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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
昨日、ネットで「ザクザクババア川」という川が埼玉県に実在していると言うことが話題になっていたが、
ここまで強烈ではないが、兵庫県神戸市にも貧乏川というのがありましてな

では本題

今までのお話はこの辺り 

先日こういう本を入手したのだが
この本のp.214~215にこんな話が出ている。
秀次と一の台の婚姻
(中略)
秀次が正室として迎えた相手は、一の台という女性であった。一の台は、公家の菊亭晴季の娘である。晴季は、最後は右大臣にまで上り詰めた人物である。『菊亭家譜』によると、晴季の長女として一の台が誕生していることを確認できる(中略)
では、なぜ秀次は一の台を、妻として迎えたのだろうか。そのあたりは、義父である秀吉の思惑が絡んでいる。
先述したとおり、「関白争論」を契機として、秀吉と深いつながりをもったのが菊亭晴季であった。朝廷、公家への対策という点で、秀吉は晴季を重用するようになる。となると、両者はその関係を、更に強固なものにする必要があった。その一つの方法こそが、結婚を介した物だったのである。
秀次と一の台が結婚した時期は、明らかにされていないが、秀吉が関白に就任前後の天正13,14(1585,86)頃が有力視されている。(後略)
渡辺大門氏は「一の台=豊臣秀次の正室」説なんだろうか。いや、この文をそのまま読むとそうなるけれども。
というか、豊臣秀次の閨累関係をちゃんと整理した論文とか本とかあるんだろうか…

<追記>
『真田丸』では秀次ご昇天されてしまいましたな 狙ってこのネタ振ったつもりはなかったんだが、ご冥福をお祈りします

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雑談
拙ブログのアクセス記録を見ていたら、某日に「ec2-5○-6○-15○-20○.ap-northeast-1.compute.amazonaws.co」と言うIPアドレスから10分間ぐらいの間にものすごい回数で見られていたのな。
あんまり見かけないIPアドレスなんで、調べてみると、どうもここからのアクセスらしい…(○。○)
ここはそんな所に勤務している様な人が見るような大層なこと書いているブログじゃないはずなんですが?!



…気を取り直して
とても古い話ですが、「黒田家文書の島津さん」に出演された某氏(^^;)がちょっと関係しているのでご紹介。

2015年5月某日、恒例の春の京都の非公開文化財の特別公開に行って参りました
19カ所が公開されたのですが、日ごろ行きにくいところとか見せてくれないところを勘案して3カ所に絞りました。

「つづきはこちら」をクリックぷりーず。


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拙ブログ関連ネタ こちら



以前、神戸市立博物館所蔵の「南蛮屏風」と言うのをネタにしたときに、この元所蔵者だった池長孟の名前をちらっと出したことがある。
先日、何かの用事でこの池長氏をネットで調べたのだが、まさしく戦前のお大尽だったようである…
何回か結婚されたようなんだが、その妻の一人にあの淀川長治の姉がいたそうである。そしてその新居として建てたのがこの家だとか。
こちら
ちなみに建てられたのは昭和3年(1928年)。世界大恐慌のまっただ中でこの豪邸建てたと言うんですから、生前の池長氏の富豪ぶりがうかがえます。
で、結婚ほやほやでデレデレ状態だった(はずの)池長氏は、長治姉の要望を聞いてダンスホールを造ったりと凝った設計にしたのです が、長治の姉は中々派手な性格で結婚向きじゃなかった女性のようで(^^;)結局数年で離婚に到ったとか云々…

そしてこの豪邸は戦後、池長のコレクションを維持するために華僑系の医師に売却されます。昭和21年(1946年)のことでした。
しかし、それを持ってしても池長のコレクションにかかってくる財産税はGHQ支配下の日本ではうなぎ登りに高騰、弱みにつけ込んで池長のコレクションを買いたたこうと狙ってくる美術品ブローカーも多かったらしく、コレクション散逸を恐れた池長は、結局昭和27年(1952年)にコレクションを神戸市に丸ごと寄贈します。それらを元にして作られたのが神戸市立博物館というわけです。

…で、医者に売却された豪邸のその後ですが
その後も病院として使われていました。
(続きは「つづきはこちら」をクリック)

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いや、最近こちらのブログは見てなかったので本当に申し訳ない
義久ゆかりのおかし・ふっかん
義久ゆかりのおかし・ふっかん 追記

義弘ゆかりのお菓子・加治木饅頭は私も知っていたし実は食べたこともあるのだが、義久にはそういうもんは伝わってないんだろうな~と何となく思いこんでいた。だって影薄いし義久ヾ(--;)
今回そういう物が存在するのを知って、何かうれしいです。

…が、内容をよく読むと、地元の人にもほとんど知名度0だったらしい⊂(。Д。⊂⌒`つ
日持ちしないというのが理由らしいですが、それだけなのかなあ。


関連 これまた日持ちしない佐土原島津家縁のくじらまんじゅう(鯨羊羹)
何で宮崎も鹿児島も暑いとこなのに日持ちしない物が名物…

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第1話はこちら
第2話はこちら



宝永5年(1708年)2月、尾張藩主・徳川吉通の妹の磯姫が綱吉の希望により養女となり、「松姫」と改名します。これは政略結婚のための養子縁組で、同年4月9日には加賀藩世子・前田幸徳(藩主綱紀の子、「幸徳」は林氏の誤字で正しくは「前田吉徳」)と婚約します。その2日後の4月11日には老中・秋元喬知が松姫輿入れの責任者と決定します。
「松尾相匡日記」の4月18日条、秋元喬知より将軍命令として梅津が松姫付き上臈となったことを記しています。秋元は梅津を大奥出仕する頃から知っており推薦した物と思われます。また、梅津も支援者であった右衛門佐が死んだこともあり、大奥に居づらい物があったのかも知れません。
同年11月17日に松姫は江戸の加賀藩邸に輿入れします。この時に梅津も大奥を引き払い加賀藩邸に移ったと思われますが、松尾相匡日記には記載が無く詳細は不明です(林氏の考察では多忙で弟に連絡するひまがなかったんじゃないかと p.217)。前田家世子の「御守殿様」となった松姫、将軍の娘をもらうとともかく金がかかることは大分前に拙ブログの竹姫の話でも書きましたが、この松姫の場合でも
・縁談決定(宝永5年4月)と同時に松姫御殿の工事を始めたが、加賀藩お抱えの大工では足りず、江戸からも大工600人を臨時雇用した
と突貫工事+臨時出費は大変な物だったようです。またその気遣いは松姫だけに限らず、お付き女中にまで及んでいました。参考文献に寄れば、梅津の部屋はその候名にあやかって襖紙から備え付けの家具まですべて梅の意匠でそろえられたそうです。私の感覚から言うとtoo much過ぎるような気がしますが…江戸時代の武家のセンスではそれがいいことだったんでしょうね。

その後しばらくは梅津は松姫付きの上臈として加賀藩屋敷で過ごしていたと思われます。
また年度不明ながら駿河台に休息屋敷を拝領していましたが、相匡日記享保2年(1717年)1月29日条によるとこの屋敷は大火によって焼けてしまったそうです。が、その後下谷長者町(現在の東京都上野3丁目辺り)にあった「下屋敷」に引っ越したと言うことから、大名並に上屋敷と下屋敷を持っていたようです。

しかし晩年の梅津は親しい人に先立たれる不幸に見舞われます。
享保5年(1720年)7月、養女の見保が25歳の若さで産褥で死去。
そのわずか2ヶ月後の9月20日には主人の松姫が22歳で急逝します。26日に松姫の葬儀が行われ、その翌日27日には梅津は出家、以後は「演慈院」と名乗り、加賀藩の屋敷を去って駿河台の拝領屋敷に移ります。
松姫の女中は梅津が京からリクルートしてきた公家関係の娘が多かったようで、そのうち2人は梅津に頼んで大奥女中に転身しますが(林氏によるとそのうちの一人が中園宰相季定女・上臈豊岡らしい)、ほとんどは暇をもらい京都に帰ってしまったようです。梅津のように出家して松姫の菩提を弔ったのは梅津を入れても5人だけでした。

すでに67歳となっていた梅津にとり、年若い養女(実は姪)と主人が連続して早世したことは非常なショックだったようで、翌年には重い病気で倒れてしまいます。相匡日記の享保6年(1721年)10月22日条では梅津の病状が思わしくないことが記述されています。相匡も事態を重く見て、院(たぶん霊元院?)の許しを得て翌年2月21日に京を出発、3月2日の夜中に梅津の駿河台屋敷に到着します。将軍側詰の医師・松庵ともう一人の医師が交代で無休で看護していましたが、回復は望み薄だった様子が相匡日記に綴られているそうです。相匡も3月6日に娘(梅津の養女・務津)の婚家先である永見家を訪問した以外はずっと姉の看病に当たっていましたが、容態は思わしくありませんでした。
3月8日には将軍御側医師・橘隆庵が使わされ、当時の将軍・徳川吉宗からも見舞いの使者が送られ、15日には養安院法印という医師も加わりますが病状は良くならなかったらしく、その日の夕方には祐天寺から和尚がおそらく祈祷のために招かれていますが、梅津はこの和尚に遺言めいたことを言ったようです。16日には梅津は使用人達に礼と別れを告げ、源空寺の和尚より法号「慈光院天誉華月貞春」を授かります。17日の相匡日記には「昼夜静カニ伏シテ仏名ヲ唱エラレ、一家ニコレヲ示サル」とだけ綴られているそうです。
その翌日の18日未明、演慈院こと梅津死去。享年69歳。41歳になって婚家が断絶、それから大奥奉公という気苦労の多い生涯を選びますが、弟が遠路はるばる京都からやってきて看取られたのは幸運だったと思います。
法名を授けてくれた源空寺に葬られたと言うことですが、相匡の子孫が昭和になってから探したものの、度重なる火災と東京大空襲により墓は不明になっているということです。



いかがでしたでしょうか。
江戸時代中期の高級大奥女中のかなり裕福な生活と同時に貧乏公家のサバイバルヾ(^^;)とか、なかなかいろんな事情をかいま見ることの出来る人物ではないかと。
興味深いのは大名正室であったにもかかわらず、たびたび京の実家に帰省しているらしいこと。通説では「入り鉄砲出女」で大名正室が江戸を出るのは無理だったはずなのですが、この辺は今後の研究が待たれる所です。

うーん、しかし何で知名度低いのかな。
紹介されたのが歴史関係雑誌じゃない『新潮45』だからなんだろうか。学術論文に引用するときにタイトル書くのがはばかられるとかヾ(--;)


参考文献:「京女の見た元禄「大奥物語」」林英夫(『新潮45』昭和62年11月号)

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