拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
5月22日の『真田丸』では徳川家康が小松姫(本多忠勝の娘)を真田信幸に押しつけたため、それまでいた病弱の正室が側室に追われてしまうという哀しいシーンがありました。
この話、今回紹介されるまで私は知らなかったです(信幸は小松姫が初婚かと思っていたんだよ ごめんよ草葉の陰のいろんな人たちヾ(^^;))
さて、大名の正室といえば安泰
…
と思われがちですが、全然そうではなく、信幸の先室のように御家の事情でその地位から追われてしまうことがわりとあったようです。
管見で見た限りで例示してみる。
思いだした順なので時系列は無茶苦茶ですヾ(^^;)
・黒田長政 先室:蜂須賀小六の娘(糸) 後室:徳川家康養女(栄) 先室は離婚、実家に返される
これは2年前の大河『軍師官兵衛』でしっかりやっていたからご記憶の方も多いかと 拙ブログではこの辺
・池田輝政 先室:中川清秀の娘(糸) 後室:徳川家康の娘(督) 先室は離婚、実家へ返される
城は有名な池田輝政ですが、内輪ではこんな悲惨な家族事情があったんです…マニアには有名な話かと
・津軽信牧 先室:石田三成の娘(辰) 後室:徳川家康養女(満天) 先室は側室に降格
三成マニアには有名な話かもですね
・浅野長晟 先室:詳細未詳(ごめんなさい) 後室:徳川家康の娘(振) 先室は側室に降格
長晟は兄・幸長の急逝で急に跡継いだのが原因で、家康の娘を押しつけられこうなったのでした。
大名ではないですが、島津家中の有名分家でもこういう例がある。
・島津久元 先室:新納忠増の娘 後室:島津義弘の娘(御下) 先室は離婚、その後の消息は未詳
4例とも、自分より上意の者の命令で政略結婚を押しつけられ、御家安泰を考えて先室を追い出す…という形になったと考えられます。が!!!黒田長政の場合はちょっと違うかもしれないがヾ(--;)
この中で特殊なのが津軽信牧。先室は離婚せず、側室に降格された上、津軽家の飛び地に住まわされるという待遇になります。これは、先室の実父があの石田三成であり、もはや戻る実家もなく、かといって追放するにも忍びなくこういう扱いになったようです。
真田信幸の先室も、実家はすでになかったと考えられ(実家は信幸の伯父の家だが、長篠の戦いで父が戦死し、家督は信幸の父・昌幸が継いでいた)、離婚するよりは側室扱いのほうがまだマシかも、という事情があったと考えられます。
正室の座を追われ、側室に転落…というのは本当に悲惨ですが、出戻り出来る実家もないからという事情が背景にあるので、本当に当事者には過酷なものだったでしょう。まさしく「耐えがたきを耐え」。
この話、今回紹介されるまで私は知らなかったです(信幸は小松姫が初婚かと思っていたんだよ ごめんよ草葉の陰のいろんな人たちヾ(^^;))
さて、大名の正室といえば安泰
…
と思われがちですが、全然そうではなく、信幸の先室のように御家の事情でその地位から追われてしまうことがわりとあったようです。
管見で見た限りで例示してみる。
思いだした順なので時系列は無茶苦茶ですヾ(^^;)
・黒田長政 先室:蜂須賀小六の娘(糸) 後室:徳川家康養女(栄) 先室は離婚、実家に返される
これは2年前の大河『軍師官兵衛』でしっかりやっていたからご記憶の方も多いかと 拙ブログではこの辺
・池田輝政 先室:中川清秀の娘(糸) 後室:徳川家康の娘(督) 先室は離婚、実家へ返される
城は有名な池田輝政ですが、内輪ではこんな悲惨な家族事情があったんです…マニアには有名な話かと
・津軽信牧 先室:石田三成の娘(辰) 後室:徳川家康養女(満天) 先室は側室に降格
三成マニアには有名な話かもですね
・浅野長晟 先室:詳細未詳(ごめんなさい) 後室:徳川家康の娘(振) 先室は側室に降格
長晟は兄・幸長の急逝で急に跡継いだのが原因で、家康の娘を押しつけられこうなったのでした。
大名ではないですが、島津家中の有名分家でもこういう例がある。
・島津久元 先室:新納忠増の娘 後室:島津義弘の娘(御下) 先室は離婚、その後の消息は未詳
4例とも、自分より上意の者の命令で政略結婚を押しつけられ、御家安泰を考えて先室を追い出す…という形になったと考えられます。が!!!黒田長政の場合はちょっと違うかもしれないがヾ(--;)
この中で特殊なのが津軽信牧。先室は離婚せず、側室に降格された上、津軽家の飛び地に住まわされるという待遇になります。これは、先室の実父があの石田三成であり、もはや戻る実家もなく、かといって追放するにも忍びなくこういう扱いになったようです。
真田信幸の先室も、実家はすでになかったと考えられ(実家は信幸の伯父の家だが、長篠の戦いで父が戦死し、家督は信幸の父・昌幸が継いでいた)、離婚するよりは側室扱いのほうがまだマシかも、という事情があったと考えられます。
正室の座を追われ、側室に転落…というのは本当に悲惨ですが、出戻り出来る実家もないからという事情が背景にあるので、本当に当事者には過酷なものだったでしょう。まさしく「耐えがたきを耐え」。
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前の話はこちら
下級公家・松尾相氏の娘であったシゲは備中松山藩5万石の殿であった水谷勝宗の後妻に迎えられ、子供はいなかった物の、婚家には優遇される安泰の人生をつかんだかと思われました。
が、元禄初期に夫、義理の息子、その末期養子が次々と死んでしまったことで水谷家は断絶、シゲも実家に帰される身の上となります
…
ところが、そのころ江戸城大奥で起こっていた権力争いによって、シゲは再び江戸に戻ることとなるのです。
延宝8年(1680年)、4代将軍徳川家綱が子供無く死去したことにより、弟の綱吉が5代目の将軍となります。
綱吉には五摂家の鷹司家から迎えた信子という正室がいましたが二人の間には子供が無く、下級武士出身の側室・お伝の方との間に男子1人+女子1人の子供がおり、また綱吉の生母・桂昌院がお伝の方を支持したために、正室vs側室のバトルが勃発したことは数多くの大奥ドラマのネタにされていて非常に有名です。
子供が無く形勢不利の鷹司信子は、姉の新上西門院・鷹司房子に加勢を依頼、房子の推薦で大奥に送り込まれたのが公家・水無瀬家の姫で房子の女房を勤めていた”常盤井”-後の”右衛門佐”です。
右衛門佐の学才はたちまちにして綱吉の目に留まり、林英夫氏によると元禄3年(1690年)に京都から北村季吟・湖春親子が幕府歌学方に、その後住吉具慶が幕府御用絵師に、また能役者中山喜兵衛・狂言師脇本作左衛門が幕府召し抱えになったのも右衛門佐の推挙によるものだそうです。ちなみに北村季吟は右衛門佐の師匠だったとか。
このようにして綱吉の歓心を得ることに成功した右衛門佐が、大奥を自分の腹心で固めようとしたことは容易に想像できます。この時に候補に挙がったのが、元禄7年に京の実家に戻されてしまった松尾シゲでした。
水無瀬家はシゲの大叔父・松尾相行(松尾大社神主)の正室の実家であること、天和3年(1683)の中宮立后に於いて右衛門佐(当時”常盤井”)が上臈、シゲの妹・”越前局”が下臈として勤侍したことなどから水無瀬家と松尾家は親しい関係だったのではないかと林氏は推測しています(p.215)。
シゲが公家社会ばかりでなく、元大名正室として武家社会にも詳しいと思われることが決め手になったと考えられます。
元禄7年(1694年)10月25日の松尾相匡日記には「江戸御本丸女中右衛門佐殿ヨリ書状到来、関東下向アルベシ、里亭ニ御在留ノ後、御城勤仕ノ沙汰アル由、示シ来ル」とあり、ここからシゲが実家に戻されてすぐに右衛門佐からのリクルートは始まっていたと思われます。それに対するシゲの反応は参考文献に記載無く不明ですが、京の実家で平穏に余生を過ごすか、多額の金品と引き替えに噂には漏れ聞いていたであろう修羅場の大奥に行くか、非常に迷ったことと推測されます。
しかし、翌年元禄8年2月15日の松尾相匡日記では「鷹司殿ノ御使高橋土佐守ガ、関東下向ニツキ、コノサイニ梅津ニ同道シテ江戸ニ来テホシイ旨」と書かれていることから、結局、シゲは右衛門佐の熱心な勧誘に負けたものと思われます。
翌日の2月16日には母の栄正院、妹・越前局、弟・相匡と召使い2人を連れて祇園舎(現在の八坂神社)、下鴨本明院(詳細未詳)、清水寺を参詣し、2月19日には槙尾山心王院(現在の西明寺か)で夫・水谷勝宗7回忌法要を行っています。林氏の考察の通り、シゲの江戸下向が決まって、最後の家族旅行を行った物と思われます。大奥の高級女中になると簡単に江戸城から出ることが出来なくなるのは皆様ご存じの通りで、松尾一家は今生の別れを覚悟したことでしょう。
そして2月23日の午前6時、夜明けと同時にシゲは故郷の京を出発します。大津(現在の滋賀県大津市)までは弟・相匡が見送りに付いてきてくれました。松尾家所蔵の同年3月中頃の右衛門佐→栄正院の書状でシゲの江戸到着を知らせていることから、京から江戸まで1ヶ月弱かかったことがわかります。
4月30日、シゲは江戸城本丸大奥の右衛門佐の局に入り、仮の名”ラク”を与えられます。
5月2日には御広敷に伺候し、右衛門佐の案内で若年寄・秋元喬知に伺候、「上臈品(じょうろうほん)」の地位につけられます。松尾相匡日記では「(上臈品とは)当地公卿、殿上ノ息女、或ハ大名等ノ息女ナリ、眉目ノ躰ナリ」と書かれているそうです。本来「上臈品」は御客会釈(おきゃくあしらい)を勤めた後に就く職でしたが、ラク(元”シゲ”)はいきなり上臈品になります。林氏はラクが元大名の正室であったことからすぐに任じられたのではと考察しています。異例の事と思われ、相匡日記にあるように「眉目ノ躰(=大変な誉れ)」であったことは間違いないでしょう。
5月4日には御広敷で柳沢吉保、秋元喬知、右衛門佐の立ち会いの元、候名”梅津”を名乗るよう命じられます。但し、先述の元禄8年2月15日松尾相匡日記の記述からみると、正式に出仕する前から”梅津”を名乗ることは決まっていたかも知れません。ところで、参考文献では考察されていませんが、松尾大社の近くには現在も梅津の地名があり、その関連による名付けかと思われます。最も梅津は松尾大社じゃなくて梅宮大社の本拠地なんですが(^^;)
5月11日には初出仕を迎え、綱吉正室・鷹司信子から「懇詞」を賜り、「御服」一重を拝領したと梅津の手紙に書かれていたと相匡日記は綴っています。
その後10年近く、梅津は信子付きの上臈御年寄となっていたと思われます。
元禄14年(1701年)、弟・相匡の娘である務津(むつ、当時9歳)を養女とし、江戸に下向させて、3500石の旗本・永見心之丞に嫁がせています。
12年後の正徳三年(1713年)、務津の妹である見保(みほ)も養女として江戸に迎え、同年8月6日に旗本大番頭・高木九助の息子・酒之丞正栄に嫁がせています。
これは梅津が実家を救済するために縁組みをまとめたようで、相匡日記正徳4年(1714年)6月29日条には「予、些少トイエドモ姉梅津殿介抱ノ故也」と娘の縁談をまとめた梅津に感謝の文が綴られているそうです。江戸時代の中下級公家が貧乏だったのは拙ブログでも以前言及したことがありますが、社家の分家という立場の松尾家も似たような状況であったことは推測されます。梅津が右衛門佐の求めに応じて気苦労の多い大奥勤めを選んだのもそういう背景があったからと考えられます。また、当時の上流階級は一度親族関係を結ぶと贈答のやりとりがかなり盛んで、先述の梅津の姪(養女)たちも婚家先から実家にせっせと贈答の品を送っているのですが、これらが松尾家の家計の手助けになったことは言うまでもありません。
相匡日記によると、梅津は宝永3年(1706年)1月には将軍綱吉から御賞賜として「判金」を賜ります。この時に梅津は表御殿に出ることなく、老中・秋元喬知、若年寄・加藤明英が大奥の梅津の部屋に使わされて判金を受け取っています。これはとても名誉なことだったらしく、相匡日記には「部屋ニ於テ賜ルノ事、眉目タリ」と記されているそうです。
ところがその2ヶ月後の3月11日、梅津の支援者であった右衛門佐が小日向(現東京都文京区)の拝領屋敷で44歳で死去します。このことが梅津のその後に影響を与えたと思われます。
まだちょっと長くなりそうなので、ここでいったん切ります。
下級公家・松尾相氏の娘であったシゲは備中松山藩5万石の殿であった水谷勝宗の後妻に迎えられ、子供はいなかった物の、婚家には優遇される安泰の人生をつかんだかと思われました。
が、元禄初期に夫、義理の息子、その末期養子が次々と死んでしまったことで水谷家は断絶、シゲも実家に帰される身の上となります
…
ところが、そのころ江戸城大奥で起こっていた権力争いによって、シゲは再び江戸に戻ることとなるのです。
延宝8年(1680年)、4代将軍徳川家綱が子供無く死去したことにより、弟の綱吉が5代目の将軍となります。
綱吉には五摂家の鷹司家から迎えた信子という正室がいましたが二人の間には子供が無く、下級武士出身の側室・お伝の方との間に男子1人+女子1人の子供がおり、また綱吉の生母・桂昌院がお伝の方を支持したために、正室vs側室のバトルが勃発したことは数多くの大奥ドラマのネタにされていて非常に有名です。
子供が無く形勢不利の鷹司信子は、姉の新上西門院・鷹司房子に加勢を依頼、房子の推薦で大奥に送り込まれたのが公家・水無瀬家の姫で房子の女房を勤めていた”常盤井”-後の”右衛門佐”です。
右衛門佐の学才はたちまちにして綱吉の目に留まり、林英夫氏によると元禄3年(1690年)に京都から北村季吟・湖春親子が幕府歌学方に、その後住吉具慶が幕府御用絵師に、また能役者中山喜兵衛・狂言師脇本作左衛門が幕府召し抱えになったのも右衛門佐の推挙によるものだそうです。ちなみに北村季吟は右衛門佐の師匠だったとか。
このようにして綱吉の歓心を得ることに成功した右衛門佐が、大奥を自分の腹心で固めようとしたことは容易に想像できます。この時に候補に挙がったのが、元禄7年に京の実家に戻されてしまった松尾シゲでした。
水無瀬家はシゲの大叔父・松尾相行(松尾大社神主)の正室の実家であること、天和3年(1683)の中宮立后に於いて右衛門佐(当時”常盤井”)が上臈、シゲの妹・”越前局”が下臈として勤侍したことなどから水無瀬家と松尾家は親しい関係だったのではないかと林氏は推測しています(p.215)。
シゲが公家社会ばかりでなく、元大名正室として武家社会にも詳しいと思われることが決め手になったと考えられます。
元禄7年(1694年)10月25日の松尾相匡日記には「江戸御本丸女中右衛門佐殿ヨリ書状到来、関東下向アルベシ、里亭ニ御在留ノ後、御城勤仕ノ沙汰アル由、示シ来ル」とあり、ここからシゲが実家に戻されてすぐに右衛門佐からのリクルートは始まっていたと思われます。それに対するシゲの反応は参考文献に記載無く不明ですが、京の実家で平穏に余生を過ごすか、多額の金品と引き替えに噂には漏れ聞いていたであろう修羅場の大奥に行くか、非常に迷ったことと推測されます。
しかし、翌年元禄8年2月15日の松尾相匡日記では「鷹司殿ノ御使高橋土佐守ガ、関東下向ニツキ、コノサイニ梅津ニ同道シテ江戸ニ来テホシイ旨」と書かれていることから、結局、シゲは右衛門佐の熱心な勧誘に負けたものと思われます。
翌日の2月16日には母の栄正院、妹・越前局、弟・相匡と召使い2人を連れて祇園舎(現在の八坂神社)、下鴨本明院(詳細未詳)、清水寺を参詣し、2月19日には槙尾山心王院(現在の西明寺か)で夫・水谷勝宗7回忌法要を行っています。林氏の考察の通り、シゲの江戸下向が決まって、最後の家族旅行を行った物と思われます。大奥の高級女中になると簡単に江戸城から出ることが出来なくなるのは皆様ご存じの通りで、松尾一家は今生の別れを覚悟したことでしょう。
そして2月23日の午前6時、夜明けと同時にシゲは故郷の京を出発します。大津(現在の滋賀県大津市)までは弟・相匡が見送りに付いてきてくれました。松尾家所蔵の同年3月中頃の右衛門佐→栄正院の書状でシゲの江戸到着を知らせていることから、京から江戸まで1ヶ月弱かかったことがわかります。
4月30日、シゲは江戸城本丸大奥の右衛門佐の局に入り、仮の名”ラク”を与えられます。
5月2日には御広敷に伺候し、右衛門佐の案内で若年寄・秋元喬知に伺候、「上臈品(じょうろうほん)」の地位につけられます。松尾相匡日記では「(上臈品とは)当地公卿、殿上ノ息女、或ハ大名等ノ息女ナリ、眉目ノ躰ナリ」と書かれているそうです。本来「上臈品」は御客会釈(おきゃくあしらい)を勤めた後に就く職でしたが、ラク(元”シゲ”)はいきなり上臈品になります。林氏はラクが元大名の正室であったことからすぐに任じられたのではと考察しています。異例の事と思われ、相匡日記にあるように「眉目ノ躰(=大変な誉れ)」であったことは間違いないでしょう。
5月4日には御広敷で柳沢吉保、秋元喬知、右衛門佐の立ち会いの元、候名”梅津”を名乗るよう命じられます。但し、先述の元禄8年2月15日松尾相匡日記の記述からみると、正式に出仕する前から”梅津”を名乗ることは決まっていたかも知れません。ところで、参考文献では考察されていませんが、松尾大社の近くには現在も梅津の地名があり、その関連による名付けかと思われます。最も梅津は松尾大社じゃなくて梅宮大社の本拠地なんですが(^^;)
5月11日には初出仕を迎え、綱吉正室・鷹司信子から「懇詞」を賜り、「御服」一重を拝領したと梅津の手紙に書かれていたと相匡日記は綴っています。
その後10年近く、梅津は信子付きの上臈御年寄となっていたと思われます。
元禄14年(1701年)、弟・相匡の娘である務津(むつ、当時9歳)を養女とし、江戸に下向させて、3500石の旗本・永見心之丞に嫁がせています。
12年後の正徳三年(1713年)、務津の妹である見保(みほ)も養女として江戸に迎え、同年8月6日に旗本大番頭・高木九助の息子・酒之丞正栄に嫁がせています。
これは梅津が実家を救済するために縁組みをまとめたようで、相匡日記正徳4年(1714年)6月29日条には「予、些少トイエドモ姉梅津殿介抱ノ故也」と娘の縁談をまとめた梅津に感謝の文が綴られているそうです。江戸時代の中下級公家が貧乏だったのは拙ブログでも以前言及したことがありますが、社家の分家という立場の松尾家も似たような状況であったことは推測されます。梅津が右衛門佐の求めに応じて気苦労の多い大奥勤めを選んだのもそういう背景があったからと考えられます。また、当時の上流階級は一度親族関係を結ぶと贈答のやりとりがかなり盛んで、先述の梅津の姪(養女)たちも婚家先から実家にせっせと贈答の品を送っているのですが、これらが松尾家の家計の手助けになったことは言うまでもありません。
相匡日記によると、梅津は宝永3年(1706年)1月には将軍綱吉から御賞賜として「判金」を賜ります。この時に梅津は表御殿に出ることなく、老中・秋元喬知、若年寄・加藤明英が大奥の梅津の部屋に使わされて判金を受け取っています。これはとても名誉なことだったらしく、相匡日記には「部屋ニ於テ賜ルノ事、眉目タリ」と記されているそうです。
ところがその2ヶ月後の3月11日、梅津の支援者であった右衛門佐が小日向(現東京都文京区)の拝領屋敷で44歳で死去します。このことが梅津のその後に影響を与えたと思われます。
まだちょっと長くなりそうなので、ここでいったん切ります。
『ドリフターズ』の製造者らしいこの方のツイートで吹いてしまいましたw
で、今回は島津に関係ないネタ(本当にすみません…)
タイトルの人はBS-TBSの番組でちらっと紹介されたので気になって資料を取り寄せてみた。
一般向けに紹介されたのはかなり以前なのだが、ネットで検索しても余りヒットせず、知名度はかなり低い人のようだ。
しかしこの大奥人気の中、何でこんなに知名度が低いのか、勿体ないネタではある。
というのも、ほとんどまともな史料のない元禄時代の大奥女中について、かなり詳しいデータが判明しているほぼ唯一の人物なのである。と言うか大奥の御殿女中で生没年、経歴などここまで分かるのはこの人ぐらいらしい。
と言う事で紹介してみたりする。
興味のある方は下の「つづきはこちら」をクリックプリーズ。
で、今回は島津に関係ないネタ(本当にすみません…)
タイトルの人はBS-TBSの番組でちらっと紹介されたので気になって資料を取り寄せてみた。
一般向けに紹介されたのはかなり以前なのだが、ネットで検索しても余りヒットせず、知名度はかなり低い人のようだ。
しかしこの大奥人気の中、何でこんなに知名度が低いのか、勿体ないネタではある。
というのも、ほとんどまともな史料のない元禄時代の大奥女中について、かなり詳しいデータが判明しているほぼ唯一の人物なのである。と言うか大奥の御殿女中で生没年、経歴などここまで分かるのはこの人ぐらいらしい。
と言う事で紹介してみたりする。
興味のある方は下の「つづきはこちら」をクリックプリーズ。
前回放送時に見られなかった方+録画失敗した方はどうぞ
「戦国 奇跡の生き残り術・島津義久」2016年4月26日夜10:00~10:45 再放送決定
※但し、熊本の地震関係で中断・速報入りまくりの可能性があります
…かくいう私、まだ怖くて録画見てない(をい)
拙ブログ関連ネタこちら
「戦国 奇跡の生き残り術・島津義久」2016年4月26日夜10:00~10:45 再放送決定
※但し、熊本の地震関係で中断・速報入りまくりの可能性があります
…かくいう私、まだ怖くて録画見てない(をい)
拙ブログ関連ネタこちら
徳川幕府御用達の呉服屋・後藤縫殿助家には島津家がらみの伝承があり、以前拙ブログで紹介したことがある。
大橋局と「視聴草」
「後藤庄三郎由緒書」と「呉服師由緒書」1
「後藤庄三郎由緒書」と「呉服師由緒書」2
幕府の威光をバックに、恐らく大変な大金持ちであったろう後藤家だが、その後裔に当たるような店も調べた限りでは見あたらず、
が
後藤家のその後について書かれたコラムを見つけた。
日本史の森をゆく(中公新書)
これに所収された「江戸五品廻送令を再考する」(横山伊徳)で、幕末の後藤家について言及されている。
まずは「江戸五品廻送令」についてはこちら
前掲の横山コラムによると「幕府が江戸問屋を使って外国貿易統制を企てたものとして、幕府と江戸問屋との親和性を示していると考えられている。」(p.172)とする。
しかし横山氏によると、五品廻送令の前に、大老・井伊直弼がこれとは異なる輸出規制策を考えていたのだという。
突然の開国によって日本国内では急激な物不足とインフレが起こったのは有名な話だが、これに対して幕府は
1.生糸の一定量を京都に確保し、その他は絹織物も含め問屋を介さず自由売買とする
2.諸国から集めた物資はすべて江戸問屋に集積し、それから開港場に送る
3.江戸・大坂・京の商人・職人を監視し、物流を掌握する
という3つの案を考えた。
1案は勘定奉行の提案。勘定奉行は以前から生糸の物流を差配していた京の問屋に対して批判的で、この機会に生産地に決定権を写そうとする物だったようだ。
2案は江戸町奉行による物。これは江戸を差配する町奉行からすると、江戸から物が無くなると町人が騒動を起こすので、それを防止する観点からこういう案になったと考えられる。
3案が今回のネタ主である後藤家による物であった。後藤家は「幕府御用達」という家柄から来た自負から、自らが三都の商人の監視人となり、生糸や織物の物流を把握できると思っていたようだ。
横山氏コラムによると、
この後後藤家は自案を実現すべく、井伊直弼の彦根藩に根回しする。しかし後藤案が三都の商人に今ひとつ受けが悪いという空気を読むや、提案の対象を京の1カ所のみに絞り、今度は手代親子を工作員として京都町奉行に根回しした。
…と言う工作が功を奏したのか、井伊直弼は1,2案を却下し、3案を採用することにした。
横山氏によると、この頃(安政6年)西陣の機屋の休業が相次いだがこれは反井伊派の多い水戸藩に同調したからだという噂も、後藤家の案を採用するきっかけになったという。また本来この手の命令は京都所司代によって出される物だが、この時は井伊直弼の直書で命じられたという。
しかし、後藤案の遂行については京都町奉行から疑念が出されていたようだ。後藤案が内々に打診されたとき「(京の呉服屋には、徳川よりも古い)足利時代からの由緒を申し立てて後藤に随わない者もいるかも」と懸念の意が示されていた。
一方、取り締まられる側の一つであった越後屋三井家は「(幕初の由緒にすがり)町人の心を忘れ、武士のように心得、毛の生えぬ侍の真似をして暮らす」(『町人孝見録』)と後藤家のことを酷評していたという。
安政6年(1859年)12月28日、後藤案は実行に移された
…が、万延元年(1860年)正月には、その後藤家から「織職の救済対象者が多く、とても私の力の及ぶところではない」と幕府に3万両の借金の願いを出すというていたらくだった。
結局後藤家は案を実行することすらできず、万延元年3月3日、井伊大老暗殺。
後藤家が工作員として京都町奉行の元に出入りさせていた手代の子も心労が祟ったのか病死し、後藤案はうやむやの内に廃案になったらしい。
横山氏のコラムでは、この後の後藤家についての記述はないのだが、
・同業者(三井家)からも「(後藤家は)町人の心を忘れている」と酷評されていること
・実際、自分で提案した案をまともに実行できないほど実力がないことがばれてしまったこと
等から考えて、明治維新後は没落してしまったのではないかという推測はあながち外れではないと考えている。
個人的に目が止まったのは、井伊直弼が幕府役人の出した1案、2案ではなく御用商人・後藤家の案を採用し、自ら直書を出すほど推進していたという点。地元彦根藩への工作があったからというのもあるのだろうが、井伊直弼と言う人物個人に注目してみると
・当時隆盛していた煎茶ではなく、抹茶に傾倒していた(自分で茶道の教本まで書いていたレベル)
・部屋住の時代から国学に傾倒していた(ちなみにこの時の教師が後にブレーンとなる長野主膳というのは有名かと)
など、古典主義というか復古主義の傾向が見られる。実際大老になったときの政策も幕府創始期のやり方を真似てたしね(^^;)その結果暗殺されてしまうのだが…
そういう古典主義者の井伊直弼には、当時の商習慣にのって考えられた1案、2案よりも、これまた古くからの幕府の馴染みである後藤家が商人を取り仕切るというのが一番ツボにはまったのではないかと、私には思われる。
それにしても大老に取り入って生糸問屋・呉服屋の頂点に君臨しようとした後藤家。
幕末には先述の三井家の酷評で分かるように同業者からも浮き上がり、「幕府御用達」という立場から庶民からも遠い存在だったことは間違いないだろうが、幕府草創期の全盛時代を「開国インフレ」という非常事態を利用してまでも、何とかしてリバイバルさせたかったんでしょうねえ…(-_-;)
大橋局と「視聴草」
「後藤庄三郎由緒書」と「呉服師由緒書」1
「後藤庄三郎由緒書」と「呉服師由緒書」2
幕府の威光をバックに、恐らく大変な大金持ちであったろう後藤家だが、その後裔に当たるような店も調べた限りでは見あたらず、
江戸時代に繁栄した呉服屋の多くは、明治以降は百貨店業に転じたところが多いように思うのですが(越後屋→三越、松阪屋、伊勢丹、高島屋、大丸など)、後藤家が百貨店業に転じたという話は存じません。おそらく幕府御用商人という立場から考えて、明治維新と共に没落したのでしょう。と勝手に推測して締めくくった
が
後藤家のその後について書かれたコラムを見つけた。
日本史の森をゆく(中公新書)
これに所収された「江戸五品廻送令を再考する」(横山伊徳)で、幕末の後藤家について言及されている。
まずは「江戸五品廻送令」についてはこちら
前掲の横山コラムによると「幕府が江戸問屋を使って外国貿易統制を企てたものとして、幕府と江戸問屋との親和性を示していると考えられている。」(p.172)とする。
しかし横山氏によると、五品廻送令の前に、大老・井伊直弼がこれとは異なる輸出規制策を考えていたのだという。
突然の開国によって日本国内では急激な物不足とインフレが起こったのは有名な話だが、これに対して幕府は
1.生糸の一定量を京都に確保し、その他は絹織物も含め問屋を介さず自由売買とする
2.諸国から集めた物資はすべて江戸問屋に集積し、それから開港場に送る
3.江戸・大坂・京の商人・職人を監視し、物流を掌握する
という3つの案を考えた。
1案は勘定奉行の提案。勘定奉行は以前から生糸の物流を差配していた京の問屋に対して批判的で、この機会に生産地に決定権を写そうとする物だったようだ。
2案は江戸町奉行による物。これは江戸を差配する町奉行からすると、江戸から物が無くなると町人が騒動を起こすので、それを防止する観点からこういう案になったと考えられる。
3案が今回のネタ主である後藤家による物であった。後藤家は「幕府御用達」という家柄から来た自負から、自らが三都の商人の監視人となり、生糸や織物の物流を把握できると思っていたようだ。
横山氏コラムによると、
この後後藤家は自案を実現すべく、井伊直弼の彦根藩に根回しする。しかし後藤案が三都の商人に今ひとつ受けが悪いという空気を読むや、提案の対象を京の1カ所のみに絞り、今度は手代親子を工作員として京都町奉行に根回しした。
…と言う工作が功を奏したのか、井伊直弼は1,2案を却下し、3案を採用することにした。
横山氏によると、この頃(安政6年)西陣の機屋の休業が相次いだがこれは反井伊派の多い水戸藩に同調したからだという噂も、後藤家の案を採用するきっかけになったという。また本来この手の命令は京都所司代によって出される物だが、この時は井伊直弼の直書で命じられたという。
しかし、後藤案の遂行については京都町奉行から疑念が出されていたようだ。後藤案が内々に打診されたとき「(京の呉服屋には、徳川よりも古い)足利時代からの由緒を申し立てて後藤に随わない者もいるかも」と懸念の意が示されていた。
一方、取り締まられる側の一つであった越後屋三井家は「(幕初の由緒にすがり)町人の心を忘れ、武士のように心得、毛の生えぬ侍の真似をして暮らす」(『町人孝見録』)と後藤家のことを酷評していたという。
安政6年(1859年)12月28日、後藤案は実行に移された
…が、万延元年(1860年)正月には、その後藤家から「織職の救済対象者が多く、とても私の力の及ぶところではない」と幕府に3万両の借金の願いを出すというていたらくだった。
結局後藤家は案を実行することすらできず、万延元年3月3日、井伊大老暗殺。
後藤家が工作員として京都町奉行の元に出入りさせていた手代の子も心労が祟ったのか病死し、後藤案はうやむやの内に廃案になったらしい。
横山氏のコラムでは、この後の後藤家についての記述はないのだが、
・同業者(三井家)からも「(後藤家は)町人の心を忘れている」と酷評されていること
・実際、自分で提案した案をまともに実行できないほど実力がないことがばれてしまったこと
等から考えて、明治維新後は没落してしまったのではないかという推測はあながち外れではないと考えている。
個人的に目が止まったのは、井伊直弼が幕府役人の出した1案、2案ではなく御用商人・後藤家の案を採用し、自ら直書を出すほど推進していたという点。地元彦根藩への工作があったからというのもあるのだろうが、井伊直弼と言う人物個人に注目してみると
・当時隆盛していた煎茶ではなく、抹茶に傾倒していた(自分で茶道の教本まで書いていたレベル)
・部屋住の時代から国学に傾倒していた(ちなみにこの時の教師が後にブレーンとなる長野主膳というのは有名かと)
など、古典主義というか復古主義の傾向が見られる。実際大老になったときの政策も幕府創始期のやり方を真似てたしね(^^;)その結果暗殺されてしまうのだが…
そういう古典主義者の井伊直弼には、当時の商習慣にのって考えられた1案、2案よりも、これまた古くからの幕府の馴染みである後藤家が商人を取り仕切るというのが一番ツボにはまったのではないかと、私には思われる。
それにしても大老に取り入って生糸問屋・呉服屋の頂点に君臨しようとした後藤家。
幕末には先述の三井家の酷評で分かるように同業者からも浮き上がり、「幕府御用達」という立場から庶民からも遠い存在だったことは間違いないだろうが、幕府草創期の全盛時代を「開国インフレ」という非常事態を利用してまでも、何とかしてリバイバルさせたかったんでしょうねえ…(-_-;)