拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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気になるのは末尾の宛先。
「羽柴薩摩侍従」は島津義弘、
「嶋津修理大夫入道」は島津義久
を指しているのは明白なのだが、
(1)義弘の方が宛先の筆頭に据えられている点
(2)宛先が義弘・義久連名である点
(3)義久の苗字が「羽柴」でなく「島津(嶋津)」である点
が注目点かと。
(1)は拙ブログの関連記事(この記事の末尾にリンクがあります)でも匂わせているが、豊臣政権的には義弘を島津家当主と見なしていた事の証拠なのだろうか。
(2)は(1)と矛盾するが、豊臣政権はやっぱり義久の当主権もある程度は認めていたのだろうか。
(3)は「羽柴」苗字は義弘限定で与えられたものなんでしょうか(当たり前と言えば当たり前か?)他の大名家ではどうなっていたのか気になるところ。
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私的にははっきり言って本文の内容はどうでもいいです(ヲイ)「正文在文庫」
急度染筆候、中納言山中城へ今日廿九日執懸、即午刻乗崩、城主之事者不及申、首千余討捕、其外追打不知数候、然者明日朔日、箱根山峠へ為陣取、到小田原表可手遣候条、落去不可有程候、尚追〃吉左右可申聞候也、
「天正十八年」
三月廿九日 ○「御朱印」
羽柴薩摩侍従とのへ
嶋津修理大夫入道とのへ
(「薩藩旧記雑録」後編2-662)
気になるのは末尾の宛先。
「羽柴薩摩侍従」は島津義弘、
「嶋津修理大夫入道」は島津義久
を指しているのは明白なのだが、
(1)義弘の方が宛先の筆頭に据えられている点
(2)宛先が義弘・義久連名である点
(3)義久の苗字が「羽柴」でなく「島津(嶋津)」である点
が注目点かと。
(1)は拙ブログの関連記事(この記事の末尾にリンクがあります)でも匂わせているが、豊臣政権的には義弘を島津家当主と見なしていた事の証拠なのだろうか。
(2)は(1)と矛盾するが、豊臣政権はやっぱり義久の当主権もある程度は認めていたのだろうか。
(3)は「羽柴」苗字は義弘限定で与えられたものなんでしょうか(当たり前と言えば当たり前か?)他の大名家ではどうなっていたのか気になるところ。
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豊臣姓
羽柴姓は義弘が天正16年、義久が天正18年に下賜されたことになってます。
ウィキペディアだからザックリ年度しか解らないけど^^;
豊臣姓は義弘にだけ。
当主と嫡男に豊臣姓下賜って基準かなぁ~
と思ったら、陪臣クラス(愛の人とか)にも下賜してる。
家中分断したい・ヘッドハンティングしたい陪臣にも下賜してる感じ?
毛利だと本家・分家(両川)・家臣(複数)にも下賜。
肥前だと竜造寺と鍋島の両方に下賜。
時期は竜造寺の方が先で、鍋島親子は後。
肥前関連データ収集中なんで、このあたりは興味深いです。
大友と立花が同年に豊臣姓下賜されてる。
昇殿も大友より立花が先だったし、秀吉は立花を親豊臣に仕立てようとしてたみたいですね。
伊達家は政宗は下賜されてない・・・謀反の疑いで言い訳ばっかりしてたからか?(息子は下賜)
相良頼房・伊東祐兵が1599年下賜されたのは朝鮮の役の功績からみだと思います。
もっと細かく調べれば面白いと思うけど、手元には資料ないので、この程度しか解らないです^^
ウィキペディアだからザックリ年度しか解らないけど^^;
豊臣姓は義弘にだけ。
当主と嫡男に豊臣姓下賜って基準かなぁ~
と思ったら、陪臣クラス(愛の人とか)にも下賜してる。
家中分断したい・ヘッドハンティングしたい陪臣にも下賜してる感じ?
毛利だと本家・分家(両川)・家臣(複数)にも下賜。
肥前だと竜造寺と鍋島の両方に下賜。
時期は竜造寺の方が先で、鍋島親子は後。
肥前関連データ収集中なんで、このあたりは興味深いです。
大友と立花が同年に豊臣姓下賜されてる。
昇殿も大友より立花が先だったし、秀吉は立花を親豊臣に仕立てようとしてたみたいですね。
伊達家は政宗は下賜されてない・・・謀反の疑いで言い訳ばっかりしてたからか?(息子は下賜)
相良頼房・伊東祐兵が1599年下賜されたのは朝鮮の役の功績からみだと思います。
もっと細かく調べれば面白いと思うけど、手元には資料ないので、この程度しか解らないです^^
無題
時乃栞様、詳細な情報ありがとうございます。
>羽柴姓は義弘が天正16年、義久が天正18年に下賜されたことになってます。
>ウィキペディアだからザックリ年度しか解らないけど^^;
>豊臣姓は義弘にだけ。
それが、私の管見では義久が「羽柴」姓で書かれている文書を見たことがないのですよ
>当主と嫡男に豊臣姓下賜って基準かなぁ~
>と思ったら、陪臣クラス(愛の人とか)にも下賜してる。
>家中分断したい・ヘッドハンティングしたい陪臣にも下賜してる感じ?
>毛利だと本家・分家(両川)・家臣(複数)にも下賜。
>肥前だと竜造寺と鍋島の両方に下賜。
>時期は竜造寺の方が先で、鍋島親子は後。
豊臣秀吉十八番の家臣分断策なんでしょうか?”愛”の方は上杉領の中にあった秀吉の蔵入り地の管理人だったという話も聞いたことがあるのでその関係なんでしょうか?
>大友と立花が同年に豊臣姓下賜されてる。
>昇殿も大友より立花が先だったし、秀吉は立花を親豊臣に仕立てようとしてたみたいですね。
おそらくそうでしょうね。実際関ヶ原の合戦では西軍で大活躍したのでその策は成功した…のですが、本戦には参加できず、しかも西軍負けちゃいましたから、結果論ですが宗茂にとっては不運な出世になってしまったかも。
>伊達家は政宗は下賜されてない・・・謀反の疑いで言い訳ばっかりしてたからか?(息子は下賜)
ぎゃはは まーくんあからさまにやられてますね(^^;)
そういえばこの辺、論文か本が出ていたような…と思って調べたら、その論文ネットで見られた_| ̄|○
http://ci.nii.ac.jp/els/110007003055.pdf?id=ART0008918107&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1339427055&cp=
確かにこの論文では義久も天正17~文禄4年の間に羽柴姓をもらったとしてますねえ…謎。
※追記
義久の羽柴姓下賜の時期、上記論文の末尾に一覧表があって、自己解決しました。お騒がせしました。
>羽柴姓は義弘が天正16年、義久が天正18年に下賜されたことになってます。
>ウィキペディアだからザックリ年度しか解らないけど^^;
>豊臣姓は義弘にだけ。
それが、私の管見では義久が「羽柴」姓で書かれている文書を見たことがないのですよ
>当主と嫡男に豊臣姓下賜って基準かなぁ~
>と思ったら、陪臣クラス(愛の人とか)にも下賜してる。
>家中分断したい・ヘッドハンティングしたい陪臣にも下賜してる感じ?
>毛利だと本家・分家(両川)・家臣(複数)にも下賜。
>肥前だと竜造寺と鍋島の両方に下賜。
>時期は竜造寺の方が先で、鍋島親子は後。
豊臣秀吉十八番の家臣分断策なんでしょうか?”愛”の方は上杉領の中にあった秀吉の蔵入り地の管理人だったという話も聞いたことがあるのでその関係なんでしょうか?
>大友と立花が同年に豊臣姓下賜されてる。
>昇殿も大友より立花が先だったし、秀吉は立花を親豊臣に仕立てようとしてたみたいですね。
おそらくそうでしょうね。実際関ヶ原の合戦では西軍で大活躍したのでその策は成功した…のですが、本戦には参加できず、しかも西軍負けちゃいましたから、結果論ですが宗茂にとっては不運な出世になってしまったかも。
>伊達家は政宗は下賜されてない・・・謀反の疑いで言い訳ばっかりしてたからか?(息子は下賜)
ぎゃはは まーくんあからさまにやられてますね(^^;)
そういえばこの辺、論文か本が出ていたような…と思って調べたら、その論文ネットで見られた_| ̄|○
http://ci.nii.ac.jp/els/110007003055.pdf?id=ART0008918107&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1339427055&cp=
確かにこの論文では義久も天正17~文禄4年の間に羽柴姓をもらったとしてますねえ…謎。
※追記
義久の羽柴姓下賜の時期、上記論文の末尾に一覧表があって、自己解決しました。お騒がせしました。