拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
諸史料(島津側の史料も含め)もタイトルのように書いてあるので、そのまま素直に考えていたの
だが
改めてみたら、これは変じゃん。
陽和院殿が島津光久と結婚した年:万治2年(1659年)
平松時庸死去:承応3年(1654年)
結婚する5年も前に養父死んどる~⊂(。Д。⊂⌒`つ
ひとつの考えとしては、陽和院が養女になったのは結婚を機にした物ではなく、女官になったタイミングではないかと。
女官の任官年がはっきり分からないのが難点だが、後光明天皇の薨去年(承応3年(1654年))以前には下がるが…。
今ひとつの考えは、実際は平松時庸の息子・時量の養妹だった、という物。実は、この時量という人はかなりやり手だったようで、自家を興隆させるために、門葉でありかつ親しい関係でもあった近衞基凞に願い出て、平氏(平松家は平家末裔)遠祖の日記「兵範記」をもらい受けるなど、活発に活動していた。そんな時量が、従兄弟・陽和院と島津光久の縁談をまとめ、更に陽和院を自分の兄弟としたことは十分あり得る。
さあ、真相はどっち?
だが
改めてみたら、これは変じゃん。
陽和院殿が島津光久と結婚した年:万治2年(1659年)
平松時庸死去:承応3年(1654年)
結婚する5年も前に養父死んどる~⊂(。Д。⊂⌒`つ
ひとつの考えとしては、陽和院が養女になったのは結婚を機にした物ではなく、女官になったタイミングではないかと。
女官の任官年がはっきり分からないのが難点だが、後光明天皇の薨去年(承応3年(1654年))以前には下がるが…。
今ひとつの考えは、実際は平松時庸の息子・時量の養妹だった、という物。実は、この時量という人はかなりやり手だったようで、自家を興隆させるために、門葉でありかつ親しい関係でもあった近衞基凞に願い出て、平氏(平松家は平家末裔)遠祖の日記「兵範記」をもらい受けるなど、活発に活動していた。そんな時量が、従兄弟・陽和院と島津光久の縁談をまとめ、更に陽和院を自分の兄弟としたことは十分あり得る。
さあ、真相はどっち?
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