拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
これは偶然に見つけた史料です。
「談話速記録シリーズ」(をい)に答えた人には今田と接点のある人が多いので、その辺はだいたい入手済みなのですが、この人の分はネットの検索で偶然に「今田」という記述があるのを見つけて、取り寄せてみたらビンゴだったという物です。
※今まで拙ブログでネタにした「談話速記録」シリーズは、片倉衷編、稲田正純編
なお、この林秀澄は憲兵出身。実は今田とは若手時代に少しだけ接点があるくらいで(これが今回取り上げる記述)、ネットで検索すると、近年中国で映画化された「テンピンルー」という伝説の女スパイと関わりのある人物のようです。
ではまいる。
「談話速記録シリーズ」(をい)に答えた人には今田と接点のある人が多いので、その辺はだいたい入手済みなのですが、この人の分はネットの検索で偶然に「今田」という記述があるのを見つけて、取り寄せてみたらビンゴだったという物です。
※今まで拙ブログでネタにした「談話速記録」シリーズは、片倉衷編、稲田正純編
なお、この林秀澄は憲兵出身。実は今田とは若手時代に少しだけ接点があるくらいで(これが今回取り上げる記述)、ネットで検索すると、近年中国で映画化された「テンピンルー」という伝説の女スパイと関わりのある人物のようです。
ではまいる。
(前略)<あてにならない補足>
だいたい、メンバーが揃いまして、富士見荘に集まりますと、その中で声を荒立てて、こういう真面目な会合をやるのに、何も、差出人の女の名前、芸者か女中の名前を書いたりして、だらしがない、なっちゃいない、こういう物は司会者ははっきりすべきだなんて一人でわめいている者は辻政信です。これが非常に憤慨しておりました。私はその隣について、彼はしきりに私の方を見るのです。そして同意を求めるのです。それはそうだなあと相づちを打っている内に、予定の通り、全部が全部来なかった。半分よりちょっと多かったように思いますが、天野が判断しておりますとおり、列席者は、所謂北、西田派では山口一太郎大尉、柴有時大尉、目黒茂臣という大尉です。柴有時大尉は、戸山学校の剣術の教官だったと思いますが、体操だったかもしりませんが、みなこの西田派から出てこられた方は、私たちより、二期先輩の、32期でございます。山口一太郎さんは、その時は技術本部員でございます。目黒大尉は、東京憲兵隊付、憲兵大尉でございます。その三人が来られました。首魁と言いますか、いろいろ、革新運動に携わる者として、将校として心得ておかなければならぬ事というような議題については、影佐さん、池田さんがいろいろと、池田さんは東大で聴講したほやほやの統制経済論などをぶたれまして、政治と経済の話をしきりにおっしゃって、非常に自重しなくてはいかんということを言っていらっしゃるのです。そのうちに、今田新太郎、この方は私たちより五期先輩の方です。この人が全然、我々の大同団結の方に持っていこうという趣旨ではなくて、この席で、10月事件以来の北、西田派に対する糾問が始まったわけです。我々は、大同団結をしようというのに、今田さんは、北、西田派を徹底的に糾弾するわけです。その矢面に32期3人が立っちゃったのです。その今田さんの話になんとかブレーキをかけようと思うのですが、具体的の例を挙げて、けしからんといわれる物ですから、もうどうにも収まりがつかないのです。
(後略)
『林秀澄氏談話速記録』2 p.30~31
・だいたいメンバーが揃いまして:林秀澄は陸軍内の皇道派vs統制派の派閥抗争がマスコミにも騒がれるようになったことを心配し、林を初めとする有志でその主なメンバーを会合させて仲直りをさせようとした。
・富士見荘:本当はこの会合を偕行社(陸軍将校の互助会)でする予定だったが、予約を取り損ねてしまい、千鳥ヶ淵にあったこのレストランになったらしい。
・差出人の女の名前:林の談話によると、郵便局が速達を受付から20分過ぎたからといって受け付けてくれなかったので、各招待者の勤務先の部署宛に直接出さざるをえず、そうなると会合の名前を書いておくと思いきり非関係者に見られたときに警戒されてしまうので、わざと架空の女の名前を書いてごまかしたとのこと。
・辻政信:相変わらず世間の期待を裏切らない行動っぷりには苦笑せざるを得ない…
・天野:天野勇。林と共にこの会合の発起人の一人。ちなみに、皇道派幹部の一人・満井佐吉がどうも苦手だったらしい(林秀澄も)
・予定の通り:予定では30人ぐらいだったらしい
・天野が判断しておりますとおり:天野は「皇道派の首魁は大蔵栄一だから、大蔵一人に招待状を出しておいたら、大蔵本人は来ないが代理人を何人かよこしてくるだろう」と推測していた。
・北・西田派:ご存じの通り、北一輝+西田税のことである
・山口一太郎:今までも何回か登場した皇道派将校、岳父は満州事変に巻き込まれた関東軍司令官(当時)・本庄繁
・柴有時:こういう人
・目黒茂臣:こちらのサイトによると陸士33期、終戦時には朝鮮憲兵隊所属(光州地区憲兵隊長)
・影佐さん:何回も登場した影佐貞昭
・池田さん:これまた何回も登場した池田純久 なお影佐、池田、片倉衷は「絶対に連れてこなければいけないメンバー」(林秀澄談)として、林が無理矢理にでもこの会合に連れてくることになっていたらしい。
・東大で聴講した:池田純久は東京大学経済学部の聴講生になっていた。
しかし、このコピー読んだときには申し訳ないけど爆笑してしまいました…今田強烈すぎる…と言うか空気を…(^^;)
なお、この後影佐貞昭がなんとか仲裁に入って座を持たせたそうなんですが、その間何分ぐらいか分かりませんが、今田のつるし上げに曝され続けた3人…同情申し上げますヾ(^^;)
しかし、この証言から見える今田は明らかに「統制派将校」(それもかなり強硬派)ですな。
…何が嬉しくて真崎甚三郎にシュークリームを持って行ったのか(ヲイ)
さて、この記述ですが、恐らく以前に紹介したこのエントリのこの話と関わりがある物と思います。
大蔵の著書によれば、昭和8年11月16日、幕僚側と少壮将校(尉官級)が最後に決裂した偕行社の会合に出席した者は、佐官級、中佐-牟田口廉也(蘆構橋事件の指導者)、土橋勇逸、下山琢磨。少佐-池田純久、田中清、片倉衷、今田新太郎。尉官級、大尉-柴豪雄、常岡滝雄、目黒茂、山口一太郎、大蔵。中尉-磯部浅一。恐らく同一と思われる話は、『日本政党史論』第6巻第16章第2節p.140~142「偕行社の会合」でも紹介されている。
大蔵の記憶によれば、牟田口中佐が発言して、陸軍部内の大同団結を強調し、青年将校の行動を抑制しようとするものであった。のっけから大蔵等の言い分を聞こうとする態度ではなかった。すべてが高圧的であった。「これでは話が違う。おい、大蔵帰ろう」と、柴大尉が憤然として立ち上がった。その間20分ぐらいだったという。
大蔵の記述によると、この会合は11月6日から始まったので、最初の会合は満井佐吉、馬奈木敬信、例の辻政信、憲兵の塚本誠(前記二人は片倉衷と共に、後、11月事件をでっち上げた張本人)が出席した。この会合は全く呉越同舟と言うより、敵味方が真っ正面から対座したようなもので、はじめからまとまるものではなかった。これが最後となって、2.26事件まで血で血を洗う両派の抗争を生んだ歴史的なものであった。
p.43~44
1933年11月(荒木陸将が内政会議で高橋蔵相を相手に奮闘している最中)(中略)16日九段の偕行社で幕僚と青年将校運動の指導者とが一堂に会した。青年将校側は、「首脳部推進と少壮青年将校の大同団結促進とのため」、この会合を計画したとなし、幕僚側は「内外に対する軍の施策を容易ならしめるため、青年将校の軽挙妄動を戒め上下の意思を疎通し国軍の団結に動揺なからしめ、軍の統制を全からしむるに資せん」がため会合したのである。出席者は、牟田口廉造、清水規矩、土橋勇逸、武藤章、下山琢磨、田副登、満井佐吉各中佐、池田純久、田中清、今田新太郎各少佐、片倉衷、常岡滝雄、山口一太郎、柴有時、目黒茂臣、村中孝次、大蔵栄一各大尉、磯部浅一二等主計。(後略)参考?「鈴木貞一日記(昭和8年)」
p.140
9.28この頃の今田は、まだ石原莞爾よりは鈴木貞一の影響が強いようなんで
(中略)
三、片倉大尉来訪、青年将校と西田税との関係を述ふ。予はこれに対し国軍は三長官中心にて進むべきを述ふ。浪人には浪人の長短有り、将校が浪人に従う如きは断じて不可なりと告げ置けり
(後略)
※下線は当方補足
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