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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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久々の資料紹介です。
今回は今田の師匠・石原莞爾のブレーンで、親友でもあった浅原健三という人の伝記
反逆の獅子―陸軍に不戦工作を仕掛けた男・浅原健三の生涯
から。
実は平成14年頃に遺族の家から浅原健三の覚え書きが見つかり、それに基づいた今まで知られてなかった記述が多いです。あと、健三の子供達(と言ってもかなりお年ですが)へのインタビューもちらほら。なので、かなりレアな情報が多かった…。
今田新太郎関連以外のことでも気になる部分は抜粋していきたいと思います。

ではまいる。

拍手[1回]


その頃、政治から去る決意をした浅原の頭には、奇想天外な野望があった。
大衆に支えられた議会演説によって帝国主義に対抗できないならば、当時、最強の権力機関であった日本陸軍の奥深くに潜入して、軍の思想そのものを変えてしまおうというのである。実力派の陸軍軍人をいわば"赤化"することで、侵略の足を止めるという前代未聞の策謀であった。大衆への期待を捨てた浅原は、扇動する対象を軍人に切り替えたわけである。
もともと、その奇抜な計画は浅原自身の腹の中にあったものではなかった。政友会の幹事長・森恪と面会したのがきっかけで、芽生え始めた物である。森恪は実業界から転身した政治家で、犬養内閣で内閣書記官長についた政界の実力者であった。総選挙に落選した直後に、浅原は森と会って、軍潜入を進められるのである。
森はこんな話をした。
「アジアが結束しなければ、欧米には敵しえない。アジアを代表するものは日華だ。ところが、満州事変はこの日華の間の危険信号になった」
外務政務次官の時代に、「東方会議」を主催した経歴があるだけに、険悪さを増していく日中関係に森自身も危機感を深めていたのであろう。
「今の軍の傾向からすると、あるいは日華はただ力関係のみが物を言う戦争になるかも知れない」
森はさらにつづけた。
「自分が知った軍人の中で、石原という男は変わっているようだ。対ソ関係に重点を置いて、日華は徹頭徹尾親善でいこうという思想だ。」
「…」
森は陸軍では皇道派と呼ばれた荒木貞夫や真崎甚三郎という二人の大将と親しい関係だった。しかし、信頼を寄せる軍人としては、小畑敏四郎と石原莞爾の名前を挙げたという。
「私は石原とはわずかに三回しか会っていないけれど、軍でともに語れるのは石原だ」
この話を浅原は少なからぬ驚きをもって聞いた。満州侵略の実質的な指導者である石原が、日中親善を思い描いているとは、信じられない思いがした。森自身はこうも言った。
「満州事変の立役者だが、石原の満州建国は対ソ戦術からのみの満州軍備で、中国に対してはむしろ日華親善の力として、中国の防衛のために日本の満州軍備を役立たせよとする考えのようだ。このような考えで進めば、アジアの提携は出来る。他の軍人は政権欲や名誉心ばかりで、理想などは取るに足らない。名も地位もいらないという奴でないと、非常時の日本はもっていけない」
森は浅原にこう勧めた。
「君は満州事変には無産政党議員として反対したようだが、それはそれとして、この石原と手を握ってはいかがか。満州はもう取ってしまったんだ。今さら反対してもしようがない。それより軍に入り込んで、君の理想とする物を実現してはどうか」
「…」
「だからお前は石原莞爾と共にやっていけ」
p.102~104
森恪という人は、ちょっとネットで検索した程度ですが、かなり毀誉褒貶の激しい政治家のようですな。嫌いな人は嫌い、好きなひとは好きという。大分前に石原莞爾関連でネタにした犬養道子氏は確か大嫌いな人物として明言していたようなおぼろな記憶(祖父・犬養毅をはめた黒幕が森恪だ!と言う言い方だったような)なお、石原莞爾のブレーンとして浅原と共に活躍した十河信二も森恪の秘書だった経歴があった。
それにしても森恪も信頼できる軍人は小畑敏四郎に石原莞爾だったんですか。今田と一緒じゃな。
宇垣内閣が流産に終わった1月29日夜のことである。
午後8時頃、京都の中川小十郎から浅原健三のもとに電話があった。中川は立命館大学の創始者で、最後の元老・西園寺公望の秘書役でもあった。
「おめでとう。いやあ、来たな!」
中川は開口一番、そう言った。西園寺が後継首相に林銑十郎を奏請した。その朗報を中川が旧知の間柄であった浅原に、わざわざ知らせてくれたのである。仮面をかぶった社会主義者の浅原が、内閣を一つ、作った瞬間であった。二つの内閣を打倒し、政権奪取五ヶ年計画が現実の像をむすんだ瞬間であった。
軍への潜入活動を初めて五年。自分の思いのままになる首相を作り上げようと明け暮れた5年間であった。緊張を高める一方の日中関係を思い、戦争突入を阻止するために作ったロボット首相であった。浅原はこう書いた。
「林内閣の指名は支那事変をくい止めると言うことである。そして革新政策は国内の産業改革をやる。国内産業の飛躍的増強である」
その頃浅原は虎ノ門にあった木像3階建ての「芝虎館」と言う古びた旅館を定宿とし、事務所を置いていた。中川小十郎からの祝電を受け取ると、すかさず浅原は旅館を飛び出した。向かった先は千駄ヶ谷の林邸である。
p.139
この本でも出てくるのですが、中川小十郎は石原莞爾に好意的でしたが、西園寺公望のもう一人の秘書・原田熊雄は蛇蝎の如く石原を嫌っていたらしく、彼の日記『西園寺公と政局』で石原莞爾に好意的な書き方をしているのが3箇所に対し、明らかに悪意を見せているのが15箇所だったそうです(『石原莞爾 生涯とその時代』なお、元ネタは五百旗頭真氏の論文らしい)。しかもこれが後々まで石原莞爾の足を引っ張るという…。
石原莞爾の元に、藤山愛一郎が訪ねてきた。
藤山は戦後は政界入りしたが、戦前は大日本製糖などの社長を務める財界人だった。
「池田成彬の使いである」と、藤山は言った。池田は三井財閥の総帥で、後に入閣する財界の巨頭である。
「ぜひ、近衛さんにあって欲しい」
藤山は石原に言った。
「近衛さんが支那事変の将来をぜひ聞きたいといっておられます。ぜひ会って貰いたい。」
なんといっても近衛は首相であり、戦争回避を図っていた石原にとっては、藤山が求めた近衛との会談は願ってもないことだったはずだ。二人の会話をほぼ口述原稿に基づいて記したい。
近衛に向かって、石原はまずこう言った。
「支那事変は大変なことです。自分は軍の中にいて、極力、拡大に反対する。反対するが、軍人は戦争をするのが商売だ。それをくい止めるのは、あなただけだ。あなたが『やらない』と命令することです。天皇の名において命令することです。」
近衛は納得のいかない様子で、反論した。
「そういうことを命令したら、陸軍が承知せんだろう。海軍も承服せんだろう。末次信正はもう賛成している。もう仕方がない。やらざるを得ない」
戦争を決意しなければ、内乱が起こるだろうとも、近衛は言った。
「陸軍も右翼浪人も暴れるだろう」
それが最も近衛が恐れたことだったのかも知れない。石原は詰め寄った。
「内乱が怖いから、外乱を起こすんですか。内乱なんて起こりはしない。軍人を百人ばかり飛ばしてしまい、右翼は百人ばかり引っ張ってしまえばいい」
「…」
近衛はそれでも要領を得ない雰囲気だった。そのとき、石原は痛烈なたとえ話を持ち出したという。
「保元の乱の時、鎮西八郎為朝が今日、夜討ちをかけるべきだと言った。藤原頼長という公卿さんは、『それはいかん。正々堂々と戦うべきだ』。こう言って、負けてしまった…」
楠正成も持ち出した。
「楠正成が都に上ってくる足利尊氏の軍を『京都に入れて、ひっくるめて焼いてしまおう』と言ったときに、ある公卿さんが『そういう卑怯な態度はない。打って出て、正々堂々、戦うべきだ』と言ったそうだ。仕方なしに楠木正成は、湊川に戦死覚悟で行った。功績はいかがですか。」
「…」
辛辣無比だった。公卿とは近衛そのものを指しているのである。近衛は真っ青になったという。
「もってのほかだ」、とうめくように漏らし、石原にこう尋ねた。
「支那と戦争になったら、見通しはないんですか」
「そうですね、三十年かかるでしょうね」
「…」
なぜ三十年なのか、近衛は全く理由をつかみかねている様子だった。しかし、途方もない戦争になるという非常な怖さを覚えた。
首相の近衛文麿と参謀本部作戦部長の石原莞爾との極秘会談は、こんなやりとりで終わった。
余波は瞬く間に襲ってきた。石原が近衛と会った2日後に、ある噂話が軍部内を駆け巡ったという。
「参謀本部は総理大臣と直接面会して、廬溝橋事件打ちきりという意見を具申した。とんでもないことだ。けしからん。」
そんな中味であったが、その噂を流したのは、意外にも石原の部下である作戦課長の武藤章であった。武藤章は極秘会談の話をある事業家から聞いている。浅原はその人物を「石原産業の石原広一郎だった」と記している。石原産業は戦時中、鉄鉱石やボーキサイトなど重要資源を独占的に取り引きして、莫大な利益を上げた新興財閥である。
噂が広まるや、参謀本部内は狼狽と憤慨が入り乱れたような混乱状態になった。また、そんな参謀本部の模様を伝え聞いた近衛は、再び黙り込んでしまったという。
p.165~167
<毎度恒例あてにならない補足>
※既に文中で説明がある人物は除いています。
・末次信正:当時海軍軍令部部長
・鎮西八郎為朝:源為朝 源義朝の異母弟。去年の大河『平清盛』でモビルスーツとなって登場した姿を覚えている人…いますかね(^^;)
・藤原頼長:去年の大河『平清盛』で山本耕史が怪演した人 あの麻呂は結構私は好きだった
・楠正成:楠木正成
・武藤章:当時はこの文中に描いてあるように莞爾の直属部下、後軍務局長。この時は好戦派だったが、日米が不和になると、非戦派となる。が、部下の田中新一ら好戦派に押し切られ日米は開戦、更に東条英機とも対立して左遷された…という、石原莞爾の運命を追っかけた人。

かなり長くなったので、いったん斬ります。
まだまだあるのだ~
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