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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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本日の更新関連のネタです。


ウィキペディアでこういうネタがあったのは以前から知っていたので、必死になって『鹿児島県史料』をあさっていたら



何年も前に見た箇所のすぐ前のページに問題の系図が載ってた_| ̄|○

ということで、やっと自分の目で系図の確認を取ったので、今回の更新となりました。以前自分で史料見ずに人の本をあてにして更新して痛い目にあったので、今回は慎重になったのだ。

いくつか今回の更新に当たっての補足など

拍手[1回]


・一の台は島津義久の「正室」か?
私はまだ現時点では一の台=島津義久3人目の正室とは言えない、という説を採ります。
一番の理由は 領地 です。
一の台は1000石という奥女中としては桁外れの領地をもらっています(普通は数十石、多くても数百石が関の山)
が、文禄検地後?に書かれたと思われる史料(「旧記雑録後編」2-1548)では

壱萬貳千八百石 義久・兵庫頭内儀かた

という記述が見えます。
もし義久の正室(”義久内儀”)が一の台だとすると、義弘の内儀(広瀬氏宰相殿)は差し引き11800石を領地として持っているという計算になりますが、あまりにもバランスが悪すぎます。
ちなみにこの時の検地で義久の蔵入り地は6万石、義弘も同じく6万石となってます。

もう一つの理由は、この1000石の領地を一の台の養子が相続していることです。一の台が義久の正室ならば、この領地は島津本宗家の蔵入り地として接収されるかと思われます。

・「一の台」とは何者か 再び
前回の考察で、「一の台」と名乗っている人があちこちにいるという話をしました。
ところで、この時代の奥女中は、宮中の女房に習った物か、官名を候名とした人が多かったように思われます。淀殿の乳母「大蔵卿局」、徳川秀忠らに仕え100歳オーバーまで生きたらしい?土佐一条兼定女「按察使局」、拙ブログのネタである島津家でも「兵部卿局」「右衛門督」などです。
ところが、「一の台」は見た感じでは官名とは関係ないようです。また「台」というのは「御所(摂関家などの正室の尊称)」と関係のありそうな印象を受けます。しかし、徳川家康の例を見ると、序列はトップではないようです。
ここで気になるのが、島津勝久女が「一台役を務め」とあり、また今回のネタである国上時通女も「一之臺と為って公(=義久)に奉し」とある点です。どうも「一の台」とは単なる候名ではなく、奥女中のある役割を示した普通名詞なのではないでしょうか。
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