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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
『平清盛』保元の乱が終了したのですが、この数回はダントツに面白かったです。
えー一番の見所は機動戦士Tametomo…じゃなくてヾ(^^;)山本耕史さんの藤原頼長かな?山本さんの素とは真逆のキャラでしたが、やってくれるとは思ってましたがここまでとはね。
低視聴率ということは見てない人の方が多いということですが、もったいないなー。


さて、このドラマの前半のキーの一つであった「藤原摂関家と清和源氏」。
大河『平清盛』では
源氏は摂関家御用達の侍だったのですが、将来への意見の対立から摂関家に近い父・為義と摂関家を見限った長男・義朝で分裂、また義朝の兄弟の多くが為義につき、当時の摂関家当主(藤氏長者)だった藤原頼長の味方をするのですが、頼長側(崇徳上皇側)はあっけなく敗北。結果源氏は義朝を除くほとんどが戦死・刑死し、源氏の勢力は一気に後退。これにより自由に動かせる武力を失った摂関家も衰退していったのでした…。
…という描かれ方をしてたと思うのですが、合ってるかな(^^;)

実はここからが拙HP+ブログにもちょっと関わってくる話。
島津家は自称「源頼朝の隠し子の末裔」…なのですが、こんなの嘘っぱちにきまっとるわい!というのが研究者の通説になっており、私も同意してます。
では、本当の起源はどうなのかというと、これがまともな史料が無くて余り分からない…その乏しい史料の中研究された方がいまして、  研究成果はこれらの本にまとまってます。
簡単に説明しますと
・島津氏は源頼朝の隠し子の末裔じゃないよ
・この人の養子になった!…と言われている惟宗広言も先祖じゃありません
・通字から見ると惟宗忠康がほんとのご先祖
・惟宗氏は渡来人の秦氏の末裔なんで源氏でもないし藤原氏でもないのです
元々は摂関家に仕えるお侍だったのです ←ここ重要
・忠久が鎌倉幕府から薩摩+大隅守護に任命されたのも、そもそも摂関家が持っていた島津荘(日向国)の代官で南九州に縁があったからなのです

…で、やっと今回の本題になるのですが(^^;)
では島津さんはいつ頃から藤原摂関家に仕え始めたのでしょう?
清和源氏と一緒に仕えていたのか?それとも前出のように保元の乱で源氏が弱体化した後に仕え始めたのか?
…やっぱりこの辺も史料ないのかなあ…

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近衛基通?
こんばんわ。後北条江戸衆の島津氏とつながるかと思い「惟宗忠久」で検索してみたところ、国会図書館のWebアーカイブで以下の文章がありました。

『基通の摂関在任の時期と、忠久の諸職補任が一致することを、三木著の『薩摩島津氏』は指摘し、度々の補任の背後には、常に、基通の鎌倉への影響があったと考察』

リンクはコメント者URLに入れました。ご存知だったら恐縮ですが……。
高村 URL 2012/06/15(Fri)01:01:35 編集
無題
コメントありがとうございます。

実は『薩摩島津氏』持ってたりします(汗)
かなり古い本なので、コピーしたのですが…。

基通+忠久以前がよく分かってないんですよね。それにしても貴族の家来が鎌倉幕府の御家人も兼ねていた?というのは珍しい例かも知れません。

ちょっと調べたら近衞基通って今年の大河のキーマンになる人物のようですね。ちゃんと出してくれるかな。今の調子なら期待できそうですが。
ばんない 2012/06/15(Fri)22:58:41 編集
惟宗忠国
こんばんわ。もう少し深くWebを探してみました。

もしかしたらこちらも既知かも知れませんが、東大史料編纂所のDBで近衛家実の猪隈関白記を「惟宗」で検索したところ、1198(建久9)年に家司中原師親の部下っぽい「下家司」として「惟宗忠国」が出てきました。中原親能・広元らと同じく官吏系人材として関東に送り込まれた可能性がありそうです。平知盛舅の惟宗信房系統とは違うのかなと(こちらは対馬宗氏祖)。

宝治合戦で毛利(中原・大江)季光と島津(惟宗)忠久が連携したのもこの因縁があったのかと思います。

面白くなって書き込んでしまいました。東の方の話ばかりで恐れ入ります。
高村 URL 2012/06/17(Sun)01:32:08 編集
薩長同盟
重ね重ねのコメントありがとうございます。
実はこれだけ書いておきながら、続きをサボって全く調べてない(汗)高村様にはお手数かけさせて申し訳ございません…。

>東大史料編纂所のDBで近衛家実の猪隈関白記を「惟宗」で検索したところ、1198(建久9)年に家司中原師親の部下っぽい「下家司」として「惟宗忠国」が出てきました。中原親能・広元らと同じく官吏系人材として関東に送り込まれた可能性がありそうです。
近衛家の家来の家来ですか。

>平知盛舅の惟宗信房系統とは違うのかなと(こちらは対馬宗氏祖)。
鎌倉幕府と親和性が強そうですから、平家に近い対馬宗氏のご先祖とは系統は違うっぽいですね。

>宝治合戦で毛利(中原・大江)季光と島津(惟宗)忠久が連携したのもこの因縁があったのかと思います。
さしずめ800年前の薩長同盟と言う所でしょうか(汗)。もっともこの時の毛利氏の領土は近所の安芸国のようですが。
あと宝治合戦(1247年)に島津忠久が参加したという話は初めて知りました。島津側の公式史料では1227年死去となっています。
ばんない 2012/06/18(Mon)00:35:38 編集
訂正します
いい加減な情報を入れてしまいました。忠時の娘が三浦家村の後室だったのを早合点していました。吾妻鏡を再読したところ、島津氏は縁座していませんでした。

不慣れな時代と氏族とはいえ、大変失礼しました……。
高村 2012/06/18(Mon)10:23:39 編集
訂正します
いい加減な情報を入れてしまいました。忠時の娘が三浦家村の後室だったのを早合点していました。吾妻鏡を再読したところ、島津氏は縁座していませんでした。

不慣れな時代と氏族とはいえ、大変失礼しました……。
高村 2012/06/18(Mon)19:47:29 編集
宝治合戦
訂正のコメントありがとうございます。実は私も鎌倉時代はさっぱりなのです(汗)

ただ、検索してみると「宝治合戦と島津忠久が関係している」という情報が結構ヒットします。
どうも、伝・忠久の墓が鎌倉にあること、その前の比企氏の乱で忠久が思いっきり連座したことなどが混同されているように思われます。
ちなみに、伝・忠久の墓やその近くにある伝・源頼朝の墓を整備したというのが、江戸中~後期の島津家当主だった島津重豪という…ちょっと胡散臭い人です(汗)ご存じでしたらご容赦を。
ばんない 2012/06/19(Tue)23:38:36 編集
島津重豪
『まいない鳥』の方ですよね、確か。経済史絡みで田沼意次をちょっと調べた時に賄賂キングは実はこの人という紹介のされ方をしていましたっけ。

頼朝の墓前で自死した毛利季光に、始祖忠久の墓をセットすることでご落胤説を補強しようとしたのかも。ネット上にうっすら残っているのはそのせいでしょうか。って、私もまんまとやられたクチですが……。
高村 URL 2012/06/24(Sun)22:38:08 編集
まいない鳥
高村様、コメントありがとうございます。

まいない鳥のイラスト、先日偶然にTVで拝見しました。いわゆる最近流行の歴史バラエティ系の番組でしたが。いやはや、しっかりでっかく島津家の紋が入っていました。
何故あれが田沼意次を皮肉った物になるのか不思議ですが、それよりよく将軍御台所の実父をあからさまに非難したなあと、そちらの方に感心してしまいました。
ばんない URL 2012/06/26(Tue)00:16:33 編集
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