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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
先日『北海道戦国史と松前氏』という本を読了した。
松前氏こと蠣崎氏と言う大名を一般向けに説明した本としては初めての物なのではないだろうか。
アイヌとの微妙な関係とか、松前藩公式史料に載っている創始期の記述はuso800とか(爆)なかなか興味深い内容でした。

ところでこの本の前書きで、著者の新藤透氏は江戸時代の松前の殿様に関する興味深いエピソードを紹介している。
どの藩主か分からないが、薩摩藩主の島津重豪に、先代藩主伊達候の前で「エゾ大王」呼ばわりされ、「恥辱」に思ったというエピソードがある(山田三川『三川雑記』)
p.10
新藤氏は重豪に公の場で揶揄されてしまったというかわいそうな松前藩主について「どの藩主か分からない」としている。
確かに島津重豪は名前の通りの豪傑で、89才で死ぬ直前までぶいぶい言わせてた(^^;)殿様ではあるが、その生きてた時代とかぶっている松前の殿様を挙げていったら何となく該当者は分かるんではなかろうか。

では、重豪の生きてたころにかぶってた松前藩主の名前を列挙してみましょう。

島津重豪:1745年11月29日~1833年3月6日
 このうち江戸で暮らしていたのは1754~ 藩主在任は1755~1787

重豪と不幸にしてかぶったと思われるヾ(^^;)松前氏当主
・松前邦広:1705~1743 このうち藩主在任年1721~1743
・松前資広:1726~1765 このうち藩主在任年1743~1765
・松前道広:1752~1832 このうち藩主在任年1765~1792
・松前章広:1775~1833 このうち藩主在任年1792~1833

このうち邦広は重豪の東上より前に死んでるので除外。
残るは3人だが、
資広は重豪より20才近く年上なんで、いくら石高で島津氏が上と言ってもここまで無茶苦茶言えるかなと。
章広は1799年に東蝦夷地を幕府に没収され、1807年には正式に陸奥国に転封されてしまうと言う目に遭っており、いくら冗談でも「蝦夷地の王様」と言える状態ではなくなっていた。
最後の道広だが、(wikipedia情報で悪いのだが)あの一橋治斉や島津氏、伊達氏と派手に交遊していたという。更に一橋治斉は島津重豪の岳父にも当たる。これらからみて道広は島津重豪と親しかったと推定され、重豪に「や~いエゾ大王!」ヾ(^^;)と言われてもおかしくない状況にあったと思われる。

ところで、北のアヤシイ殿様ヾ(^^;)が松前氏なら南のアヤシイ殿様が島津氏であることに異論のある人はいないだろう。松前氏がアイヌを介した北方貿易で利益を上げていたのに対し、島津氏は琉球を介した中国との密貿易で稼いでいたのであった。
なんで、島津重豪は松前道広のことをこんな風に笑いものにできる立場にないと思うんだが…。

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三笠宮様が昨日お亡くなりになられました。
超高齢(100歳)だったので、いつこの日が来てもおかしくはなかったのですが、改めて「昭和は遠くなりにけり」という感を強くしました。
殿下とは直接会ったことはないのですが、三笠宮家にはちょっと縁があったりした???ので何かしんみりしております。

拙ブログ的には表題にもした「若杉参謀」とあの熱すぎる男?津野田少佐の「東條英機暗殺未遂事件」での絡みでちょっと出てこられました。あの事件に関して三笠宮様の証言はころころ変わっているようなんですが、結局真相は黙ったままあの世に行かれたような気がします。

長寿を全うされたので、兄上の秩父宮殿下ほど人生に悔いはないと思いますが、子どもの殆どに先立たれたのは残念に思っておられたかと察します。

こんな場末のブログで改めて書くのも何ですが、ご冥福を祈りたいと思います。

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幕末ヲタの人には、現在も京都市上京区の同志社大学の近所にある相国寺という寺が島津家にゆかりのある寺というのは常識の話かと思う。ちなみに同志社大学は旧薩摩藩邸跡に建っている(薩摩藩邸→山本覚馬邸→同志社、と言う経緯)。あ、この辺も常識かf(^_^;)
拙ブログでも、前の記事でこういう話を紹介させていただいた。

ところが今回別件の検索で、相国寺と島津家の縁は江戸時代初頭までにまでさかのぼるという話を見つけた。余り知られていないことかと思うのでご紹介。



相国寺の公式HPではこう紹介されている。
林光院は、足利三代将軍義満の第二子、四代将軍義持の弟義嗣(林光院殿亜相考山大居士)が、応永二十五年(1418)一月、二十五歳で早世され、その菩提を弔うため、夢窓国師を勧請開山として京都二条西ノ京、紀貫之の屋敷の旧地に開創されました。
(中略)
慶長五年(1600)関ヶ原の戦いのとき、島津義弘が両陣営の中央を突破し伊賀に隠れました。かつてより親交の厚かった大阪の豪商田辺屋今井道與が潜伏先に急行し、困難極まる逃避行を実行して、堺港より乗船させ、海路護送して無事薩摩に帰国させます。
この抜群の功により、薩摩藩秘伝の調薬方の伝授を許されました(現在の田辺製薬の始まりです)。後に道與高齢となり、薩摩まで義弘に会いに行けなくなると、義弘は自ら僧形の像を造り道與に与えます。道與は住吉神社内に松齢院を建築し、その像を祀ります。義弘没後は位牌も添えられますが、松齢院が後に疲弊したとき、道與の嫡孫乾崖梵竺が林光院五世住職となり、義弘の像と位牌が林光院に移され、島津家により遷座供養が修行されました。以降、薩摩藩との関係ができ、現在、林光院墓所に薩摩藩士の墓があり管理しているのはこれによります。
http://www.shokoku-ji.jp/img/sanpai_img/s/rinkoin.html
文中に出てくる「義弘僧形の像」って言うのはこれのコピーなのかしら。
さて、堺で島津義弘をかくまった商人・田辺道与は義弘マニアなら知ってなければモグリの人物だと思うが、あの田辺製薬(現「田辺三菱製薬」)の元になっているという話は初耳。社史でも記載されてないようなんだが…去年博物館ができたそうなので、そこに行ったら知っている人がいるかも?!

さて上記に記載されたように、この林光院は「紀貫之邸だったころから伝領している鶯宿梅」という梅の名木を持っていることで知られており、あの島津家久も参勤交代の時に訪れて一首ひねっていた
 うぐいすの春待宿の梅がえを おくるこころは花にぞ有哉
 (http://www.shokoku-ji.jp/h_siryou_ume.html)
念のために書いておくが、この島津家久は中書家久じゃなくて、忠恒の方である。残念(ヲイ)

ところで、この林光院だが非公開寺院_| ̄|○
まあ、養源院といい、相国寺は非公開寺院がほとんどなんだが…
検索中にこんなツアーを見つけたのだが、開催年をよく見ると、去年であった⊂(。Д。⊂⌒`つ

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先日、再来年(2018年)の大河のネタが発表されましたが、なんと「西郷隆盛」だそうです
西郷隆盛は『翔ぶが如く』で既にネタになっていますが、20年以上経っていると言うことで再登場OKということなんでしょうか。
しかし2018年版大河の原案が林真理子氏と言う話を聞くと、非常に不安の方が大きいですヾ(--;)



ということで
本日のネタは今年の大河ドラマで山本耕史氏の熱演が話題のあの方関連のお話です。

最近、『武将の末裔』と言うムックを読み、続編の『武将の末裔 平成の陣』も見たのだが
続編の方に「石田三成の子孫」という方が登場していた。
2015年に東京で行われた『大関ヶ原展』関連のシンポジウムでギャラリーの一人として登場し、それがきっかけとなったのか、後日木下延俊の末裔(日出藩木下家当主)や大谷吉隆の末裔らと座談会をした石田秀雄氏と言う人物である。
石田秀雄氏の言によると、
三成の長男・重家の末裔であり、妙高で庄屋を務めていたが、明治維新後東京に上京、八王子で暮らしていたところ、第2次世界大戦末期の八王子空襲で代々の家宝や由緒書など一切を失い、現在出自を証明する物は所有されてないという。

ところで、近年(と言っても20年ぐらい前くらいからのように記憶するが)「石田三成の子孫」を名乗る人が結構出て来たように思う。
史料的にもはっきりしているのは、津軽家に庇護された三成の次男の子孫であり、ここが三成マニアヾ(^^;)にも一番有名な末裔かと。なお、津軽家自身も三成の女系の子孫だったのだが、幕末に養子が入って血縁は絶えている。
20年ぐらい前から石田三成に関する本を新人物往来社からたくさん出版した白川亨氏も石田三成の末裔を称されていたそうだが、系譜は管見では公表されていたのを知らないので不明。
近年雑誌などで良くお見かけする「三成末裔」と言えば石田多加幸氏が有名かと。先述の三成の次男の末裔らしいが、wikipediaによると次男系の系図には関係人物が掲載されてないらしい(苦笑)

近年「石田三成の末裔」の露出が増えてきた背景には
 「三成の見直しが進んだから」
と言う事情があるだろう。
私の記憶が確かならば、昭和50年代まで三成のイメージは良い物ではなかった。大河ドラマ『おんな太閤記』ではあの鹿賀丈史が淀殿@池上貴美子とタッグを組んでねね@佐久間良子を窮地に陥れる悪役を毒々しく演じていた(爆)が、これがそれまでの一般的な石田三成像でもあった。
ところがその頃から司馬遼太郎『関ヶ原』で三成は「くそまじめな忠義の家臣」として描かれるなど、イメージが変わり始める。ちなみにこの話はその後TBSでスペシャルドラマ化されたが、三成を演じたのはあの加藤剛だった。
とどめがゲーム。特に『戦国無双』で三成のビジュアルがえらいことになったことで、女性に人気急上昇、現在まで続く「歴女」ブームの原因にもなったのではと思われる(爆)

近年のこういう石田三成人気の上昇で、子孫の方も出やすくなったのが「石田三成末裔」の大量出現ヾ(^^;)につながっているのではないだろうか。



拙ブログ関連ネタ
「小西行長に子孫っているの?」 その1 その2

関係有るようで無いかもしれないニュースヾ(--;)
歌手・プリンスの死後に親族が700人も出て来たという件




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先日NHKBSプレミアムで放送された「英雄たちの選択 加藤清正 熊本築城」を拝見したのだが、それにVTR出演されていた八代市立博物館学芸員の林千寿氏が
「加藤清正は独自の構想を持っていたから、関ヶ原の合戦の時に本戦に参加しなかった、それは豊臣秀頼のために九州に独自の勢力を築こうとしたから 島津家にも徳川と和平を結ばせようとしているのはその表れ」
と言う事を言ってられたのだが、こういう書状を知っていると「え~ご冗談を」ヾ(^^;)としか思えないです…
というか、清正が島津家と徳川家の間を取り持ったという証拠or論文を誰か御教示御願い致しまする。

それでは本日のネタにまいる。


戦前の神戸のお大尽の御殿を一瞬の差?で見逃したのが余りにも悔しくて、
前から見に行きたかったんだけどなかなか見に行けなかった「ここ」をリベンジついでに見に行くことを決意する。

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