕虜は27名で生存率は1パーセントに過ぎなかった。」
・桜内幸雄:桜内チェリー義雄の父。モンスター田中隆吉と親戚らしいのは先述。
・大川周明:今まで何度も出演した右翼の大ボスであり、石原莞爾と同郷でありついでに同窓生(中学)であり、東京裁判開廷中に東條英機の頭を幾度もしばいて「精神病」とされ無罪となったがその直後からふつーに発言していたという訳の分からない人。
・竹内賀久治:弁護士。東京の弁護士会は何故か1部と2部に別れているが、その原因を作った人らしい。
・二ノ宮治重:二宮治重予備役中将。田中隆吉が何故か高く買っていたのは先述。
・高橋喜蔵:1895~1962 石原莞爾、大川周明と同郷。このHPに詳しい
・参謀本部の津野田氏:いうまでもないが、津野田知重のことである
・対戦車爆弾:実際は毒ガスを使う計画だった どっちのほうがより過激なんかはよく分かりません
・上田昌雄:朝日放送元アナウンサー上田博章の父 博章自身田中隆吉に会わされたというあまりうらやましくない体験を告白している(川島芳子ならよかったのにねえヾ(^^;))
・氏は東條氏の暗殺を決意するや、之を同郷の志を同うする参謀本部の津野田少佐に図った:津野田側の証言では、牛島を巻き込んだのは津野田の方らしい これも牛島の追悼録見ないと正確なところは判らないかなあ
・ある皇族:三笠宮殿下のこと 流石に昭和23年じゃ恐れ多くて名前だせん罠
・密かに之を憲兵に注意した。憲兵は此の注意により、初めは大いなる関心無くして~:津野田側の証言では、最初から関心メラメラだったみたい。だって東條の政敵である石原莞爾につながるネタですからね。元憲兵・大谷敬二郎の証言でもそのようだ。
・今日この頃、市ヶ谷の法廷にあの生き恥をさらさずに済んだかも知れぬ。:でもモンスター田中隆吉もこの翌年に自殺を試みるも失敗する羽目に。人のこと言えん。
PR
Comment
コメントの修正にはpasswordが必要です。任意の英数字を入力して下さい。